第十章 女ごん先生ふるさとへ

「東京帰りのおなごん先生は、とつけむにゃー、おなごんくせして、中学の五年まで英語 ば教えきらすげなたい」

「そら、ほんなこつだろか」

「まあだ、わかりやせんたい。すぐ化の皮はげらすたい」

「そぎゃんこつはなかばい。あん人は嘉悦氏房先生の娘げなよ」

「鉄道会社のえらか人で、よく選挙で落ちよらした人な」

「選挙では落ちよらしたばってん、小楠先生のお弟子さんげな」

 東京帰りの女の先生、孝に対する噂は、宇土町の老若男女すべての人々の話題を、さら ってしまった感があった。

 時に明治二十五年四月、南国熊本の春爛漫たるの頃であった。

 ここは、熊本市の南方六里の地、小西行長が築いた宇土城で知られた町である。

 宇土町の宇土銀行頭取である上羽勝衛氏が、熊本細川家の支藩である旧宇土城細川龍興 子爵にすすめて、鶴城学館という中等学校を創設した。

 当時の小さな田舎町としては、思いきった企画であり、この頃としては珍しいといって もいい抱負を持つ大計画であった。

 問題は、教師である。

 個々の学科の教師は、どうにか探せるとしても、女子部の主任教師となると、どうも適 切な人がいない。

 できれば男子よりも女子のほうがよい。

 しかし、あまり年輩者では新しい学問を教えることができない。

 できれば、若くてしかも経験があればそれにこしたことはない。

 だが女の先生、などという存在は、大海の砂の中のダイヤモンドに等しいような当時で ある。

 上羽氏も細川子爵も、これには大弱りであった。

 この時、嘉悦氏房の娘が東京に勉学に行っているが、なかなか学校で評判がよく、助教 を二、三年、現在は正教員として母校の教鞭をとっているらしいという噂が、上羽氏の耳 に入った。

 これだ、これしかない。

 上羽氏は早速に上京して、孝に直談判した。

 郷土の先輩、しかも宇土町の有力者である上羽氏が、わざわざ上京したの膝づめ談判で ある。

 まして、直接ではないとしても、旧藩主細川家のご一族からのお言葉もある。

 孝の心は、大いに動揺した。

 ところが、成立学舎では大騒ぎである。

 ドラフト制以前のプロ野球が、ノンプロの名選手を引き抜きにきたようなものである。

 札束攻勢こそないが、�生れ故郷に錦をかざれ�と説得をしにスカウトがやってきたよ うなものである。

 せっかく、正教員一年を終って、これからいよいよ教師としてのアブラの乗ってくると ころで、待望の名投手が生れようとしているのに、いまこれを横どりされたのでは、成立 学舎としては、数年間の努力が水の泡となる。

 教職員も生徒達も、なんとかして孝を引き留めようと、大騒ぎである。

 生徒の中には、

「嘉悦先生が辞められたら、私もこの学校を退学するわ」

と言い出すものさえいる。

 反対に、鶴城学館方の上羽氏としては、この様子を知れば知るほど、いよいよ孝への評 価を高めて、どうしても彼女でなければと、これまた昼夜をわかたぬ説得である。

「貴女の成立学舎への恩義を忘れたくないという気持は、ようわかるばってん、そしてそ れは人間として尊か気持ですたい。

 ばってん、郷里の貴女の後輩が、貴女の指導教育をうけることで、どぎゃんプラスにな るか、それをよう考えてみてほしかです」

 上羽氏からこう説得されると、彼女の心の底にある郷土愛が、むくむくと頭をもちあげ てくる。自分をはぐくみ育ててくれた故郷、そして愛すべき郷土の後輩たち、を思えばこ の招きをうけたい。だが成立学舎からもいろいろ恩をうけた。

 成立学舎への恩義を重んずれば、郷土の心を無にすることになる。 郷土への義理を立てれば、母校への恩義を失う。

 まさに、平重盛ではないが、�忠ならんと欲すれば孝ならず�である。

 孝の心は、迷った。

「私は平凡な人間だから、私の一生は、迷いの一生だった。いつもどうすればいいか迷う ことが多かった。しかし、成立学舎をやめて鶴城学館に行く時ほど、どうすればよいか迷 ったことはなかった。あの時は、本当に思い悩んだもんたい」

 後年、いくたの難事業と取組み、多くの難問にあっても、それを乗りこえ、達成した彼 女も、この時のことだけは、そう述懐したものだった。

 しかし、結局は、郷土の宇土町に行くことを決心した。

 それは、

�自分の終生の念願である学校の設立は、やはり東京の地である。

 それには、郷里に帰らず成立学舎にお世話になっている方が有利かもしれない。

 しかし、自分一人のことを離れて、大局的に考えてみた場合、郷土からうけた深い恩を 忘れてはなるまい。

 母校成立学舎からうけた恩も、けっして小さいものではない。

 郷土と母国。別に比較するわけではないが、郷土の恩は、より以上に大きく深いのでは なかろうか。

 まず、郷土に対するご恩返しを第一にしよう。

 そして、自分が立派な人間となり、優れた教育者となることが、母校へのご恩返しとも なるのではなかろうか。

 ともあれ、郷土への報恩を第一としよう。それが、自分の義務であり、責任である�

 という彼女の考え方からであった。

 筆者には、孝のこの考え方を論ずるだけの資格がないし、また自信がない。

 しかし、たいていの人なら、功利が先に立って、自分の利害関係を優先させて、どうす るかを決めてしまうのであろう。

 正式な教員となって一年、上京してから足かけ五年、普通ならば東京を離れたくないの が人情である。

 個人としても、落ちゆく先は九州相良ではないが、故郷とはいえ日本のはずれの熊本、 それもその熊本からさえ六里もはなれた草深い、田舎町である宇土、東京での生活がいい にきまっている。

 それを、いかに郷土の大先輩の上羽師からの説得があったからといって、義務感と責任 感が無かったら、答は聞かないでもわかるというものである。

 これは、自分の権利だけを主張して生きようという、現代の人々には、とういて理解で きない心境だろう。

 だが、孝には、義務感と責任感があった。

 すくなくとも、彼女の心のなかに、権利の主張よりも、義務感が優先していたことは事 実である。

 現今、こういった型の人間が、だんだん稀少となっているから、権利の主張より義務と 責任を優先させる人間なんてどういう感じの人間なのかなと疑問をもつ人が多いのではな いかと思うが、この明治中期においても、こういう義務・責任感の強い人間が、好かれこ そすれ嫌われるはずはなかった。

 明治十九年(一八八六)、小学校令・帝国大学令などが公布されたが、鶴城学館は小学・ 中学の両程度を兼ねたような編成であったので、宇土町を中心とする近隣から、かなり広 範囲に渡った家庭の子女が、男女を問わず勉学に通ってきた。

「東京から帰って来た若いおなごん先生は、英語でん、数学でん、国漢文でん、なんでん

中学五年までも教えきらす、えらか先生げなたい」

 この噂に驚いて、儀礼的に一応頭を下げていた男子部の生意気ざかりの生徒達までが、 日一日と孝に対して、心からの敬意を表するようになって行った。

 やがてそれは、生徒たちだけでなく、町中の人たち、それも老若男女を問わずに、波及 して行った。

 それには、次に述べる先輩の老おなごん先生の宣伝の力もあったが、やはり義務感・責 任感であふれた孝の言動と、もって生れた性格とがもっとも基本的な原因であったにちが いない。

 その先輩の老おなごん先生の名前は、米原つぐ、この町では古くから一種名物の老先生 であった。

 この先生が、時勢のしからしむるところで、止むをえず、若い主任の孝の下について働 くことになった。

 はじめは、東京帰りといっても四、五年の東京生活の、二十五、六歳の女の子、たいし たことのある筈がない。

 いずれ、化の皮がはがれるだろうから、その時は大いに笑ってやろう、ぐらいにしか考 えていなかったにちがいない。

 ところが、数日いっしょに働いてみると、この若い女先生、なかなか人柄がいい。

 米原先生には、残念ながら、孝の学力の、その万能的広さと、その深さの程度をつきと められるだけの能力はなかったが、ある程度の理解をすることはできた。

 口に出さぬが、

「おぬし、なかなかやるのう」

の心境である。

 その上、東京かぶれの蓮っ葉なところがまったくなく、年寄りを感心させるような行儀 の端正さである。

 ものの一週間とたたないうちに、孝はすっかり、この先輩老女先生を心服させてしまっ た。

 もう、何から何まで、嘉悦先生、嘉悦先生である。

 それも、学校の中だけではない。

 町中のどこの家庭にでも、手当り次第に訪れる実績と権威をもっているこの老女先生が、 じきじきに町中の一軒にこらずに、

「嘉悦先生の書ばみたこつのあるな、ほんな書道の大家が書かしたごたるけん」と口こみ 宣伝を聞かせるのだから、すぐ町中の話題になって、ぜひ孝の書をもらいたいという希望 者が、それこそ町中にあふれることになる。

「見事な花ば活けなはっとよ、嘉悦先生は」

さっそく活け花入門希望者の激増である。

「あん人知らんこつはなんもなかごたる。

 学問だけでなかと、小説のことも、歌舞伎芝居のことも、なんもかも知っとらすばい。  あぎゃん人ば、百科事典学者というとたい」

 しまいには、ミス百科事典あつかいである。

 孝の気持はともかく、孝の存在そのものが、宇土町の教育だけでなく、町のすべてのも のにといっても言いすぎではないほど、この小さな町の刺激剤になった。

 そして、彼女自身もまた、鶴城学館というこの地方の町の新しい学校とそこにおける彼 女自身の使命とが、たんに教室における子女の教育にとどまらず、老若男女を問わず町の 全住民の教養向上にも寄与しなければならないものであることを悟りはじめていた。

 それでこそ、成立学舎にとどまらずに、思いきって郷土に帰ってきた意義がある-。

 孝が、それを悟った時、教師であると同時に、学校経営者となり、社会奉仕のできる人 間になろう、という願望が、さらにしっかりと彼女の心の奥底に定着するのであった。

 こうして米原先生のPRを待つまでもなく、孝一流の精力的な活動が、激しさを加えた。

 それは、教室の授業以外の時間にも、発揮された。

 そして、米原先生の宣伝のおかげによる、町民の孝に寄せられる信頼、これがまた彼女 の校外活動にとって、この上もない便宜になった。

 というのは、こちらは初対面のつもりでも、先方の態度は百年の知己のごとく、という 次第である。

 孝の方では何にも知らなくとも、先方では孝のことなら知らないことはない、という自 信にふれ、さらに大へんな信頼感をいやおうなしに米原先生から植えつけられているので ある。

 孝がどんなことを切り出しても、一も二もなく、大賛成でご協力します、である。

 学校の行事でも、さらには町の新しい行事や集会も、孝の発意なら即座に全員賛成とい うことになった。

 はじめは鶴城学館の生徒だけであった。�字の書きくらべ�(一等になった者が、全部 の清書を賞として貰うという習慣の協議)も、生徒以外の子供たちまで参加させてくれと いう始末で、孝の宿所であった宇土銀行重役川野如矢氏宅まで押しかけてきて、採点を乞 い、彼女はまた来てくれることを心から喜んで、この当時は田舎の町の子供には話に聞い たこともなく、まして見たことも喰べたこともない、カステーラなどという菓子まで与え るので、子供たちは大喜びであった。

 また、彼女は子供たちに乞われると、いちいち折り手本を書いてやったりもした。生徒 の指導に忙しい時は、学校に泊り込んでまで、子供たちの相手をした。

 いまの先生たちが聞いたら、そんな労働過重は、時間外手当をもらっても、やるかどう かわからないと言われることだろう。

 狭い田舎町という、客観的条件もあったであろう。しかし、これが、教師の義務感、責 任感の本当の姿ではないだろうか-。

 孝は、身をもってそれを実践したのである。

 また、家庭を次々に訪問して、学校と家庭との連絡を計ったが、これは教師と生徒、そ して父母との心の交流を深めることができ、町中の人々は、情味あふれることとして、心 から喜び馴染んだのであった。

 彼女が、父兄総代の村田氏の家(元県会議員村田多喜治氏宅)に行くと、誰が知らせる のか、他の父兄たちまですぐに集まってきて、白髪の老婆や、頑固そうな親爺たちをまじ えた一団が、羊のように素直に、彼女の話に聞き入るのであった。

 その間、細川邸にも出入りして、細川子爵令嬢(のちに小出子爵夫人)の学問のお相手 もするという多忙な生活であったが、いつの間にか町民の合いだで、毎日順番にご馳走を つくって、彼女を招いてくれる習慣まで生れた。

 これには、さすがの孝も、多少は有難迷惑のような感じもしたが、よくよく考えてみる と、自分のような者に、町の多くの方々が、これほどまでに親身になってくださる、本当 に有難いことだ、そう考えて、町の方々のまごころが、しみじみ嬉しかったという。

 また、芝居がかかると、かならず誰かが桟敷に招待してくれる。

「ご馳走はお餅か田舎の駄菓子たい、こぎゃん良か弁当じゃなか。

 ばってん、こん人たちはしんから喜び楽しんで芝居ばみるし、私を接待してくれなはっ たとたい。

 本当に朴訥な、よか人たちたい。

 いまでも、本当に想い出すたい」

 後年、孝は、母や筆者をつれて東京の大劇場にでかけて、その華やかな客席や雰囲気を 楽しみながらも、宇土時代の芝居見物、それはドサまわりの田舎芝居であり、東京の大芝 居とは比べものにならなくても、そしてご馳走がどんなにそまつでも、心のこもったもの として、どんなにか楽しく懐かしい想い出になったと語ってくれるのであった。

 宇土生活は、多忙ではあったが、いろいろな意味で忘れることのできない楽しいそして 愉快な想い出であり、それは明治二十九年、孝三十歳の十二月まで、足かけ四年間つづい た。

 成立学舎での助教と正教員の生活は、教室における教師として、授業方法や内容の技術 的鍛練を主とする期間であった。

 そして、鶴城学館時代は、学科授業の研究発展と同時に、教室を離れたいろいろな学校 実務の研鑚、さらに情操教育をふくめた学校内外の生活的指導者としての研究と実践の時 期であったと言えよう。

 はじめ二十数名であった女子部の生徒も、百名ほどにふえていた。

 また男子部の生徒も、直接間接に彼女の薫陶を受けたが、この中には、後の満州大同学 院長井上忠哉、実践女学校長中村俊秀、同理事竹内貞三、医学博士小畑惟清、山梨県知事 黒瀬弘志、熊本県立工業学校長竹下俊夫などの諸氏がおられた。

 そして、孝の生活は、また変動が起ったのである。

 それより先、明治二十六年、それまで落選をつづけていた氏房が、衆議院議員に当選し た。

 氏房は、その中心者の一人となって、明治十五年に、九州改進党を結成している。

 この政党は、地方政党ではあっても、中央政界の自由党や改進党にも劣らないものであ った。

 にもかかわらず、明治二十六年の衆院選挙は、第一回の二十三年から数えて、第五回目 の帝国議会で伊藤博文内閣であるが、この時まで氏房は再度落選しているのである。

 選挙は水ものといわれる。

 また、氏房の落選の理由は、この伝記にとっては絶対的関連はない。

 だが、人間の一生は、好むと好まざるとにかかわらず、また意識するとしないにかかわ らず、何らかの形で政治に結びついている。

 孝の生活が、父氏房と、完全に無縁なものでないかぎり、氏房の生活の変化が、孝の生 活にもいろいろな影響を来すのは、当然のことである。

 孝が四年に近い年月を過した宇土時代に別れを告げなければならない事情になり、成立 学舎から鶴城学館に移る時以上の、全生徒いや全町民による必死の引留運動にも、涙をの んで、これに従うことができなかったという事実が、父氏房の生活との関連によるもので あってみれば、少々の寄り道を許していただいて、氏房と、その当時の日本の政治状況に ついて、簡術させていただくことにしよう。