第七章 良き師、良き友

 二十一年間いだきつづけてきた願望がみのって、夢の東京に来ることができた孝であったが、現実の東京は、熊本にあって彼女が夢みていたような、バラ色の町ではなかった。

 つまり、いかに新しい首都、江戸から東京になった日本一の大都会であるといっても、まだまだ完成されたものではなかった。

 とくに、東京に行きさえすれば、すぐに勉学ができると考えていた彼女の夢は、まったくの夢物語で、すぐ入学できる適当した学校を探すことが、これまた一苦労であった。

 ことに女子に学ぶべき門は、狭かった。

 あっても、ミッション・スクールがほとんどで、これは、父が許してくれるはずがないし、彼女の求めるところでもない。

 しかし、何とかみつけて、入学させてもらわないことには、遠く東京まで出てきた意味がない。

 苦心のすえに孝が択んだ学校は、成立学舎の女子部であった。

 この学校は、高等学校、専門学校の入学予備校として有名で、ちょうどこの年から、駿河台袋町に女子部が開校されたことも、好都合であった。

 校長は、後の大阪八尾中学の校長で、日本教育界の功労者の一人としてのちに著名となった中原貞七先生であった。

 そして、各学科の先生方としては、

 文  学  坪内 雄蔵

 経済学  土子金四郎(後の正金銀行重役)

 修  身  棚橋 絢子

 国  文  鈴木 弘恭

 日本画  跡見 玉枝

 哲  学  井上 円了

 英  語  今井哲太郎

 料  理  赤堀 峯吉

 他に、英人教師数名、および茶の湯、華道、作法、和洋裁縫などの先生がおられた。 すべての方々が、後年わが国の学界、教育界、また実業界に名をなした泰斗長老ばかりで、その方々が一堂に会したという超豪華版の顔ぶれである。

 この学校をみいだし、この学校、この良き師につけたことによって、稀代の名馬が名伯楽をえたといおうか、大鵬の幼鳥はますますその翼をひろげることができたのである。

 良き友をうることもむずかしいことである。だが、良き師をうることは、さらにむずかしい。

 しかし、氏房が良き師、横井小楠先生をえたことによって、今日の嘉悦氏房があるように、孝もまた、良き師をえたことによって、後年の彼女がありえたのだといっても、すこしも間違いではあるまい。

 人間、持ちにくいけれども、持ちたいものは、金銀財貨ではない。良き師である。そしてよき友である。

 孝は、本当に幸福者であった。

 さて、とくにそれらの先生方の中で、孝がもっとも身近な方に感じ、そして終生の恩師として終身忘れずに敬愛した方が、棚橋絢子先生であった。

 彼女は、絢子先生が百歳の長寿を完うされてご逝去なされるまで、自他ともにみとめる絢子刀自の一番弟子を自負して、さながら十歳の童女が母に仕えるように、先生を慕い敬い、先生から受けた恩師の深さをいかに深く感じていたかをわれわれに示してくれた。

 後年、筆者は絢子先生のご令孫で、その後継者であられる勝太郎先生から公私ともに何くれとなくご指導をいただき、先生の御長子嘉勝先生の媒酌人の栄をたまわり、(夫人理恵(旧姓西村)さんは嘉悦出身)その嘉勝先生からまた筆者の愚息克がご教導をうけるという、棚橋家と嘉悦家との三代八十数年におよぶご縁が、この成立学舎にはじまったことを思うと、まことに感慨無量、人生の目に見えない糸のつながりの深さを覚えるのである。

 孝は、成立学舎女子部に入学することになったが、さいわいなことには、父や兄に教えられた素養が認められて、いきなり本科二年に編入が許された。

 これは、二十一歳という彼女の年齢から考えた場合、まことに幸運であり好都合ではあったが、いくら負けずぎらいな彼女、そして一生懸命勉強したつもりの彼女であっても、片田舎の熊本、それも正規の学校教育は下等七級までで、それからは私塾、しかも父や兄の私塾で、独学に近い勉学であったのだから、級友にまけずに、授業に追いついて行くということは、なかなか苦しいことだった。

 たとえば、まあ何とかついてゆけるだろうと思った国漢文系統にしても、同級十二、三名のほとんどが、文章軌範や十八史略などをこなしきっているのである。

 さらに、アダム・スミスの経済学、パーレイの万国史、ペインの心理学などは、すべてが原書による講義である。

 国漢文はどうやらついてゆけるとしても、兄から教わった程度の英語では、とても専門学の原書講義にはついてゆけるものではない。たいていの者なら、ここであともどりして、やりなおし、というところだが、そこは、彼女のことである。ここで退いたら負けである。他人にできたことだ、努力さえすれば自分にだってできるはずだ。

 負けずぎらいの努力家が、他人の三倍五倍の猛勉強をはじめた。

 一ヵ月、二ヵ月、三ヵ月もしないうちに、どうやら級友たちと同じぐらいに理解ができるようになり、半年ぐらいすると、もう学力では級友を追い越すようになってしまった。

 当時、孝の同級生には、後の元田作之進夫人や、割烹教育の権威となった亀井まき子、指原乙子両女史などがあって、この方々は、孝の終生の良き友であった。

 彼女はこうした級友の中にあって、半年ほどで、学業ではずばぬけてトップになったが、そのスタイルは、手織木綿の着物に、これまた着物と同じく自身で手織った黒紋付の羽織、繻子の細縞の帯びをしめ、髪はひっつめて束ねただけという、東京ではちょっとみられない独特なものだったので、その勤勉ぶりとこの独特のスタイルによって、彼女は一年も経たないのに、全校の注視の的になってしまった。

 これは、けっして筆者の嘘でも誇張でもなく、当時を知る人々の間に、永く思い出となって語り伝えられた事実そのままである。

 ともあれ、郷土の風習や嘉悦家の家風などのきびしい伝統に鍛えられて育った、彼女の田舎娘然としたゴツゴツした行住坐臥の立居振まいが、優雅で都会風の他の令嬢型女子学生の中にあって、一人だけちがっていたのであるから、目立ちもしたであろうし、ユーモラスにもうつったことだろう。

 しかも、学業はずばぬけて優秀ときたのだから、目立たない方がおかしいくらいのものである。

 三百有余の全校生徒が、半ば羨望の心で、半ば田舎娘のくせにという軽蔑の心で、彼女を注目したのも当然のことだった。

 しかし、その注目は、教員室にあってはちがっていた。

「嘉悦は別だ」

「地方にも、あんなに出来る娘がいたのか」

「さすが熊本で知られた嘉悦氏房の令嬢だけある」

「いまに何かやる女だよ」

「あの素質は、叩けばたたくほどのびそうだ。思い切って叩いてみるか」

「女子にしては珍しい存在だ」

「男に生れてくれば、もっと面白かったかもしれんのになあ」

 教員室における先生方の評価は、日とともにあがる一方であった。

 筆者も教員の一人であるからいえるのだが、教師というものは、まずよく勉強してよく出来る子が、なんといってもいちばん可愛いものである。

 そのつぎには、先生先生とよく慕ってくれる子である。

 その次には、同じ無愛想なら、愛くるしい方がよいということになる。

 ともあれ、第一点では先生方に好かれる条件をそなえた孝であった。

 が、とかく熊本の女性は、どちらかといえば男勝り型、悪くいえば女らしくなく男くさいほうが多い。

 彼女は容貌はもちろんのこと、容姿も動作も、お世辞にも女らしいとはいえない。

 にもかかわらず、彼女がすべての先生方から可愛がられ、目をかけていただけたのは、彼女の素質と性格と人柄によるだろうが、彼女が良き師に恵まれたというほかない。

 やがて、生徒をほめる時にも、叱るときにも、孝の名前がかならず第一番に引合いに出されるようになった。

 また、彼女の“先生志望”が、とくに積極的にそうさせたのでもあろうが、まめな、世話好きな気質ともあいまって、彼女はとくに下級生に対してやさしかった。

 もちろん、昨今とちがって、当時は上長者を敬う心の厚い時代でもあったが、彼女は、下級生の敬愛を文字どおり一身に集めた観があった。

 黒紋付に染めぬいた嘉悦家の家紋“三つ帆の丸”は、全校生徒の親愛の目印となって、三百余名の全校生の記憶するところとなった。

 この孝に、この学校でもう一人、強く深い好意と、精神的発展に啓示を与えてくださった先生があった。

 それは、経済学の土子金四郎先生だった。

 土子先生は、横浜正金銀行に勤務のかたわら、教鞭をとっておられた帝大出の法学士であったが、教員室でも評判の高い孝の頑張りぶりと、当時の女性には珍らしい数学的才能に、興味をもって着目したのだった。

「女子が将来の志望を学者としたのは面白い。一つ練ってみるか」

 先生は孝に、わざと難解な問題を出す。

「嘉悦さん、この問題はできまい」

 孝は、二日でも三日でも、徹夜してでも、その問題に取組んで、頑張りつづけ、結局解いてくる。

「これはどうだ」

 さらに難題が出される。

 教壇から見下す土子先生と、見上げる孝の目の輝き、そこには教える者と教えられる者との、生命の火華が美しく散っている。

 これが、本当の師と弟子の姿である。

 ついには、数学や経済学の問題だけでなく、新しい編物や手芸の類まで探してこられ、

「嘉悦さん、これがやれるかね」

 と持ち出される。

 しかし、これらのことは、土子先生が、この孝という生徒がはたして出来るかできないかというただ結果的興味の上に立ってなされているものでない、ということが、孝には、心にしみてよくわかった。

 土子先生は、自分の理解力、判断力、工夫、根気、すべての学問的、また人間的能力の錬成のために、自分にあれこれと次から次へと難題を出されるのだ。彼女には、それが、師の深い心として、よく理解できた。

 自分のいろいろな能力が、ぐんぐん伸びてゆくのを、彼女自身も身をもって感じることができた。

 土子先生は、後日、孝が独立の学校経営にスタートしてから後も、何くれとなくご指導とご助力をくださったのであった。

 とくに、忘れてならない事がある。それは明治二十二年、孝は本科を卒業して、高等科に入学したが、入学と同時に、高等科の学生のまま本科の助教を嘱託され、勉学をかねて随時本科の教壇に立ったのであるが、その頃、しばらく正金銀行のロンドン支店詰で渡英中であった土子先生が帰朝されて、ある日わざわざ孝を自邸に招かれ、彼女がそれまで見たこともなかった簿記帳、簿記棒、黒・赤のインク一式を土産としてくださり、

「嘉悦さん、いまわたしがなぜそんなものを土産としてあげたか貴女にはわかりますか、実はロンドンでは女が社会に出て大勢働いている。会社や銀行などの帳簿をつける人の中にも、女がいる。日本も今にきっとそんな時代がくる。勉強しておきなさい。それには、まずこの道具で、簿記というものを習わねばならん。

また、そうでなくとも、女にも会計のことは必要だからね」

 これは、孝にとっては、永く積み重ねてきた願望の、その最後の仕上げをしていただいたとでもいうべき訓戒であり、本当に有難い言葉であった。

“先生になりたい”

“女子の学校を設立したい”

“その学校で、女子に経済の知識を”

 それらの実現のためには、いまの土子先生のお言葉は、まさに画龍に点睛であったのである。

 良き師・良き友にかこまれた孝の勉学時代、それはまさに幸福の一語につきるものである。

 幸いにして、孝の青春は、けっして潤いのない勉学の苦労だけに偏ったものではなく、良き師、良き友にかこまれて、人間的にも愛情的にも、人生への深い省察を身につけることのできるものであった。

 私は、あえて、幸いにしてという。

 私の人生もまた、三歳の時から母の手許を離れて、孝によって育成された。

 私の一生は、孝がいなかったならば、まったくちがったものになっていたにちがいない。

 それはともかく、孝が八十の生涯を、ついに配偶者を持たずに清い独身で通し、しかも教育事業・社会福祉事業にその一身を捧げつくす宿命を負いながら、そうした型の人物にありがちな、偏狭な、中世的な感受性に支配されないで、美を求め、愛を理解し、文学美術を愛好し、どんな人とでももののあわれを感じあえる女性であったことは、もとより彼女の人間的素質によるものも多いが、しかし、この時期に受けた諸先生や友人からの影響もまた、決してすくなしとはしないであろう。

 孝は、単なる“男勝りの学校経営者”や“観念的社会事業者”ではなく、人間的に老若男女、誰からも親しまれ愛される人であった。

 これは、青春の一時期を、良き師・良き友にかこまれて、彼女が身をもってそれを味わい理解したところに、その心の鍵があったのである。

「坪内先生のお講義は、本当に楽しかったよ。歌舞伎の団十郎ぶりで“計る計ると思いした”など声色入りの熱演でね。いつも教室は黒山の人だかりという人気だったね」

 と、よく坪内シェクスピア逍遥先生のお講義の真似を、手振り身振りまでまじえて、私に語ってくれた孝であった。

 彼女は後年、母の久子が歌舞伎好きであったこともあるが、よく歌舞伎見物に久子や私をつれてでかけたものだった。

 私が一番記憶しているのは、ニ長町にあった市村座であって、そこでは若き六代目菊五郎と先代中村吉右衛門が、良きライバルとして、至芸を競い合っていた頃で、私は現在の尾上梅幸丈と芝居茶屋や楽屋で遊んだものである。

 実は市川男女歳君の媒酌は、私にさせてもらったが、彼の父の故市川左団次丈が、六代目にしごかれていたのが、この市村座であった。またお嬢さんが本学の卒業生である市村羽左衛門丈も、この頃はお父さんの坂東彦三郎が兄六代目と共演する時代で、まだ子役として舞台に立たれたか立たれなかったぐらいの時だったと思う。

 こうした孝の演劇愛好心も、母久子への孝養がその直接的動機であったとしても、坪内先生のご講義もまた、大きに影響していたものだろう。

 ともあれ、彼女は、教室で興味を感じただけで、あとは実体には触れずにすぐ忘れてしまう、などということのできない性質であもあった。

 出来るだけ広く、そして何でも理解して、取り入れなくてはならない。

 数学ぎらいの友が好む文芸は、自分も数学とともに愛さなくてはならない、そう彼女はつねに自戒していた。

 坪内先生の『書生気質』などはもちろん、当時全盛だった硯友社派の小説、たとえば、尾崎紅葉の『金色夜叉』や『多情多恨』、そして巌谷小波、川上眉山、江見水蔭、広津柳浪などの小説類も、たいていは目を通して、友と論じあった。この広津柳浪の孫桃子さんが国語教師として本校に在校されたことがある。

 さらに『女学雑誌』の若松賤子の翻訳もの、半井桃水の新聞連載小説など、よく愛読したし、中でも紅葉の『色ざんげ』や、小波の『妹背貝』などは、印象に残っていると語っていた。

 この時代は、まさに“鹿鳴館”が華やかなりし頃の西欧文化憧憬時代で、その盲目的崇拝ぶりに反対する人々の間でも、何らかの形でいろいろな影響をうけないものはなかった。

 たとえば、中流以上の家庭、とくに若者たちの間で、それぞれに何か形のきまった社交グループのようなものが習慣的に結成され、しかも品よく運営?されていたそうで、現代のそれらと比べると、ずっと文化的であり、風儀も正しかったようである。

 級友亀井まき子さんの家は学校の近くだった。

 その向いにあった親類の家には、大学生や高等中学(後の第一高等学校)の学生、生徒がよく集まってきて、彼女も亀井家に遊びに行くうちに呼んだり呼ばれたりして、トランプや歌留多などをして遊ぶようになった。

 八、九歳の幼女時代から、父の塾の男性たちの歌留多の席に割り込んで、大いに毛虫っ娘ぶりを発揮して困らせた孝であるから、その道にはいわば永年の経験があって、かなりの自信をもっていたが、いざ立ち向ってみると、百人一首早取りの手練も、男の学生にはなかなかかなわない。

 男子伍して人の上に立つのは、何事でも容易なことではない。

 自惚れてはならない、自分を甘やかしてはならない、と彼女は今さらのように、自分の胸に言い聞かせるのだった。

 目も鼻も唇も、体つきも、万事に何となく厚ぼったく、九州弁で話す彼女の相貌は、男子学生たちにとっても、あまり異性としての魅力に富んだものではなかったかも知れない。

 しかし、冬の夜、火鉢の赤い火を囲んで、焼芋と番茶の香りにつつまれながら語り合う、たとえば、学校の噂、小説批評、人生の意義の考察、そうして、そこではまた当然に、“理想の結婚”の問題も、必ず問題になった。

 そうした時の、彼女の見識と人柄、その非女性的相貌とちがって、男子学生の目をそばだたせるものがあった。

 こうして、彼女もまたどうやら起居・動作・談論のうちに、やっと女性として、異性を観察することができるようになった。

 上京の時、相乗り人力車に乗せられて、プッとふくれた自分を思い出して、懐かしくまた可笑しくなるようなこの頃の彼女だった。

 だが、“男子何する者ぞ”の心意気と、男子にも負けない抱負をもっている彼女の目からみると、本当に頼もしいとおもえるような男性は、この、将来の日本の背負って立つ筈の秀才学生たちの中にすら、見当らなかったようである。

「もうしこし、何とかあって欲しい、と願うのを、男の人は、気位の高い女だと思うのでしょうかね」

 彼女は、こう述懐するのであった。

 彼女とても女性であった。

 しかし、自分の意志によらず、ただ境遇に押されて、何となく結婚してしまう、そういう女性ではなかった。

 のちに、本科を卒業して、太田黒氏の助力によって高等科に通い、そのかたわら本科の助教をつとめるようになってから、成立学舎の先生の一人から結婚を申し込まれたこともあった。

 彼女が一向に気乗りしないので、返事をしないでいると、そのままになってしまったが、孝が自分の結婚を、ともかく実際問題として具体的に感じたのは、この時だけだったかもしれない。

 だが、孝に一つのエピソードがある。

 このエピソードは、私が筆にしないかぎり、世に出ることはない。

 エピソードは、それが美しければ美しい程、ひそかに仕舞われてしまいがちである。

 筆をとるべきかいなか、私にも迷いがあることは事実である。

 孝はどちらを希望するであろうか。

 私は、それを深く考えてみた。

 もし彼女が、これを秘密にしてしまおうとするならば、それは簡単に出来た筈である。

 しかし、一人の人にそれを依頼したということは、かならずしも彼女は、絶対に秘密にしようと思っていたのではないと、解釈してもよさそうである。

 こういう結論に達したので、思い切って、そのエピソードについて語ろう。

 世田谷の桜新町に、“百地蔵”と呼ばれる地蔵堂がある。

 孝は、報恩・感謝と供養の心から、卒業生、教職員、在校中に死亡した学生などの供養のために、数体の地蔵尊を建立したのである。

 そこの堂守をしておられる尼僧の渡辺静心尼は、孝の古くからの知人であった。

 彼女はこの静心尼に、

「私が死んだら、これも焼いて下さい。信仰の上で頼みに思つてゐる貴女には、何も隠し立てしても仕方ない出せうし、貴女がごらんになるのはちつともかまわないといふ気がするものですから」

 と、幼時から身につけていた守り袋とともに、ある一人の人から来た三通の古い手紙を渡したのである。

 その三通の手紙の発信人は、かつて父氏房の広取塾の塾生として、彼女には少女時代の幼馴染であり、のちに衆議院の書記官長を勤め、世俗に徹した洒脱な男性的政治家として、“粋人翰長”の名声が、一世に高かった、林田亀太郎氏であった。

 この書簡は、孝の勉学時代よりやや後のものと推定され、その内容はもとより恋文などというものではなかった。

 しかし、内容は恋文でなくても、彼女がそれを守り袋とともに身につけていたことは、何を意味しているのであろうか。

 そして、それを信仰の友に託し、自分の生涯の終る時に焼きすてて、冥福を祈ってほしいと頼んだ彼女の心境はどういうことであったのだろうか?

 林田氏との間に、文通の交わりもすくなく、まして多忙な林田氏と、どれほど面接の機会があっただろうか。

 おそらく、一両度、それも二人だけという機会は皆無であったと考えられる。

 ただ、もし孝ほどの女にして、この人ひとりを男子中の唯一の心友としておりながら、互いの志望、性格、境遇の上から、結婚の不可能を悟り、しかもなお、この人に恥じない人となる事を生涯の念願の一つとして、その面影を抱いて迷いなき一生を貫こうとする自分自身への近いがあったとしたならば……。

 この女性嘉悦孝観は、これはあくまでも、筆者の創造にすぎないものであるが、私はこの私の想像が正しくても正しくなくても、次のように考えるのである。

 このことは、孝を哀れな女とするでもなく、笑われる者とするでもなく、彼女の清い生涯に汚点となるものでもなく、むしろ、精進不撓の彼女の一生に、中性的でない、まさに女性らしい純情の一点を見る心地がするのである。

 八十歳の処女嘉悦孝は、中性的な精神的不具者ではなかった。

 このエピソードは、それを物語っていると、私は解釈している。

 しかも私は後年、林田氏の遺族の方々を、孝がいろいろと心配し、お尽ししてあげたのをよく知っている。

 もちろん林田氏の遺族でなくとも、そういうことはする彼女である。

 いや、これ以上、余計な想像を重ねて、林田氏と孝を結びつけて考えることは、やめにしよう。

 孝もまた、一人の女性であった。

 これでいいのである。