第一章 大鵬となるや果して鷹一羽

 慶応・明治という時代は、明治維新(註1)を境として、日本が近代国家に推移してゆ く、その黎明期であった。

 この日本の夜明け、激動の明治維新の直前、明治改元の一年前、慶応三年一月二十六日、 嘉悦鷹は名和長年(註2)の弟、嘉悦悪四郎泰長(註3)を大先祖とする熊本細川藩の名 家である嘉悦家に、父氏房、母久の長女として出生した。

 人間の一生というものは、目に見えない糸がいろいろにはりめぐらされている。鷹の出 生が、こういう時代であったということも、こういう家系の家に生まれたということも、 彼女の人生にいろいろな影響を与えたという点で見落とすことができない。

 生後十日、まだ日も開かずひきつけてばかりいる鷹を、氏房も久も、こんな弱い子がは たして生長できるだろうかと不安であった。

 この時、まだ若妻の久にかわって、鷹の養育に当たろうといいだしたのが、氏房の母で、 熊本実学連の三婆さん(註4)の一人といわれた勢代であった。

「心配しなはらんでよか、わたしがかならず丈夫に育ててみせますばい」

 この一言で折から幕末の熊本藩士として東奔西走していた氏房も、幼い長男博矩をかか えた久も、やっと心を安らげることができた。鷹は祖母勢代の手によって育てられること になった。

 “お婆さん子は三文安”などという言葉があって、甘やかされて育ちがちといわれるが、 三歳の時から孝(鷹)に育てられた筆者などは、まさに三文安の代表であるが、鷹の場合 は、女丈夫の勢代に育てられたことが、鷹の持って生まれた素質をさらに大きく飛躍増大 させた大きな原因であると思われる。

 さて、当時の熊本藩は、保守派が多く、そのため佐幕派が藩の実験をにぎっていた。  だが、宮部鼎蔵を中心とする勤皇派もあり、他の諸藩と同様に藩内に対立抗争があり、 藩の情勢は動揺していた。更に勤皇派には遠く越前の松平春嶽公に招請されて、その侍講、 相談役になった大英才小楠横井平四郎(註5)がいた。この横井小楠先生の実学思想の影 響が、やがて父氏房を通して鷹に伝わるのであるが、ここで少し、祖母勢代と父氏房につ いて語っておこう。

「嘉悦氏房先生は、幼名を市太郎、父を市之亟嘉悦氏、母を勢代子松岡氏とする。松岡氏 は代々細川候御殿医を務め、藩中屈指の名家であり、勢代子はこの富裕家に生まれて、貧 困の嘉悦氏に嫁したが、夫に仕えては貞、子を養っては賢、一家の窮乏が迫り、惨苦に逢 ってもすこしも意に介せず、志操ますます堅かった。このような女丈夫の血を享けた先生 が、親しくその薫育を受けたのであるから、かりに凡庸の子であっても、異彩を帯びるに ちがいないが、まして先生の資性は、旃檀は双葉より芳しといわれるほどであったから、 先生の生涯が光輝ある生彩に満ちたものであったのは、先生の資質・自然の感化とともに、 その半ば以上はこの慈母の賜物であろう。

 先生はやがて熊本藩校時習館に学び、そのかたわら宮部鼎蔵氏に入門して軍学を受講さ れた。この頃、宮部氏門下長鳥三平氏など有学達識の士を、武田家二四将に擬して二十四 名選んだが、最年少の先生もこの中に選ばれておられた。

 また時習館においては、先生は幼年学徒の模範生で、ややもすれば文弱遊逸に流れよう とする者が多いので、先生はこの矯正を考え、元気旺盛な学徒を集めて小桜隊を組織して、 志気の振興につとめられた。」(嘉悦氏房先生伝、筆者要約)

 当時の小楠先生は、佐幕派の多い熊本藩にあって、敢然として尊皇愛国の真意義を説か れ、さらには、世界の大勢を論じて、鎖国論を排して開国の急務なることを主張されてい たために、藩候や藩重役に忌避され、野に下って、私塾を開いて二、三の弟子に学問を教 えておられる不遇の時であった。

 だが、氏房は小楠先生をおいてほかにわが師はないと信じ、密かに沼山津の横井邸を訪 れた。この最初の面接によって、聞きしに優る小楠翁の碩学、気宇拡大なる立論、世界の 大勢をみる明察に驚き、入門の決意を固めたが、正式の入門には父の許しは得られそうに ない藩情であった。

 そこで、叱責を覚悟で母の勢代に相談すると、叱られると思ったのに、母はかえって喜 び、「あなたの先生は、小楠先生しかなかと思うとった。よう決心しなはった。父上のこ とはどぎゃんでんするけん、心配せんちゃよか」

と、大賛成であった。

 勢代は凡庸なキャラメル・ママではなかった。氏房と同様、いやそれ以上に小楠翁が稀 世の俊傑、経世の碩学、日本に数すくない大人物であることを、すでに知っていたのであ る。

 まさに、この母にしてこの子ありという、たぐいまれな母と子であった。

 さて、そこまではよいとして、それからが大変である。

 十八歳の若年の氏房であったが、昼間は時習館の居寮生として、教授を補佐して館主の 指導にも当たらなければならない。

 しかも、小楠翁の熟に通うことは極秘でなければならない。万一、藩候や家老や重役に 知れたならば、父に厳重な処分が下るかもしれないのである。

 他人にはもちろん、父にも秘密である。時習館から帰って、父の寝しずまるのを待って、 小楠先生の許に通う。

 こうした氏房に対して、勢代は毎夜、いろいろな夜なべ仕事をしてその帰宅を待ちうけ、 その夜の小楠翁の説話を、氏房から聞き、母と子はともに小楠翁の学識、達見、抱負経綸 をわが血、わが肉とする努力を日夜重ねたのであった。

 その後、氏房は、小楠門下の三哲あるいは四天王といわれ、熊本実学派の重鎮となった。

 この祖母、この父の血をひき、育てられたのが、鷹であった。

 明治維新の黎明期に生まれた鷹のような俊敏な女性鷹(孝)が、恵まれた環境-という 意味は、経済的にという意味ではない。とくに、この当時の嘉悦家の経済は困窮の底にあ って、勢代の苦労は並みたいていのものではなかったのであって、経済的にはまことに恵 まれざる環境ではあったが、精神的に、そしてこれ以上はないというほど肉身的環境に恵 まれて育ったことは、鬼に金棒というか、まさにこの上ない天恵であったと言えよう。

 人生にはられた目に見えない糸は、祖母も父も鳶でなく鷹であったことによって、鷹(孝) をしてさらに大きな鷹とする機縁となった。

 経済的富裕が、人生の最高であるかのように誤信している現在の風潮を考えるとき、私 は、この点をとくに強調しておきたい。

 目にみえない糸は、機縁という形をとって、肉身に限らず、他人とさえも特種な結合を させるのであるが、それはかならず善因善果・悪因悪果をきたすということに、深く心を 留めたい。

 この祖母、この父母、そしてこの父の師という機縁が、鷹(孝)になかったならば、あ るいは彼女は、光年に到っても鷹のような大きな羽ばたきをすることができなかったので はないか。虚弱にして平凡な女として、その一生を送ったかもしれないのである。

 ともあれ、やがて幼い鷹は、翼を休めて考えたのち、鷹から孝へと変身してゆくので あった。

(註1)明治維新

明治維新を、フランス革命その他の外交のレボリューションと類似のものと考える説があ るが、私はまったく異質なものと考えている。

それらの人々は、プロレタリア革命ではないが、一種のブルジョア革命であるとするが、 これも正しい学説とは言いがたい。

また、封建国家から絶対主義的近代国家への変革という説もあるが、これは形式的には似 ていても、明治維新を性格に把握しているとはいえない。天皇制を形式には維持しておき ながら、政治実権を徳川幕府に委ねていた日本が、西欧列強諸国の日本植民地化の侵攻に 反撥して、自衛のために、天皇ご親政を柱として、国家の近代化を推進したというのが、 明治維新の正しいとらえ方である。

-くわしくは拙著『政治学の基礎的課題』『日本政治の現代的課題』を参照されたい-

(註2)名和長年

 武将。建武の中興の忠臣。伯耆(鳥取県)名和の人。姓は源氏、初名は長高、又太郎と 称す。名和の地頭であった行高の子。一三三三年隠岐島に流されておられた後醍醐天皇を、 弟嘉悦悪四郎泰長に命じて奉迎し、船上山に上り、敵将佐々木清高、同昌網ら三千の兵を 迎え撃ってこれを破る。同年、天皇の京都還幸に供奉して上京。楠正成、新田義貞等と忠 勤をはげみ、建武の中興に大功があった。

(註3)嘉悦悪四郎泰長

名和長年の弟。村上天皇第六皇子の末裔。隠岐島の衛士をしていた時、兄長年を説いて天 皇の御味方を承諾させ、夜陰ひそかに天皇に供奉して隠岐島より小船にて脱走。長年のも とに行幸の供をしたが、のち敵方に発見されて戦死。泰長の子嘉悦土佐守長安は、征西将 軍懐良親王に供奉して九州肥後(熊本県)に下向、益城郡豊福城主となり、建武の中興に 功あり。その子泰行、嘉悦越前守、肥後国芦北郡津奈木城主。次いで長秀、嘉悦飛弾守。 長秀七代の孫、行永。嫡男永田、加藤家ついで細川家士となり千百石を賜う。以後歴代肥 後に住す。

(註4)熊本実学連の三婆さん

実学連というのは、小楠翁の教育思想が、心理、論理の追求という机上学問的なものでは なく、実際に役立つ学問、すなわち、読み書きそろばんといった応用科学を重視すること であったために、こういわれているが、翁の経綸抱負はもっと深遠なものであり、その基 礎に立っての実学振興ということであるが、くわしくは後述する。 三婆さんとは、山田五次郎(武甫)母堂由以子、安場一平(保和)母堂久子、そして勢代 子の三人を言う。

由以子は腮の下に二つのコブシを合わせたくらいの大きな瘤が下がっており、久子は仇名 を賓頭廬といわれ赤ら顔のテカテカした人で、勢代子は片脚が不具であった。 こうして、この三人は気性が雄々しく男優りの女丈夫であるとともに、不思議にもそれぞ れその体躯に異常で異彩である表章をもっていた。

藩士の間に紛争が起ったことを聞いた勢代子が、それっというので駕籠にのって駆けつけ ると、それを伝え聞いた人々は「それ、お勢代さんが来た」といって、すぐ争いを止めた といわれる。

また、明治九年頃、明治政府の施政を斬殺しようとして決起し、その一手が嘉悦家にも向 ったという報を聞いた勢代子は、氏房はじめ家人をすべて裏口から避難させ、唯一人のこ って下男や下女をあつめ、家中の雨戸や障子をすべて開けひろげて、座敷の真中で大酒宴 をもよおし、自分で三味線をひいて放歌していたので、さすがに決死の神風連の人々も、 あきれてなすことなく退散したという。

そんな勢代子ではあったが、夫市之亟に対してはまことに温順な妻であって、日々の晩酌 の席で、夫が真綿で首をしめるような小言を言い、ある時なぞ十二時間も言いつづけても、 反抗的態度をみせず、ひとことも言葉がえしもしないで聞きいり、これも自分の夫への奉 仕がまだまだ足りないからだと、涙を流すことはあっても、夫に詫びるのみで、ついぞ夫 に対する愚痴などこぼしたことはなかったということである。 しかも、長い小言のあとで、夫が「ああ、しゃべりすぎて気分が悪い、さあ三味でも弾い て一つうたえ」と言えば、すぐ三味線を取りあげ、満面に喜色をたたえて、美声をはりあ げて得意の曲をうたい、夫の気色の和んでゆくのをみて、ひそかに自分の慰めにしたとい う。

女丈夫にしてなおかつ、心優しい妻、キャラメル・ママならざる母であった。

(註5)横井小楠

文化六年(一八〇九)八月十三日生れ。名は時存、号は小楠・沼山、通称は平四郎。八歳 のとき藩校時習館に入学、二十五歳まで居寮生、ニ十九歳には居寮長を命ぜられている。 天保九年江戸に遊学、藤田東湖と交わり、水戸学の影響をうけた。また、儒学に洋学をと り入れ、学問と政治の一致による実学をとなえた。

安政五年から文久三年にかけて四回にわたり、また、越前(福井県)に招かれ、藩主松平 春獄公の顧問となり、開国貿易ここで、先生の富国強兵策によって藩政改革を指導した。 ここで、先生の富国強兵論について私見を述べておきたい。

世に富国強兵論は多いが、その多くは単なる富国策、強兵策という方法論にすぎない。そ の策・方法論の基礎としての精神論がない。しかし先生の論はそうではない。「堯舜孔子 の道を明らかにし、西洋器械の術を尽す。何ぞ富国に止まらん。強兵の止まらん。大義を 四海に布くのみ」という遺訓がそれである。

私は、“堯舜孔子の道を明らかにす”ということは、精神文化の尊重を言われていると解 する。そして、“西洋器械の術を盞す”を、そのつぎに配されたことは、精神文化を第一 義とし、その上に立っての物質文明の追求を言われたものと理解する。さらに、それらの ものが単に一国一民族の富国強兵策に止まってはならない、大きな義を、世界全人類に自 覚させるという終局的理想と希求によるものでなければならない、と説いておられるもの と解釈する。

ここが、単なる一国家一民族のための富国強兵策や方法論とちがうところである。そして 後に、嘉悦孝の残した校訓「怒るな働け」の真精神の基礎は、ここにあると確信している。 先生は松平公が政治総裁職につくと、ともに幕政改革に当られたが、政変で失脚して帰国、 幕命によって沼山津に蟄居されたが、この時に氏房が入門したのである。 明治元年(一八六八)新政府に招かれて入洛、微士参与・職制度事務局判事、ついで参与 に任ぜられた。そのときの参与は、木戸孝允・後藤象次郎・大久保利通・西郷隆盛・由利 公正・副島種臣など十一名であった。

明治二年(一八六九)一月五日、十津川郷士らによって暗殺された。年六十歳。

この時、鷹(孝)は三歳であった。(『大日本百科辞典・小学館』、『熊本人物鉱脈・熊 本日々新聞社』)