第八章 ここに知己ありて
前章、ちと寄り道をしすぎたか、本道に戻ることにしよう。
人生は、好事魔多し、とやらいわれる。
上京以来、よき学び舎にめぐりあい、そして良き師をえて、順風を満帆にはらんだ船の ように、一年有余を送って、早くも成立学舎女子部本科第一回の卒業生となった孝であっ た。
しかも、成績抜群をもって、生徒総代として答弁も読み、さらに高等科に進む場合には、 本科の助教まで委嘱された孝だったが、またしても運命は、彼女を押し流そうとしている。
父の事業にまた支障が起こったのである。
学資送金の余裕がないことが知らされてきた。
家からの送金なしでは、かりに本科の助教にしてもらえても、高等科の学費はおろか、 生活して行くこともできない。
まして、この当時では、女の働く道具は極度にかぎられており、現在のようなアルバイ トもなければ、収入の道もない。どう考えてみても学業をつづけるという見とおしはたた ない。
もう、一たん学業を中止するほかには、方法がない。
どうすればいいのだ。
やっとのことで、高度の学問の世界に一歩ふみ入ることが許され、しかも、たとえ助教 という身分であっても年来の志望であった教壇に、立つことができる、そう思って、心か ら喜び勇んでいた時も時である。
青天の霹靂とは、まさにこの事である。
さすがの彼女も、運命の冷酷、非情さに、声を上げて泣いた。
同級生も、教職員の方々も、何とか方法はないかと、親身になって心配してくださるの だったが、なかなかよい結論はでてこない。
この孝の窮状を、たまたま耳にされたのが、氏房とは小楠門下の同門であり、八代県参 事、大審院判事、佐賀県令などを歴任され、明治九年には県民会議長をされたが、神風連 の変に敬神党から襲われたのを最後に、熊本から東京に上京して、実業家として活躍して おられた、太田黒惟信氏であった。
「なに、嘉悦の娘が困っている?ほう、評判のいい子か。よし、同門、知友の娘だ。俺が 学資はすけてやるとしよう。気にしないで勉強するがよかたい」
氏は、孝に助力を約して下さった。
しかし、彼女は、すぐそうですかそれではといえるような性格ではなかった。自力本願 スタイルを、最後まですてない性格である。
そこまで、無条件に他人の世話になっていいものか、他人に迷惑をかけていいだろうか、 新井白石は川村瑞軒に婿に入ることを断ったという話も聞いている。
孝はいろいろと自問自答し、苦悩した。
しかし、周囲の人々のすすめもあり、
「私からの恩などという、小さな事を気にかけずに、ただ無心に勉強すればいいではない か、金を出してくれる人だけが恩人でもないはずだ。先生から学問を授けていただく、そ のことも恩ではないか。
世に恩を受けない人間は無い。独りで大きくなったと思う者があったら、とんでもない 無智であり、傲慢だ。
あなたが立派な人間になってくれれば、それで私も、自分の金を立派に生かして使った ことになる。
お互いそれでよいではないか」
太田黒氏は、さすがに小楠門下であり、また明治の大人物であった。
氏は、孝に懇々と訓されたのであった。
まさに、孝の将来を知る知己が、ここにもおられたのであった。
その知己は、小楠、氏房、惟信と通じた糸によって、孝につながったのであろう。
それにしても、孝にとっては、暗夜に灯明ともいうべき、知己の出現であったわけであ る。
彼女は、思い切って、そして快く、その恩恵をおうけすることにした。
どんな偉人にせよ凡人にせよ、人の恩をうけてよいかどうか、思い迷うときはあるもの だ。ただ、それをどういうふうに感受し、またその事に対してどういう自覚をもつかによ って、凡と非凡の差が生じる。
孝の性格として、此の場合、人の言葉に消極的に従うのではない、天運の恵みを素直に 受けるのだと考えることは、自力本願型であるだけに、かなり積極的な努力を要すること だった。
しかし、考えようによっては、このことは、孝の長い人生と彼女の心に対して、次のよ うな教訓になったのではないかと思う。
何度も言うとおり、孝は自力本願型で、自分の努力を信じ、終始、人事を尽くして天命 を待つという行き方を信念としていた女性である。
もちろん、他力本願は絶対にいけない。
しかし、自力本願ではどうにもならない時ほど、無いとはいえないのである。
そうした時の、援助や恩恵、これまで拒否することは、むしろ増上慢であり、変屈にす ぎない。
本当の恩恵を、正しく理解し感謝できる姿こそ、本来の純粋な人間の心と姿ではなかろ うか、筆者はこう考えるものである。
ただ、その援助や恩恵が、本当に純粋で、何ら野心のないものであるかどうか、これを 判断するだけの良知は、もちろん必要ではあるけれども……。
太田黒氏の恩恵は、純粋であった。
そこには、郷土の後輩、それもなかなかの素質をもった偉材らしい、何とかしてやろう、 それだけの広い温かい心によるものであった。
いったん行きづまったかにみえた孝の前途も、ここに光明をみいだすことができた。
彼女の生涯において、太田黒家との機縁はこれだけにとどまらないのであるが、それは 後にゆずることにしよう。
ともあれ、この一事は、ただ太田黒氏が危急を救ってくださったということにとどまら ず、孝の生涯、そしてこれ以後の孝の心に、人生には、人の恩、世の恩、さらにそれだけ にはとどまらない天地自然の恩、そうした目にみえないものだけでない恩恵が、数えきれ ないほど充満していることを教え、自覚させたといえるのである。
そしてこれは、ただ何ごとも頼るだけという形でないという、孝の純粋な信仰心にも結 びついて行ったのである。
太田黒惟信氏という、またとえられない知己、そしてその方からうけた恩恵は、学資の 援助という金銭的経済的なものだけにとどまらず、もっと大きな精神的恩恵を、孝の心に しっかりと焼きつけた。
孝の一生に、真の、そして計りしれないほど大きな影響を与えて下さった“知己”が、 こんな身近なところにいてくださったのである。
まさに、世の中は捨てる神あれば拾う神もありである。
そして、ここに“知己”あり、であったのである。