第十一章 氏房、代議士となる

 氏房は、明治維新後、大参事や権参事(県知事・副知事)を歴任して、内務官僚として の役人生活を体験した。

 明治三年五月、民部省に召され、同年十月胆沢県に大参事として赴任。

 これが、氏房の明治政府での役人としての第一歩であった。

 この時に、こんな話が残っている。

 この年の冬、管下の磐井郡千厩在某村で、租税のことについて不満があり村民のなかで 不穏の挙に出ようとしている者のあることを聞いた氏房は、二、三人の下僚に案内させて、 暴挙をとめるために出張した。

 村役場に着いて、村民を召集したが、なかなか集まってこない、何度も督促した結果、 やっと夜になって集まってきた。

 氏房は、どんなに意に反することがあっても、党を組んで暴力も辞さない行動に出るこ との不法と不利を、じゅんじゅんに説いて聞かせたが、村民はなかなか彼の言うことを聞 こうとしない。

 そこで、下僚の一人の多賀義行氏が突然起ってその指導者らしい一人の村民を捕えよう とした。

 これをみた衆民は、そうはさせじと猛り立ち、手に手に棒や石ころをもって暴れ出し、 家屋を破壊しそうになった。

 これをみた他の下僚の一人は、公憤のあまり、刀を抜いて、実力によって暴徒を鎮める ことを、氏房に提案した。

 だが、氏房は、�暴をもって暴に当るのは、下の下の策であるし、まだこの者たちは、 斬り捨ててしまってもよいほどの暴徒とはいえない�と、理非を明晰にして部下を説諭し た。

 やっと、暴徒を説得して帰路についたのであるが、雪深いこの地方のこととて、一尺以 上の積雪があり、そのため氏房は両脚とも凍傷にかかり、県庁に帰ってからも、歩行に困 難な状況であったが、下僕の背中におぶさって出庁し、ついに一日も政務を休むことがな かった。

 こんな氏房であったが、功利主義、利己主義を否定する彼の性格、さらにはいわゆる小 楠精神を基本とする視野の広い、一国だけの富国強兵策でない、大儀的世界平和論にもと ずいた政治思想では、長く役人という座にはいられるはずがなく、数年にして、野に下っ ている。

 したがって、考え方と立場としては、自由民権派に近いといえるが、一般に言われるそ れらの人々、�板垣死すとも自由は死せず�で知られる板垣退助や、佐賀の乱を起した江 藤新平などとは、またすこしちがっていた。

 たとえば、第五議会の時である。

 当時、氏房は自由党に属していた。

 いろいろな事件がおきて、野党の政府攻撃はたいへんに急であった。

 とくに通商条約の問題が大きな問題となっていた。

 この時、安部井磐根という議員が、�現行条約励行建議案�という緊急動議を提出した。

 これは、近頃どうも外国人が通商条約を無視したようなことをする、これはまったく我 国を軽視していることからである。

 宜しく、条約どおりの通商を行うように、それら不良外国人の罪を責めて、改めさせる べきである。

 というような、主旨のものであった。

 これらの諸外国とのいろいろな条約は、明治維新前、つまり徳川末期に諸外国と結んだ 条約で、これらは結んだというよりも、力関係でやむなく結ばされたもので、まさに日本 を軽視し、外国の特権のみが強調された�不平等条約�の改正・是正、これは明治新政府 だけではない、日本人全体の一大悲願であったのである。

 だが、悲願であればあるほど、慎重に事をはこばなければならない。

 まだまだ、軍備においても、経済についても、内政に関しても、西欧先進諸国とは比べ ものにならない。

 内政や経済では、月とスッポンのちがいがあり、国力・軍備では猫と鼠どころか、虎と 鼠ほどの違いがあった当時である。あまり外国人の感情を刺戟しすぎると、大変なことに なりかねない。

 野党は、攻撃のための攻撃といわれようと、結果がどうなろうと、政府とちがって大し た責任がないから、言いたい放題のことを言って、攻撃をかける。

 まあ、昔も今も、そのへんのところは同じようである。

 さて、氏房の属する自由党は、この議案に対して、賛否が半々であった。

 この案に賛成すれば、もちろん諸野党に大歓迎されるし、その結果、選挙民からも同情 されることは明らかである。

 しかし、いま国際関係が悪化することを知りながら、この案に賛成することは、はたし て国家永遠の経綸という点から考えてみて、どうであろうか?

 寸利のために百害を招く結果になる危険が多い。

 国家の大計、国家の安全という大局に立って考えたならば、この議案に賛成することは できない。

 だが、民党大多数の意見に背いて、この案に反対したら、民党や選挙民の人たちの感情 を損い、次の選挙はとうてい当選できないことは明らかである。

 氏房は、この時ばかりは千思万考して、五昼夜も眠れなかったほどであった。

 しかし、やっと決心がついた。

「五日目の夜ぐらいだったが、小楠先生の教えが、はっきりと私の脳裏に浮んできたたい。

  人はその信ずるところに往け、

正しきを踏んで恐るることなかれ、

斃れてしかしてのち已まんのみ、

これが、先生のお言葉だった。

この教えでいかにゃならん。

結果は二の次たい」

 これが氏房の決心であった。

 彼はただちに、片岡健吉、林有造、天春文衛の三氏を訪れて、この人々に自分の意見を 述べて、党議を確定したのである。

 建議案反対の決議である。

 しかし、大厚高楼の傾く時、隻柱の支えられるところではない。

 議案は、大多数をもって可決されることが明瞭になった。

 そこで、政府はついに切り札を出した。

 議会解散である。

 そして、翌年総選挙が行われた。

 氏房は、彼自身が予期したように、この選挙に当選することができなかった。

 だが、氏房自身の心は、満足していた。

 彼の政治的良心が、議案賛成を許さなかった。そして、自分の心の命ずるままに行動し たのである。

 その結果が、どう出ようと、それは自分の運命である。

 人間は、自分の心に反し、自分の良心を偽ってまで、功利のために動くべきではない。

 これが、氏房の大信念であった。

 役人にも適しない氏房、そしてマキャベリズム政治家にもなりえない氏房であった。

 他人は、これを彼の敗北というであろう。

 しかし、はたして敗北なのかどうか?

 それは、いつか、歴史が決めることである。

 ともあれ、明治二十九年暮、孝は涙をのんで、宇土町の鶴城学館を辞任した。

「嘉悦先生が熊本県宇土町の私立鶴城学館の女子部主任として赴任されたのは明治二十五 年で、今から約五十年前の昔なので、先生に対する追憶も誠に朧げであるが、御父様が識 見名望共に高い嘉悦氏房翁であること、先生が当時としては全国的に珍しい女の先生で而 かも東京新下りの女の先生と云ふので、学館内は勿論、町民全部の尊敬の的であり、又噂 の中心であつたことは事実である。(中略)

 先生は例の達筆で一々生徒等に折り手本を書いてやられ、又筆法など教授されたことも あった。当時の生徒の内には今に此の手本を保存して居る人が在り、宇土小学校にも一部 保存されて居るさうである。(中略)

 それで愈々明治二十九年に先生が御家庭の事情で辞任上京さるることとなつた時の生徒 の悲み、父兄の驚きは実に非常なものであつて、父兄も生徒も強硬な直接談判や、猛烈な 引留運動やで随分騒いだが、事情已むを得ず、遂に涙を呑んで御別れすることになった。 (後略)」

 これは、当時男子部の生徒であった、のちの実践高等女学校長中村俊秀先生の、孝の想 い出について書かれた一文である。

 別離というものは、日頃はあまり親しくない人でも、何とはなしに別れがたくそして寂 しいものである。

 まして、町中をあげて孝ブームを起した、そのご本人が町から去って行くのである。

 宇土の人々ならずとも、別れがたいのが、人情である。

 しかし、父氏房が新居を東京千駄ヶ谷の地にかまえて、一家をあげて上京しており、兄 の博矩も日本市街鉄道会社に勤めて、氏房の家の近くに住んでいるという嘉悦家の事情は、 たった一人の孝を、どうしても東京に呼びもどしたいと思うのも、これまた人情であろう。

 孝としても、家族の者たちと五年近い別居生活である。

 宇土の人々とも別れがたい想いは深い。

 しかし、彼女の最終的願望を達成する地は、東京しかない。

 孝もついに意を決して、宇土銀行に預金していた二千円の貯金(それは、その頃として 最も利廻りのよかった東京市街鉄道株、五十円四十株となっていた)を懐に、上京するこ とにした。

 この頃の二千円は、大へんな大金である。筆者の十歳の頃というと、大正十五年ごろに なるわけだが、そのころ五厘という銅貨があって、この五厘で、当りクジを引くと砂糖菓 子の当る�ムキ�というクジが五つぐらい買えた記憶がある。

 大正三年に母が父龍人に嫁いできた時の父の俸給が二十円だったそうだ。

 それより十五、六年前の二千円である。

 貨幣価値の変化もふくめて考えてみると、私にはどのくらいの大金なのか、ちょっと、 想像がつきにくい。

 ともかく、四年程で得た貯金である。

 町の方々から、夕食に招かれたり、いただきものも多かったろう。

 現今とちがって、レジャーといっても、芝居見物か遠足、それもご招待が多かったにち がいないから、ほとんど無駄遣いの機会もなく、する必要もなかったであろう。

 貯金のための好条件はそろっていたろうが、一年に五百円、月に四十円くらいの貯金高 である。

 まず、奇跡に近いと言うほかはない。

 しかも、孝は、生涯自分自身のためには、蓄財しない人間であった。

 他人の援助には、絶対に出費を惜しまない人であったが、自分では決して溜めようとは しない彼女だった。

 その孝が、宇土時代にはこれだけの貯金をした。

 これは、彼女が、学校設立という大望のためにした努力、に他なるまい。

 そして、やがて、これは貴重に生かされてくるのである。