第四章 孝は百行の基なり

 鷹から孝にかわった彼女に、試練の時がきた。

 しかし、この試練は、彼女の孝心つまり、自分を無視して、親のために尽し、役立とうという心、それからでたもので、しかも彼女が自らそれを希望したもので、けっして、親からしいられたものではなかった。

 若い時の苦労は買ってでもしろ、という言葉がある。しかし、十二歳の彼女が、そんな自分のためという気持ちであったとは考えられない。

 やはり、こうすればすこしは親孝行になるのではなかろうか、という彼女の孝心がさせたことだと、筆者は解釈している。

「私も女工になってみるごたるです。行かしてくだはりまっせ」

 幼い心で幾日か考えぬいて、こうすることで、すこしでも親孝行ができるのではないか、そう思うともう迷いはなかった。

 ただ、父が許してくださるかどうかの心配だけだった。

 お許しがすぐいただけなくも、何としてもお許しいただこう。

 いまの自分が、できること、することは、これだけしかないのだから、彼女は自分の心にそう言い聞かせて、父の前にでたのだったから、心に動揺がなかった。

 氏房は、孝の顔をみつめ、そしてその澄んだ静かな目をみているうちに、この子は本当に決心しているな、と心を強くうたれた。

 孝が言い出すのを待っていたわけではなかったが、孝に言い出されてみると、自分もはじめからそう考えていたような気にもなった。

 考えてから返辞をしよう、などというゆとりは、父の心にも残されていなかった。

 この父と娘の心は、ここでもまた、はっきりと通じ合っていた。

「うん、行くか」

 氏房の言葉は簡明だった。

「はい」

 孝の言葉も短かった。

 この父娘には、それで十分であった。

 こうして十二歳の孝は、父母の許を離れて、女工として緑川製糸工場に行くことになった。

 明治維新は、日本に日本民族に、世界に対する目を開かせた。

 そして、日本人は、日本がヨーロッパ諸国にくらべて、どんなに後進国であるかを知った。

 さらに、ヨーロッパ諸国の植民地とならないためには好む好まざるとにかかわらず、富国強兵策をとらざるをえないのである。もしこれを怠ったならば、道は二つ、強国の支配下に入って植民地となるか、戦って敗れて亡国となるかである。

 日本のこの富国強兵策を、帝国主義として批難するエセ日本人がいる。

 たしかに、形だけを見ると、そう言えるかもしれない。しかし、日本の富国強兵策は、自衛・防衛のためのものであって、他国を侵略し植民地化するための下準備的なものでないことは、日本人の心と目をもったならば、理解できる筈である。

 日清戦争依頼、いやもっとさかのぼって、薩英戦争・馬関戦争から、日本の戦った戦争は、自衛戦争であって、侵略戦争ではない。

 他国の人々が、そう規定するのならやむをえないとしても、自国民が自衛戦争さえも、侵略戦争と規定するのは、正直なようにみえても、まさに非国民的心情である。

 ともあれ、国家もその存続のために、殖産興業の道を求めたし、封建制度の終了とともに武士という生活を失ったこの階級の多くの人々は、官途についた人々以外は、産業をおこすか、商人となるかの道を選ばねばならないという問題もあった。

 官を辞した氏房は、私塾を開いて後進を育成するかたわら、これらの国民的見地と個人的必要から、明治七年六月、緑川製糸所を設立して社長となり、十二年四月には不知火紅茶会社を創立して社長に推され、同年十二月商法物産会議所発起人となってこれを創設したのであった。

 その緑川製糸所は、いろいろな意味で経営に苦労していた。氏房にとっては、製糸工業のない熊本に、この事業を定着させることは、彼の経綸の一つであったが、いわゆる武家の商法という点があったことも事実であった。

 幼い孝が女工として緑川製糸所に行っても、その再建の力となることは望べくもないが、父が不馴れな事業経営を行ったために、どんなに苦労しているかが、幼な心にも感じられたし、気位の高い士族の娘たちが女工になることをきらって、人手が不足していることも耳にしていた。

 そして、自分の家の家計の窮迫も、うすうす感じていた。

 孝にとっては、勉学をすてることは、辛く悲しかったが、いまは自分が安閑として勉学だけしていてもいい状態ではない、この際、自分がすべきことは緑川製糸所に行って女工となり、すこしでも父や家庭の助けをすることだ、十二歳の孝は、こう決心した。

 緑川は、熊本市から南へ七里ほどの所である。

 柳行李一つをもって人力車に乗った孝は、別離の悲しさをじっと押しころして、父と母に笑顔を送って目礼した。

 言葉を出すと、それといっしょに涙がでてくることが、よくわかっていた。

 人力車が動きだした。父と母の視線を熱いほど背中に感じた孝だったが、振り返らなかった。

 だが、孝の頬には、とめどなく涙が伝わって落ちた。

 時に明治十一年(一八七八)。

 八年制であった小学全科を修了できずに、下等七級の学を修了しただけの孝だった。

 甲佐町。銀杏城の名をもって知られる熊本城の南方七里の地、そこを流れる清流緑川のほとりに、氏房を社長とする前近代的な貧弱な町工場にすぎない緑川製糸所があった。

 役間(事務所)、宿舎、食堂、風呂場、などいちおうの施設はあったが、もとより粗末な製糸工場は寒々としていた。

 年度をかためたへっついにかけた大きな釜の中で煮られた繭。

 その繭から糸口をほごして糸にしてゆく、いわゆる原始家庭工業の糸取工程を、すこし規模を大きくしたぐらいの小さな町工場である。

 さらに、燈火の不自由なこの時代だから、就業ができるのは、陽のある時間だけである。したがって、時間をかせぐ必要から、朝は暗いうちから起きて準備をしなければならない。これらの作業が、わずか五十名ほどの女工たちと、経験の浅い作業監督をかねた技術指導者“音羽先生”や孝の母方の叔母である兼坂きんなど二、三人の人々によって行われていた。

 “音羽先生”は、徳富音羽といって、文豪徳富蘇峯・蘆花兄弟の姉で、久布白落実女子の母にあたる方であった。

 先生はじめ二、三人の人々は、日本最初の官営の製糸場である上州富岡製糸場で学んできた人たちで、製糸の仕事を何も知らない実学党の娘さんたちの女工さんに仕事を教え、作業を監督していた。

 しかし、実学党の娘さんたちの女工さんは、“国を富まし、日本を先進国に負けない国にする”という気持で、まことによく働いた。

 その中には、長崎から見習いにきていた、後年の田川大吉郎氏の母上などもおられた。

 これらの人々にまじって、孝も、経営者の子供であるという責任感と、どんな生活からでも何ものかを学びとろうとする彼女の積極的気質とがあいまって、どんなにつらい仕事もいやがらずに努力した。

 そして、音羽先生が、江戸っ子調の歯ぎれのいい口調と、草深い熊本の娘たちとちがった当時の先端をゆくスタイルで、そり身になって女工たちを教える颯爽たる姿が、孝の心に強い印象を与えたのであった。

 それは、ただ羨望や憧れだけでなく、もっと大きな希望を彼女の胸にうえつけた。

 その希望は、幼い時から孝の心の底にあったのかもしれないが、音羽先生の姿に接したことによって、具体的な願望となってきたのである。

 わたしも、人の上に立って、教え導くようになりたい。先生になりたい。

 それには、何としても勉学しなければならない。他の女工さんたちが、お菓子をたべてしゃべりあっていても、孝はひとりで読書をつづけた。

 日本外史、八犬伝、三国志、なんでもかたっぱしから読破していった。

 悪源太平、鎮西八郎為朝、そういった豪壮な性格に心ひかれた孝であった。

 かくして、孝の希望が次第に現実性を帯び、彼女の生涯の希求を描きはじめたのは、この緑川における女工時代であった。