第五章 政治家の父と娘と

 氏房の経綸も、実業界においては、ついに先躯者の悲劇に終わった。

 長野濬平氏と計って、熊本の殖産興業のために設立した、大阪以西では最初の機械製糸 の緑川製糸所であったが、機はいまだ熟していなかった。

 幼い孝にとって大変な心労・苦労であった彼女の努力も、わずかに彼女の孝心を、満足 させただけに終った。-それが、彼女自身の後のちのためには、大きなプラスとなったと しても-この事業の失敗の原因は、武士の商法的なところにあったろう。また、実学党の 同志たちの庭にうえた桑畑に頼らざるをえないということも、隘路の一つで、これだけの ものでは需要と供給のバランスがとれなかったのも事実である。かりに、春から秋へと、 まゆの次々と出る間には、大変な忙しさであっても、冬になると材料の供給不足で、機械 も人手も閉店休業となる非能率生産であった。しかし、この緑川製糸所が、熊本の製糸業 の大きな捨て石になったことは、否定できない。

 不知火紅茶会社の解散も、その土壌どのものが不適当であったことが原因の一つで成功 せず、熊本における殖産興業のまた捨て石となった。

 先躯者には、つねに苦悩と悲哀がつきまとう。しかし、それを大きな立場に立って眺め、 ふり返った場合には、どんなに重要な役割を果たしているか計り知れないものがある。

 少女の孝には、この時点で父氏房の苦悩と苦労が、そして創業の礎石としての価値が、 敢然に理解されたことは言えないであろう。

 しかし、たとえばおぼろげであったとしても、これらの経験は、孝の後年にとっては、 またとない重要なプラス要因であったと言える。

 父氏房が、これらの失敗によって、再び世に立つことができなかったとしたら、そらは、 孝にとってマイナス要因になっていたかもしれないが、そうであってもなくても、緑川製 糸所での生活は、すくなくとも孝の孝心を満足させ、音羽先生を知ることによって、孝の 心に強い願望を植えつけているのである。

 人間は、自分では知ることのできないあるものによって、支配されていると言うと、そ れは迷信だと笑う科学的人間が多い。

 しかし、それらの科学的人間が、本当に自分の運命を、事前に早く正しく予知すること ができるだろうか。

 コンピューターといえども、人間がデータを与えないことには答を出せないのである。

 迷信と言って否定してしまうことのなかに、予知できない真理がある場合もある、と筆 者は考えたい。

 孝のこうした経験が、後年の孝が学校創立のために苦悩した時に、良き体験として、彼 女の支えになっていることは、見逃すことができない事実である。

 もちろん、そこには、経験をよりよく生かす努力と知恵も必要である。

 運命を知り、時と場合によっては、それを甘受しなければならないが、あくまで、人生 は自力本願であるべきであって、他力本願であってはならない。

 自力の努力を積み重ねることによって、他からの有難い協力も生れてくるものであるこ とを自覚しなければならない。

 父の事業の失敗や、それによる家庭の窮迫、そういった経験が、孝にとって尊い経験に なったことは、孝の運命であると同時に、また彼女の自力本願の努力の源泉でもあった。

 緑川製糸所は閉鎖されることになった。

 孝は、父に代って、職場の一人一人に、父の不手際を詫びた。

 そんな詫びごとを言うことで、孝の人々への済まないと思う心を、消し去ることはでき えなかったが、この時点で、少女の孝にできることは、ただひたすら誠心誠意、心からお 詫びを言う、ただそれだけであった。

 傷心を抱いて帰宅した孝だったがしかし、この女工生活という考えてもみなかった経験 は、彼女にとっては、望んでもえられない貴い体験となったのであった。

 実業人、実業的先躯者としては失敗つづきの氏房であったが、人々や周囲は、彼を長く 野においてはおかなかった。

 明治十二年、府県会規制発布とともに、氏房は、県会議員に選ばれ、十三年三月には県 会議長となって、地方自治のために活躍し、十四年一月の改選にも再度当選するとともに、 ふたたび議長に推された。

 その他、衛生会委員、本庄郷連合会議員ならびに議長、あるいは斯文会文学委員、また 忘吾会会幹などの役職について、地方自治政の発展と擁護をはかり、民心の開発にも大き な貢献をして、後の人をして、熊本県建設者の一人といわれるほどの働きをした。適材適 所という言葉があるが、人間にはやはり得手不得手がある。さらに時の運とその勢いがあ る。実業界では失敗した氏房であったが、政界はまさに彼の適所であった。こうして氏房 は九州政界の獅子となった。

 当時、東京にあっては、板垣退助、後藤象二郎などが自由党を組織し、また大阪には、 中島信行、草間時福らの立憲政党が生れた。

 氏房もまた九州にあってこの動きに応じ、同志の山田武甫、前田案山子、高田露の諸氏 とともに鎮西政界の統一を謀り、福岡の玄洋社、柳河の有朋会、鹿児島の自治社、公友会、 三州社、博愛会、佐賀の開進会、唐津の先優会などの諸団体に呼びかけ、十五年三月に、 熊本において合同大会を開き、ここに九州改進党という一大政党を樹立したのであった。

 これは、官権主義を打破して国民の自由を伸張し、健全な立憲政体をわが国にうちたて ることを念願とするものであり、九州各県における有識者の多くが参加して、中央政界の 自由党、改進党にも優るとも劣らない有力な地方政党であった。

 氏房は九州改進党の領袖となって、各地の大会では、同門の山田武甫と代るがわる議長 をつとめて、重きをなしたのである。

 しかし、当時の政治家は、まさに醇忠愛国の至誠に立った非利権的政治家であって、け っして個人の利益のために利権を目差すものではなかった。

 氏房もまたそういう清廉潔白な人間の一人であって、九州政界にあって知名になり、重 きをなせばなすほど、一家の家計は窮迫して、まさに井戸ベイ政治家を地でゆく状態であ り、三度も家財を執達吏に押えられるような有様であった。

 孝は、

「私も、自分で学校経営をするようになって、差押さえをうけたが、娘時代に二度も経験 していたので、おかげでびっくりしないですんだ」

 と笑いながら筆者に語ってくれた。

 こうした一日、当時知名の女流政客中島湘女史が熊本に遊説にきた。

 たまたま、その演説を聞きに行った孝は、かつて音羽先生から受けた印象より、さらに 強い衝撃をうけた。

「男こん人たちの大ぜい聞いとらす前で、ぜんぜんものおじもせんで、堂々と自分の意見 ば言いなはったたい、ほんなこつたまがった、こぎゃん立派な女子もおらすもん、うんと 勉強して、あぎゃん先生のようにならにゃならんたいと思うたたい」

 こういって、中島女史の被布の胸の房が、なにか綬章のようにみえたということから、 その服装やしゃべり方を、手よう手まねのゼスチャー入りで、弟妹や家人に話して聞かす 彼女だった。

 自分も早くあの女史に負けないような女性になりたい、それには一日も早く、東京にで て勉強したい、それが孝の強い願望であったが、家庭の事情はなかなかそれを許さなかっ た。

 こうした悲劇を抱きながら、母久の手助けをして弟妹たちの面倒と家事に専心していた 孝であったが、家計はますます窮迫していった。

 父の政治活動が忙しくなればなるほど、交際費的な外向きの出費が多く、内所は苦しく なる一方だった。

 母の久子は、千石取りの兼坂家から十六歳で父氏房のもとに嫁いできた箱入りのおひい 様で、とても家計のやりくりまではおやりになれない、孝は短い経験だったが緑川での女 工生活という他人の間での体験があった。

 祖母の勢代子も、また富裕な家から貧しい嘉悦家に嫁いでこられ、嫁入り道具をつぎつ ぎに生活の資にかえて、とうとう何もなくなったというはなしをよく彼女にしてくれた。

 兄の博矩は東京に遊学中で、自分と母上と、敏、末子、龍人の弟妹だけである。

 自分が、がんばらなければならない。

 さいわい、緑川での経験もあるのだ、何とかやってみよう。孝は健気にも、そう決心し た。

 十四歳の孝の大活動がはじまった。

 味噌も醤油も、習いおぼえたとおりに、彼女の手造りである。広い庭に鶏を飼って、卵 を売る。野菜もいろいろなものを、なるだけ沢山つくるように心がけ、余分を売ることに した。

 屑繭から糸をとり、節の多い袖だが、それを織って家人の着物にした。

 足袋から下着類まで、ほとんど一人で縫いあげた。薬草をうえて、それも売った。

 その他、掃除、選択、料理、なにもかも彼女はやってのけた。それは彼女の性格が、積 極的であり、人まかせのきらいなこともあったろうが、何にもまして、努力家であったと いうことである。のちに女子学生の寄宿舎の寮監として、生徒たちを心服させたその万能 な能力と精神力は、すでに、この次代につちかわれていた。だがそれは、十四歳の彼女に とっては、精神的にも肉体的にも、大変な重労働であった。

 精神的には、もとより他人に負けない孝である。生れた頃は、幼弱な彼女だったが、祖 母のおかげで、年とともに健康になり、肉体的にも心配はなかった。

 ただ、たったひとつ、彼女を寂しがらせることがあった。

 弟妹の勉強はみてやれても、自分の勉強、とくに読む本のないことであった。

 だが、そのたったひとつの不満も、間もなく解消することができた。

 東京大学(東京帝大)に在学していた兄の博矩が、ストライキが起ったために、勉学を 中止して帰京してきたのである。

 兄の書庫が、たちまち彼女の読書慾をみたす宝庫になった。孝にとっては、砂漠でみつ けたオアシスであった。

 もちろん、兄が帰郷したといって、すぐに家計が楽になるわけではない。

 いままでどおりの彼女の生活である。

 しかし、時間の余裕をみては、その蔵書を片っぱしから読みあさった。

 まもなく、兄博矩も父を真似て、私塾を開いた。

 孝もまた、家事の暇をぬって、兄から英語その他の講義をうけることができるようにな った。

 この時の学友に、後の宮崎滔天夫人(龍介氏母堂)などもあった。

 後年、孝は、アダム・スミスの“国富論”を原書で読んだが、それらの英語の素地は、 この時代、すなわち兄の帰郷が明治十六年であるから、彼女の十七歳から二十歳までの間 に、彼女が得たものであった。

 さらに、もう一つ、彼女がこの時代に得たもっと大きな自覚があった。

 それは、

“どんな家庭にあっても、一家の主婦は家計のきりもり、消費経済の上手な夫人であるこ とが大切である。それには女子に経済の知識を教える学校が必要である”

 という結論を得たことである。

 この自覚は、緑川製糸所での生活と、その後の数年の生活で、孝自らが自然に得た結論 であって、これは、彼女にとっては悟りとでもいうべきであった。

 他人から尊敬される人間になりたい。

 それには、まう自分を立派な人間にするために努力し、勉学し、きたえることである。

 そして、つぎには、人を教え導くことの尊さ、重要さ、楽しさを知って、先生になるこ とが目標となった。

 さらに、数年の生活とその体験からえた悟りとして、先生になるとともに、女子に必要 な経済・商業知識を授ける学校という理想に昇華していったわけである。

 しかし、いかに傑出した女性としての素質をもった、鷹から大鵬になろうとしている孝 であっても、十九や二十歳の彼女、しかも、政治活動に忙しい父の留守を守る環境では、 これはまだ淡い希望図、青写真でしかない。

 青写真を具体化するためには、どうしても、東京に出て勉学しなければならない。

 朝は暁天の雲を眺め、深夜には星空をあおいで、東京での勉学の日の一日も早からんこ とを祈る、二十歳の孝であった。