第九章 教師の端くればい

 孝は、太田黒氏のご援助と、助教の収入によって、成立学舎の高等部に進み、さらに、 助教として本科生を教えることになった。

 長い念願の第一歩が、やっと実現したのである。

「助教でもなんでも、これで私も、教師の端くればい」 

 孝の勉学への意欲は、益々燃え上った。

 成立学舎女子部本科第一回の卒業生総代として、答辞を読む栄誉をになったことも、他 の人よりも優れた素質と能力が、そして誰にも負けない努力家であることが、立派に証明 されたわけである。

 高等部の勉学のかたわらではあっても、とにかく助教という勤務は、彼女にとっては、 たんに勉強のための一時の便宜ということではなく、長い間希望してきた指導者生活の第 一歩であったのだから、彼女としては張り切らざるをえない。

 受持ち学科は、英語・漢文・数学である。

 英語はどういうふうに教えたらよかろう。

 坪内先生流に、シェクスピア演劇型で行こうか?

 漢文は素読が基礎である。まず素読をみっちりとやろう。

 数学は、この学問に趣味のある者には、たいへん面白い学問だが、あまり好きでない生 徒にはどうしたらよいだろう。

 これらの教授方法の工夫は、高等部での自分の勉学と並行して考え、努力していかなけ ればならない。

 二人分の努力とくぎょうを一人でしなければならない。

 だが、彼女にとってこの努力と苦労は、ちっとも苦しいものではなかった。

「私も、教師の端くればい」

 この義務と責任感を、彼女は寸時も忘れなかった。

 義務感と責任感を持つことは、彼女の負担になるどころか、かえって大きな励みになっ たのである。

 太田黒氏からのご援助も、助教の収入では足りない分だけに、極力すくなくなるように 努力した。

「その頃は、お八つだなどという贅沢は、とてもできなかった。一週間に一度、たった一 本の焼芋が、とてもおいしかったよ」

 そう私に言ってきかせながら、私の欲しがる間食を、何でも私に与えてくれる孝であっ た。

 もちろん、私の幼い頃は現在とちがって、何でもといっても種類はきわめてすくない。

 栄太楼の梅干飴、青木堂のケーキ、そして甘栗太郎あたりが、私の大好物だった。

 孝の時代、私の時代、そして現代、物質的には何という驚くべき相違だろう。

 まさに、恵まれすぎといっても過言ではない現代である。

 しかし、今となって考えてみると、孝の時代は、けっして不幸な時代ではなかった。

 心というか、精神というか、そういう意味では、現代よりずっと幸福な時代であった、 私にはそう思われてならない。

 苦しいことも、辛いことも、感謝の心を忘れないことによって、けっして不平・不満に はなって行かなかった。

 義務感を忘れ、責任感を失い、感謝の心を捨て去った現代の人々は、自分の心を、本当 のあり方から遠くはずして、自ら求めた不必要な心によって、自らを不平だの不満だのに よって苦しめている、と、私には思えるのである。

 それは、個人主義の行きすぎか、利己主義となり、マルクス的唯物論が、人間の心を否 定し、失わせてしまったからに他ならない。

 ともあれ、現代の人々なら、やれ苦しすぎるの辛すぎるの、給料が低いの足りないのと、 不平・不満に引きずりまわされるであろうが、孝は、義務感・責任感、そして感謝・報恩 の心を失っていなかったために、生活の苦しさも、収入の低さも、勉学や教授法の工夫に 夜を徹しても、けっして不平・不満をもたなかった。

「教師の端くれだもん、こぎゃんぐらいのこつで、自分に負けてどぎゃんしゅうに」

 物質的に恵まれない彼女が、精神的には堂々と胸をはって生活して行った。

 現代では見られない、あるいは考えられないことのようではあるが、彼女はやったので ある。

 こうして、教室における授業のあり方や方法については、つねに工夫をこらし、改良に 努力し、研究を重ねた。

 たとえば、彼女にとって数学は得意であったのでともかくも、英語はどちらかといえば 不得意な方であったから、ナショナル・リーダーの教授のために、用意と研究に力を注い だ彼女の態度は、まったく彼女らしい努力のあとがみられる。利用した参考書への書き入 れや覚え書のノートは、後年まで家に残っていて、筆者も何度かそれを見たことがあるが、 初歩の簡単なこの英語読本に、これほどまでよくもと思われるほどの書きこみが残されて いた。

 また土子先生の前述の啓示にしたがって、文字どおりの寸暇をさいて、高等商業学校の 教授について、簿記学を学んだ。

 これからの時代は、まず経済である。

 幼少のころから彼女の経済的辛苦の体験、そして東京にきてからの実社会での生活から えたいろいろな経済的体験、なにかと経済については身に泌みている彼女であった。

 これからは、女が会社で事務をとるようになる。

 そしてやがては、女が自分で事業をするようになる。

 その時に必要なのは、経済的知識である。

 また、家庭にあっても、一家の主婦として、女も消費経済のための知識があるにこした ことはない。

 それには、簿記を知っている必要がある。

 後に、孝は、家計簿を考案して出版したが、これは彼女の独創ではないとしても、また 日本で最初のものではないかもしれないが、しかし先導試行的なパイオニア的出版であっ たことと、かなりな好評で迎えられたことは事実である。

 こうして、孝の簿記学研鑚が始まった。

 彼女は毎日、水道橋の下宿から、中六番町の教授宅まで、徒歩で通った。

 おそらく、女子としては、日本で最初に簿記学を身につけたのではなかろうか。

 孝に、簿記学のあることを知らせ、これを学ぶことをすすめ、そしてその月謝まで心配 してくださった土子金四郎先生は、彼女にとって、まさに恩師中の恩師といってよい。

 太田黒氏、土子先生、棚橋先生、そして多くの成立学舎の先生方。

 そうした方々からの精神的・物質的な数々の恩恵。

 孝は、これを心からなる感謝をもって、彼女の血とし、肉としたのである。

“郷土の先輩なら、そのくらいのことをしてくれるのは、当り前だ”

“先公-センコウあるいはセンテキ(最近の子供たちは先生をこう呼ぶそうである)なら 生徒にいろいろしてくれるのは、当り前だ”

 なにやら、最近は“当り前”という気持ちには、感謝などという心はミジンもない。

 感謝の心のないところに、報恩の心が湧くわけがない。

 教える側も、教えられる方も、唯物論に迷わされているから、何もかも、“当り前”た だそれだけで、片づけてしまうから、だんだんに“心”を失ってゆく。

 けっきょくは、自分から人間の座を降りて、ケダモノになって行くのである。

 唯物論の無かった、孝のこの時代を、まったくうらやましいと思う。

“教師の端くればい”と頑張りつづけた孝は、明治二十四年春、ついに高等部をも卒業す ることができた。

 そして、彼女の学力は、幼時からの環境や、経済的不遇にもかかわらず、思いもかけな い知己の出現、良き師との出合い、また彼女の努力によって、当時の女子としてのレベル を越すものであったと言えよう。

 卒業後も引きつづいて、本科の正教員として母校の後輩を教えることになった。

 しかし、まだまだ、“教師の端くれ”であった。