第三章 広取塾の毛虫っ娘

 “広取塾”というこの塾名は、五ヶ条の御誓文(註1)の一章にのっとって、わが国の次代をになう青年は、知識を広く世界に求めて、これを摂取しなければならない、という心から、氏房はこう定めたのであった。

 氏房が、横井小楠の高弟であり、県知事などにおける功績が著名であったため、多くの県下の良材がその門をたたいた。

 それらの門下生の若干をあげると、

 わが国外交界の異彩で外務大臣を歴任した内田康哉伯、酔人官長の名で知られる書記官長林田亀太郎、警視総監亀井英三郎、京都同志社の創設者原田助、広島地方裁判所長乾宇志、横浜生絲検査所長農学博士紫藤章、台湾高等法院法官増田武城、海軍大佐西垣富太、農学士楠原正三、石井新太郎、松崎祇能、法学士白坂栄彦、村井十次郎、国会議員九州新聞社長高木第四郎、松田好生、判事今村勝次などの諸氏があるが、これらの人々は、熊本におけるだけでなく、日本における代表的人物といえる人々である。

 広取塾が、嘉悦氏房個人の小さな私塾でありながら、これだけの人材を育成できたということは、高く評価されなければならない。

 孝は、こうした青年たちに伍して、父の講義を開き、青年たちから“お孝さん”“おたかさん”と呼ばれて可愛がられた。

 塾の庭にはブランコがあった。このブランコの漕ぎくらべは、孝の得意の一つであった。若い青年たちに負けずに、少女の孝は高く高くブランコを漕いだ。

 やれば、努力さえすれば、男に負けず女だってできる。

 この負けん気は、ブランコ漕ぎだけでなく、お正月のカルタ会の百人一首のとりくらべのような時にも、かならず発揮された。

 負けると、ワーワー泣きだして青年たちを手古ずらせることもあった。

 この名士の卵たちは、この可愛いけれども、強気で負けずぎらいな塾のマスコット嬢に“毛虫”というアダナを進呈した。

 勉学に、ブランコに、あるいは百人一首に、いろいろなことで孝に手古ずらされることからつけられた仇名で、まるで嫌われ者のようなアダナがついたが、それは青年たちを手古ずらせる時だけの呼び名であって、ふだんの孝は、やはり広取塾のマスコットであった。

 父の講義を聞くために端座して、熱心に聞き入る孝の姿は、決して十一歳の少女ではなかった。

 真剣に学問に取り組んでいる人間の姿であった。粛然とした態度、熱心な読書ぶり、年に似合わない立派な理解力。青年たちは、いろいろな意味で、少女の孝から教えられるところが多いような気がした。

 後年、九州新聞社に高木第四郎先生をお訪ねする孝の供をして参上した筆者に、高木先生は、 「いまこうして嘉悦さんにお逢いしても、思い出すのは、広取塾時代のお孝さんです。負けん気も強かったが、とても十や十一の少女とは思えないところがあった。

 あの頃のことを思い出すと、今日の嘉悦さんがあることは、当然のことだと思わずにはいられません。

 あなたも、よく見習って、立派な人になるんですね」

 往時を語って、私を激励してくださった。

 知己という言葉がある。

 自分の心をよく知っている人という意味であるが、人間と人間のつながりは、単なる友、単なる知人という関係ではなく、知己、それも百年の知己といえる人を、得るかえないかで、その人の一生は大きなちがいがあると思う。

 いかなる環境でも、一人でも多くの知己をえられるかどうかは、かかって本人の心しだいではある。孝の一生が、経済的には恵まれたといえないにしても、精神的にはまことに恵まれたものであったのは、この知己を数多くもっていたことが、最大の要因であるという気がする。  広取塾で孝の知己となってくださった方々から、後年、孝はどんなに多くの精神的恩恵をえているか、計り知れないものがある。

 しかし、広取塾時代も、孝にとってはごく短いものであった。

 一年ほどの後には、思いがけない運命の転機が、孝を待ちうけていた。

(註1)五ヶ条の御誓文

慶応余念(一八六八)三月十四日に出された明治新政府の基本方針。

明治天皇が公卿諸侯百官をひきいて、京都紫宸殿においてご発表、諸官とともにこれを天地神明にご誓約された。

一、 広ク会議ヲ興シテ万機公論ニ決スヘシ

一、 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ

一、 官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス

一、 旧来ノ陋習ヲ破り天地ノ公道ニ基クヘシ

一、 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ

これをいろいろに曲解しているマルクス屋学者や沈歩的珍化人がいるが、私はフランスの人権宣言よりも立派な宣言であると考えている。

たとえば第一条であるが、これは列侯公議を考えているのであるから、一部の特権階級の人々だけの会議を意味していると論ずるマルクス屋学者がいるが、精神としては、まさに民主的である。

第二条にしても、上下という表現が特権意識であると難ずる珍沈的珍化人もあるようだが、日本民族が心を一つに合わせて一生懸命やろうということで、民族の心が現在のように分散してはいけないという戒めである。

また第三条、官武一途庶民という言葉に抵抗を感ずる左目氏もあろうが、日本民族の一人残らずが、自分の志を遂行できるように、遊惰な心にならないようにということで、決して一部の支配者のための理論ではない。

第四条は、まことに進歩的であり、かつ大局的である。

第五条にしても、皇基という言葉をミクロに解釈したがる左目珍化人は、鬼の首でもとったように得意になって、これはまさに反人民的表現であるというかもしれないが、明治維新においては、皇基という表現はしごく当然で、私はこの言葉を日本民族は天皇陛下を中心として、日本民族全員が広く世界の知識を求めて、大いに日本国家を振起させなければならない、というように解釈するから、まさに人権宣言以上の名誉言と考える。

人権宣言が個人の尊重、自由の確立に焦点がおかれていることは事実である。

しかし、個人の尊重がいきすぎると、個人の自由は確保できたとしても、他人の自由を侵害する結果もありうる。

私は五ヶ条の御誓文のほうが、個人の尊重もしながら、なおかつ大局的見地に立っている正論であると信ずる。

日本民族の正しい信念、理念、そしてそのあり方を、見事に表現しているものであって、けっして支配者のための理論や宣言ではなく、世界に冠たる日本哲学の精神であると考える。