第ニ章 鷹から孝に

 鷹の出生より六年前、文久元年(一八六一)、氏房は二十八歳にして家督を継ぎ、父元 久(一之亟)に代って細川家の禄をうけ藩士の席に列した。

 この年はまた、幕府が起死回生策の一つとして、公武合体の実をあげるために、将軍家 茂に和宮ご降嫁をこい、これを実現した年でもあったが、これによって尊皇攘夷派の憤激 はさらに高まった。

 こえて文久三年七月、氏房三十歳の時、藩より正使として長谷川仁右衛門を薩摩藩に派 し、氏房はその副使として随行を命じられた。

 この時、氏房は次のような意見を具申した。

 今回の使いが、単に薩英戦争後の薩藩の動静を観察することを目的としたもので、名目 的に藩公お見舞ということであったのでは、私ならずとも適任者はほかにいくらでもあろ うから、副使として随行することは固辞したい。だが、現在は勤皇佐幕・攘夷開国の緒論 が紛糾していていまだ定まらないが、一日も早く国是を統一し、しかも各藩が日本全体の ために協力一致して事に当たらなければならない時であるこれを薩藩に説得することを目 的としての薩藩訪問であるならば、喜んで同行する。

 これが、氏房の意見であった。

 長谷川正使は、ただちに氏房の意見を受入れたので、氏房は副使として同行し、堂々と 島津公はじめ薩藩重役に、自分の意見を開陳し、国是決定の急務を説いた。

 薩藩は両使の説得に同意し、即刻に薩肥両藩から有司を上京させ、前議の貫徹に努力す ることを約束した。

 その後、まもなく、氏房は京都留守居役として上京し、梁川星巌、橋本左内、光岡八郎 (由利公正)、勝安房、坂本龍馬、その他の各藩の名士と交友して、国事を語り合った。

 こうした激動の一日、氏房は、当時京都にいた薩摩藩主島津大隈守に招かれて、薩摩藩 邸におもむいた。

 島津公は親しく氏房を接見し、自分の努力も空しく一旦帰国することにしたが、今後再 び相見る時は戦場、馬上であるかも計られぬ、よって、これを相知った記念として贈りた いといわれて、轡助を氏房に賜った。

 当時、京都には諸藩の志士論客が雲のように集まっていたのだが、その中からとくに氏 房が島津公から招かれて、しかも記念品まで贈られたということは、氏房がいかに多くの 志士論客の中でも、重視されていたかがうかがえわれる。

 翌元治年(一八六四)には、蛤御門の変、第一次長州征伐と殺伐な事件が相次ぎ、年号 は慶応と改元、慶応二年には薩長連合がなって倒幕派の意気あがり、第二次長州征伐はつ いに失敗に終わり、幕府は十四代家茂が死去して、十五代慶喜となり、翌三年、慶喜によ る大政奉還となったのである。

 東奔西走の多忙な氏房にとって、富裕な兼坂家から嫁いできた世事にうといお嬢様育ち の妻久子が、博矩・鷹の二児をかかえて家に待つことは心がかりであった。

 それだけに、勢代という母の存在は、大きな心の支えであったし、勢代あったればこそ、 氏房は動乱の中にあって国事に奔走することができたのであった。

 慶応三年は、氏房にとっては長女鷹の出生を喜んでいる暇もないほど多忙で、多難な年 であった。

 翌明治元年は、氏房にとっても、熊本藩にとっても、最大の危機を迎えるかもしれない 年であった。

 鳥羽・伏見の戦、江戸城明渡し、奥羽戦争、函館戦争などの戦火は納っても、その余燼 は日本各地にくすぶっていた。

 前述したように、当初から熊本藩は、佐幕派の勢力が強かった。

 これが、横井小楠・大田黒惟信・山田武甫・嘉悦氏房・竹崎茶堂・徳富一敬などの実学 党新民派、同じ実学党ではあるが分派となった明徳派の長岡堅物・下津休也・荻角兵衛な どの人々、さらには宮部鼎蔵らの勤皇党によって藩論はつねに動揺をつづけていた。

 しかし、徳川家と細川家が姻戚関係だったことや、地理的条件、薩摩との対立関係など の諸要因によって、動揺しながらも藩の主論は佐幕開国であった。

 まさに、この時代は、勤皇・佐幕・攘夷・開国の四つが、それぞれに結び、またはなれ た混沌とした時代で、肥後一藩にとどまらず、日本全体の存亡に関する重大な時機であっ たし、また、全国的統一以前の封建末期であったために、全体的愛国心は不明確だったと 言わざるをえない。

 したがって、尊皇も愛国であり、佐幕も愛国であり、さらに鎖国・開国両論もまた愛国 にちがいなく攘夷もまた愛国の現れであった。

 であるから、洋学を学んで世界の知識に明るい人々は、開国の必要を説き、鎖国の弊と 攘夷の危険とを憂慮したが、これらの人々も、それぞれの立場によって、勤皇であるか、 または親幕府(実は尊皇佐幕派)に分れた。

 いっぽう、国学派とくに平田学派や、水戸学派の人々に、勤皇派が多くしかもこの人々 は攘夷を主張し、開国に反対する人々であった。

 こうしたことから、明治維新の原動力という自負をもつ薩長土肥の諸藩からみれば、熊 本藩が非協力的にみえたのも当然であろう。

 しかも、学校党の古荘嘉門、攘夷党の河上玄斎らは新政府打倒論を唱え、古荘は先代藩 と通じ、河上は長州の大楽源太郎と図って、熊本藩を主として東西呼応して反旗をひるが えそうという陰謀ありとの報が朝廷に伝わったので、驚いた明治新政府では肥後討伐の議 が起った。

 日本の大勢の方向が、勤皇倒幕・天皇ご親政に向かいつつある説きである。

 ここで熊本征伐が行われたのでは、第二の奥羽・東北諸藩の二の舞になる。

 そこで、藩命が氏房に下った。留守居役の資格で早打にて長崎におもむき、善後策を講 ぜよとの命令である。

 氏房は、即刻に執政米田堅物、大田黒惟信らと通じて叛徒の機先を制し、ただちに長崎 におもむいて、長崎在勤の沢公ならびに野村素助らに陳辞して、やっと肥後討伐の実現を 未然にふせいだのである。氏房のこの努力がなかったならば、熊本の地は、焼土と化して いたにちがいない。

 鷹が三歳となった明治二年(一八六九)、氏房は、明治大帝のご奠都によって江戸から かわった東京に、朝廷の召命によって出京することになった。

 五月、民部省に召されて監督大佑に任じ、七月、民部省大蔵庶務大佑に転任し、九月に は睦中の胆沢県大参事(県知事)に任ぜられた。

 この時、県庁の給仕をしていた斉藤実(海軍大将、総理大臣)、後藤新平(台湾総督、 東京市長)の両氏を東京に遊学させたのは、氏房であって、両氏はその後もそれを徳とさ れ、後年いろいろと孝(鷹)にご協力くださったのだった。

 筆者もいくどか考の供をして、このすぐれたお二人の謦咳に接することができたことを、 今もって喜びとしている。

 明治四年九月、胆沢県の廃止後、熊本県少参事(のち大参事心得)、五年四月には八代 県権参事、六年一月に白川県権参事を歴任したが、権令安岡良亮の施政があまりにも民情 を蒸しした圧制主義で、人心が動乱していたので、権令に施政改善をせまったがいれられ ず、とうてい説得の不可能であることを覚った氏房は、ついに職を辞して野に下った。

 明治九年に熊本県下に安岡県政反対の乱がおこって、ついに安岡は斬殺されたのである が、安岡がもし氏房の意見を入れて、県政の改善を図っていたならば、これらの乱は起ら ず、安岡の死をみることもなかったであろう。

 氏房は野に下って、晴耕雨読の日を送っていたが、そんなある日、九歳になった鷹が、 一冊の教科書をもって、緊張した面持で居間の氏房のもとにやってきた。

「なんかい、わからん字でもあっとかい」

と氏房がたずねると、鷹は、

「そぎゃんこつじゃ、なかです、お願いがあっとです」

と言って、その教科書の一ページを開いて氏房に示し、

「この孝行の孝という字は、たか、と読むと習いました。

 孝は百行の基というですけん、私が正しか人間になるごつ、私の名前の鷹ば、孝という 字に変えて貰いたかつです、変えてくだはりまっせ」

 鷹は真剣な眼ざしで、そう願い出たのである。

 氏房は、一瞬、驚きと喜びが一緒になったような気持ちがし、この十歳になるかならな い幼い鷹の緊張した顔を眺めているうちに、ふと妻久子と母勢代の顔が、次々に浮かんで きた。

 良い子を産んでくれた。良い子に育ててくださった。久子、母上ありがとうごいます。

「それはよか名前たい。変えてもよか、お祖母さまにもお母さまにも言うてあげたらよか」 氏房は鷹の小さな頭を、そっと一つなでてやった。

鷹は、明るい喜色あふれた顔をして、

「はい」と返辞をするといそいで部屋を出ていった。

 氏房は、維新の動乱と長い官職の疲れが、いっぺんに消えさって、胸のつかえと肩の重 みがすっとんでしまったような、安らぎを覚えた。

 鷹は孝に変った。

 それは、単なる名前の変更、字を変えたということではなかった。鷹のように雄々しい 心は、失われたのではなく、深く静かに彼女の心の奥底に沈潜した。

 そして、その沈潜した雄々しい心の上に、孝は百行の基という、そういう百行の女性に なれる彼女の心が、定位し固着したのである。

 優れた父親と、優しい母親の間に生れ、女丈夫の祖母の育てられた、雄々しい鷹のよう な女性が、さらに、幼くして大きな飛躍の羽ばたきをした。

 鷹が大鵬となるための羽ばたきであった。

 だが、この年は幼い彼女にとって、もっとも悲しい年となった。

 あれほど彼女をいつくしみ育ててくれた祖母勢代子が没したのである。時に明治九年十 二月も押しつまった二十七日、孝十歳の年の暮れであった。

 大鵬の幼鳥となった孝は、明治七年(一八七四)八歳の時から、氏房と同じ小楠門下の 竹崎茶堂の塾、日新堂に通学していた。

 日新堂はのちに本山小学校と改名したが、その幼稚舎つまり小学部が、明治十年まで孝 が通学した最初の学校であった。

「なんきゃ意気地のなかやつ、おなごん腐ったごたる、意気地なしが」 咲き乱れた桜の木の下で、四、五人の悪童が、一人の小さい子を囲んでいじめている。

 よくみると、その一人ぼっちの小さな子は、孝の一級下の子で、いつも黙っているおと なしい子である。

 その子が着物のえり元に毛虫かなにかを入れられそうになって困っている。

 祖母勢代子kらうけついだ雄々しい鷹のような気性が、これを黙って見逃すのを許さな かった。

「なんば、弱かもんいじめばすっとな」

 そういって飛びこんできた孝が、たった一人でしかも女の子であったので、悪童たちも すこしあわてた。

「女ごんごたる男こん子の代わりに、おとこんごたるおなごのきよったばい」

 小突かれ、叩かれ、蹴飛ばされても、泣きながら向ってくる孝の意地にあきれて、悪童 たちは走って行った。

 男のような女の子と、女のような男の子。

 この男の子が、氏房の同門の友、徳富一敬の次子、人道主義的な作家として、後年兄の 徳富蘇峯とならんで著名な運学者となった徳富蘆花であった。

 晩年、大東亜戦争の戦火で住居を失った孝が、ひととき寓居を定めたのが、千歳烏山の 蘆花公園にある蘆花先生の遺邸であったことは、これも見えざる糸の結ぶところかと、筆 者にはまことに感慨深いものがある。あの春の日の小さな事件が、文豪徳富蘆花先生と孝 を相知らしめたのであった。

 こんな男の子のような女の子、負けずぎらいな孝であったから、勉強についても、男の 子に負けないようにという努力をつねに忘れなかった。

 とくに算術は得意で、その頃“大試験”と呼ばれていた師範学校の競技会に出場して、 男の子をしりめに一等賞を獲得し、半紙十帳を賞品として貰ったことがあった。

 こうした、本山小学校生活も、明治十年(一八七七)孝十一歳の時に終わることになっ た。

 この年の十月には、西南の役があり、熊本は戦火の洗礼をうけたが、本山村の嘉悦家は 幸にして破損をまぬがれた。

 野にあった氏房は、自邸において私塾を開くことにした。

 熊本洋学校が多くの英才を生んだけれども、キリスト教教育一辺倒といえるほどに教育 が偏向していることに、氏房はかねがね疑問をもっていた。たしかに当時の日本は世界の 進歩から大きく遅れていたのだから、世界をもっと知るために洋学を学ぶことが大いに必 要だが、それがあまりにもキリスト教的洋学では害あって益なしとはいわないとしても、 よいことではない。そうでない洋学教育が必要であるとともに、師小楠の教えのとおり、 東洋精神文化の上に積む洋学、でなければならない。精神文化の上に立って西洋事情を理 解できる青年を育成しよう。

 これが氏房の考えであり、“広取塾”という、嘉悦私塾の教育方針であった。

 孝が本山小学校を退学して、父の広取塾で学ぶようになったのも、氏房の考えに従った からであった。