第六章 夢の東京たい

“天は自ら助くる者を助く"という言葉がある。

 これは、自力の努力をつづける者は、いつかは目に見えない大きな助けを得られるという意味に解していいと思う。

 孝の場合、そのまま、この言葉があてはまるかどうかは、読者の判断に委ねよう。

 しかし、孝が二十年の間、彼女なりの孝心に従って、努力してきたことは事実である。

 すくなくとも、彼女が他力本願型か自力本願型かという点からみれば、もちろん自力本願タイプであることは間違いない。

 ともあれ、孝の念願が、彼女の夢が、実現する時がやってきた。

 明治十九年、九州鉄道会社を創立しようという計画ができて、氏房はその創立委員に推され、翌年二月、設立請願委員として県知事とともに上京し、関係諸機関や有士の人々を説得した結果、ついに、その許可をうることができた。

 この一年有余の間には、幾多の障害や反対にあって、設立事業は難産をきわめた。

 しかし、氏房は万難を排除して、ついに、設立を迎えたのである。

 ただちに、氏房は社長に推された。だが、固辞して受けなかった。

 氏房が事業人としての自分の限界を知っていたからなのか、他に理由があってのことか、それは不明である。

 しかしながら、氏房が、理財それも個人の蓄積だけを考える男でなかったことは、過去がそれを証明する。

 彼がただ財を求める人間であったならば、以前の小私企業とちがう、九州鉄道会社の社長をうけないはずはない。

 また利権屋政治家を目差すならば、この上ない好都合なポストである。

 個人的に考えても、名実ともに益あって損のない、ある種の人には、ヨダレの出るほどほしい役職である。

 それを、固辞してうけないというところに、明治の精神があり、氏房の人間性があった、とみることは、筆者のひいき目であろうか。

 ともあれ、社長は固辞したものの、請われるままに役員となったので、嘉悦家の家計にもいささか余裕が生れてきた。

 その結果、孝の東京遊学が、ついに許された。

 時に明治二十年(一八八七)、孝二十一歳の初秋、筆者の父である末弟の龍人は六歳になっていた。

 当時の熊本から東京への上京は、現在のようにジェット機が飛んだり、新幹線が走っているわけではないので、大変な旅路だった。

 乗りものは、主に馬車か人力車で、鉄道はまだ、明治五年(一八七二)十月、新橋-横浜間(現、汐留-桜木町)が開通し、ついで、同七年に大阪-神戸間、同十年に京都-神戸間、その他には同十六年に上野-熊谷間が私設鉄道として開通しているだけの状態であった。

 まさに、当時の熊本-東京間の旅は、現代のわれわれが諸外国に行くのとさえも、比較にならないほどの長旅であり、大旅行であった。

 いかに、大きな希望と夢をもち、他人に負けない努力家の孝であっても、女一人のこの旅は、とてつもない“大いなる旅路”であった。だが、どんなに大変でも行かなければならない。

 熊本から博多まで、野越え山越え、馬車や人力車や、ある時は徒歩で、難行苦行である。

 博多-横浜間は船であった。

 これとても、現在の長距離フェリーや瀬戸内海航路のような豪華な客船ではない。

 暴風雨にあえば、すぐにでも沈没しそうなお粗末な船であるが、なんとか無事に横浜港に入港することができた。

 孝は、そこで、生れて始めて、岡蒸気といわれる汽車にのった。

 いまでは地方でファンの人々が、一生懸命にカメラにおさめて、記念にしておこうという、あの石炭で走る煙突の汽車である。

 窓から石炭の煤や煙が、ようしゃなく入ってきて、うっかりすると目の中にススが飛込んだりする。

 そんな旅ではあったが、孝の頭のなかには、東京遊学のあれやこれやで一杯で、苦労とも感じなかった。

 それでも、熊本を出てほぼ一週間、やっとの思いで新橋につくことができた。

 その新橋駅には、父が連絡しておいてくれた門下生の某氏が、出迎えにきていてくれた。

 幼馴染の父の門下生ではあっても、すっかり都会人になって、背広などを着込んだその青年の姿は、二十一歳の田舎娘の孝には、異国人とまではいかないとしても、初対面の人に近い感じである。

 だが、彼女にとってはじめての東京であるから、案内人なしには西も東もわからない。

 落着先の父の知人の家は上野と聞いているが、その上野が、どっちの方角で、どのくらい遠いのやら近いのやら、かいもく見当もつかない。案内のままにしたがわなければ、迷子になってしまう。おずおずと、その門下生の後について駅の改札口を出た。

 さて、駅前の広場を見渡して、さすがの彼女もびっくりした。

 客待ちの人力車が、何百台と、数えられないほどずらりと並んで、まさに壮観である。

 しかし、ここで気おされて、侮られては一大事と、彼女は胸を反らせて悠然と彼氏のあとに従った。

 彼は慣れた調子で一台の人力車の車夫と交渉すると、彼女を先にその車にのせた。

 はじめ孝は、さすがに東京の人力車は、故郷熊本のなどとちがって、大きく立派だなと思った。車台の背にはキレイな絵模様までついている。

 しかし、すこし広すぎるなと思ったとたん、彼女を片よせて、彼が同乗してきた。

 孝はびっくりするとともに、男女七歳にして席を同じうせずというに、何たる不謹慎にして失礼な人が、これが東京の新しい風儀だとすると、これは余程気をつけなければいけないと、出迎えてもらった喜びや安心感もどこかへとびさった。

 これが、当時東京で流行の“相乗車”であることを、もちろん彼女は知らなかった。

 そんな彼女だったから、上野の知人宅に着くまで、熊本のことを聞かれても返辞をするではなく、まして心中おだやかでないので、はじめての東京ではあっても、その沿道の風景も、ろくに目に入らなかった。

 やがて、上野の知人宅の門前で車を降りた彼氏が、大枚十銭の車賃を渡すのをみて、この後年の経済教育提唱者の理解は、さすがに速かった。

 なるほど、二台の人力車に別々に乗れば、運賃が二倍になる。相乗りは経済的理由だったのか。

 孝は、はっとそれに気がついて、今までの自分の態度を、申し訳なく思った。

 こうして、未知の東京での第一日が明け暮れたのだが、父の門下生や、父の知人のあたたかい歓迎と接待をうけて、彼女の心は、長い旅にもめげずに、安らぐことができた。

“ここが、夢の東京たい”

 深い安堵感と喜びを抱いて、大鵬となるべき宿命をもったこの若鷹は、黎明日本の新天地、東京に翼を休めたのである。

“夢の東京たい”“ここが東京たい”

 何度となく、何十度となく、孝は心のうちでそう呟いたのであった。