第十二章 ふたたび東都に

 東京名物の空っ風が吹きあれる東都、その風も、いまの孝には冷たい風ではなかった。

 三十一歳になった孝ではあったが、数年ぶりに逢う両親、そして弟妹たちが待つ、千駄ヶ谷の新居は、暖い憩いの場であった。

「ただいま帰りました」

「おう、元気らしかな」

 謹厳な父氏房も、珍しい笑顔で彼女を迎えてくれたし、母の久子は温顔をくずしぱなしで喜んでくれた。

「姉さん、はよこっちにおいでなはれ」

 妹の末子が身重なのもいとわず、出迎えてくれた。

 兄の博矩と陸軍騎兵大尉の次弟敏はいなかったが、末弟の龍人も麻布中学生のニキビ顔をほころばせて、

「よう帰んなはった。皆で何日か何日かと待っておりました」

と、熊本弁と東京標準語を一緒くたにして、姉上歓迎の辞を述べるのだった。

 ああ、東京に帰ってきた。

 我が家に帰りついた。

 郷土熊本から出京した彼女であったが、出京したという感覚はなく、帰ったという気持が強かった。

 狭いながらも楽しい我が家、歌の文句ではないが、そして鳥や獣の帰巣本能ではないが、この感じが持ちえられる場、それが家庭であろう。

 新春一月の嘉悦家は、こうして孝を迎え入れてくれたのであった。

 時に明治三十年。

 さて、松がとれると、すぐに就職先探しである。

 いい具合に、それもすぐ決った。

 麹町平河町にある女紅学校。

 それが、再度上京した孝の第一の就職先であった。

 この学校は、毛利公爵の母堂が会長である大日本婦人教育会が経営母体で、学資の出せない家庭の子女を集めて、勤労教育をおこなおうという主旨で設立された学校であった。

 孝は、この学校の監督にと望まれたのである。

 学校の趣旨も、大へん結構である。

 一日もじっとしていられない活動家の孝のこと、東京に帰ってすぐこんなよい学校で働けるとは、何という幸福者だろうと、大感激で、早速に出校してみた。

 二十人ほどの生徒が、無気力な顔をして、教室に居ならんでいる。

 事務員もたった一人である。

 さすがの孝も、出鼻をちょっとくじかれた感がしたが、彼女のことである、努力をすれば何とかなると決意して、例によって、教師兼事務員兼掃除婦の活動が始まった。

 生徒が少いのは、社会が勤労に対して理解がないのだから、まあやむをえない。

 だが、いかに学資の出せない子女たちへの勤労教育だといっても、授業よりも勤労が優先され、慈善の押し売りのような物売りばかりさせられる状態には、彼女も疑問を感じないではなかった。

 そんな風だから、孝が一人でいくら頑張ってみても、生徒たちがまったく無気力で、与えられたことは、いやいやながらするけれども、勉学への意欲はほとんどない。

 孝は、ついに憤然として、改革を思い立ち、経営者に彼女の意見を開陳した。

「いくらなんでも、これでは学校でもなければ、教育でもありません。

 これでは、あまりにも生徒たちが可哀そうです。

 もうすこし、予算をいただけませんか」

 孝は会の人々に、そう訴えた。

「貴女のお気持ちはよくわかるのですが、いま会の方にもお金がないので」

 なんど、きり出しても、返事は同じである。

 とにかく、形式的に存続していれば、会の面目が立つ、そういった事なかれ主義なのである。

 孝ひとりが、いかにきりきり舞いをしても、ノレンに腕押しではないが、前進も建設もない。

 気丈な彼女のことだから、くじけたり、涙をみせたりはしなかったが、とにかく、どうにもならない。

 それでも二十人ほどの生徒の中にも,¥、向学心をもった熱心な生徒も何人かあった。

 そうした生徒たちの姿をみると、孝には、いかに経営者が理解がなく、資金がないからと事なかれ主義の状態でも、この生徒をすてて自分が学校を去る、そんな気持ちには、どうしてもなれない彼女の性格であった。

 私が経営者なら、そうでなくても、かりに私の計画で動かすことができるのだったら、もっともっと、ちゃんとした学校にしてみせるのに、と何度そう思ったかしれなかった。

「あの時代は、ほんとうにはがゆい気持ちだけだったね」

 のちに、孝はよく筆者にそう述懐した。

 教育もまた仕事である。

 そして学校という形態は事業である。

 だが、仕事といっても、無機物の品物を作る単なる機械作業的な仕事ではない。

 教育は、教師も人間であり、学生・生徒もまた人間である。

 これを忘れ、この大切な仕事に従事する人間が、もし使命感を忘れて、この仕事を機械作業的に考えたら、教育という仕事は、その本質を失ってしまう。

 教育という仕事は活きているのである。

 その活きた仕事を、さらによりよく生かすための事業が、学校という形態である。

 いうならば、精神の事業、心の経営でなければならない。

 形式と意識だけでは、活きている仕事、し来ている事業にはならないし、できない。

 心を見失った唯物論では、他の仕事や事業もそうではあるが、とくに教育という仕事、学校という事業は、とうていなりたたないのである。

 女紅学校は、学校という形式はあった。勤労教育を行うという意識はあったろう。

 だが、経営者にこの仕事は活きているのだという認識がなかった。

 この事業を、どうしても生かすのだという意欲がなかった。

 それは、孝ひとりの力では、如何ともできえない壁であった。

 こうして、明治三十三年一月、三年間の彼女の努力と苦心も空しく、女紅学校は解散された。

 最後に残った生徒十数名とともに、道端に投げ出された格好になった孝だったが、天はけっして彼女の努力を見捨ててはいなかった。

 わが国教育界の耆宿、吉村寅太郎先生が、手をさしのべて下さったのである。

 ここにも、孝を知っていてくださる知己があった。

 吉村先生は、仙台ニ高から虎の門女学校長として来任されたが、虎の門を退かれて、自ら麹町下二番町に、成女学校という女子校を設立されたのであった。

「嘉悦先生、うちの学校は、校舎こそ旗本屋敷を改造した古ぼけたもんですが、幸いに、宮田脩君、岸辺福雄君、永持徳一君など、先生方は立派な方々がいるんですよ。

 ですがね、女の学校なのに舎監と責任者がいないので、是非とも貴女にお引受け願いたいんです。

 前の学校の生徒たちも、貴女や本人たちがよかったら、いっしょに連れていらっしゃい。こっちはちっともかまわないから」

 孝にとっては、ただ自分が迎えられたという気持以上に強い感動があった。

 幹事兼舎監、という役職などは、彼女にはどうでもよかった。

 将来への希望はもちろんおこと、落着き先さえない女紅学校の生徒たち、孝にとっては、自分自身のことより、それが一番心配の種だった。

 その一番心配していたことが解決でき、しかも自分の身の振り方まできまる。

 まさに、一石二鳥どころか、熱いものが胸にこみあげてくるような嬉しさであった。

 責任感の強い彼女にとっては、自分のことより、生徒のことがきまった、という喜びは絶大なものがあり、本当に泣けて泣けて仕方がなかった。

「吉村先生からお話があったとき、夢ではないか、嘘をつかれているのではないかと、一瞬考えたほどだった。

 生徒をどうしよう、生徒をどうしよう。

 そればかり考えていたときだったので、生徒も一緒にいいですよと先生が言われた時は、本当に信じかねたし、吉村先生のお顔をみて、冗談でないことがわかったときは、天にも昇る気持ちとはこういうものかと思ったよ。

 地獄で仏という言葉があるが、あの時のことようなときをいうのだろうね」

 と方ってくれる孝だった。

 さすがに、吉村先生の人を見る目は高かった。

 とくに、孝を舎監として迎えられたことは、女紅学校のつぶれるのを待っていましたといわんばかりのタイミングであり、先見の明といわざるをえない。

 教壇の上だけで能力を発揮する孝ではない。

 生徒と寝食を共にすることによって、さらに彼女のもつ全人格的なものを、生徒にぶつけて、非常な教育効果を上げる。これが彼女のもっとも優れた教育者的特質である。

 吉村先生が、鶴城学館そして女紅学校での孝のあり方を、うすうす聞いておられたかどうかは不明であるが、舎監に迎えられたことは、まさに適性適職であったと言わざるをえない。

「名は体を示すと云はれて居るが、先生は嘉悦と云ふ姓を其のまま具体化されたお人のやうに思はれてならぬ。それに孝子と云ふお名前に依つて、其処に一種の締めくくりが付いて居るやう私には思はれる。

 番町の古ぼけた成女学校に教鞭を握っておられた頃の先生。その頃、先生はお若かつた。お若くつて、しかも、何時もにこにこして居られたやうに、私は今も記憶して居る。が、このにこやかさの中に、お名前のや何処かに締めくくりを付けて居られたのでは無いかと云ふ風に、当時若輩だった私は、斯う云ふ観察をして居たのであつた。(中略)

 その上、私の記憶に間違ひが無ければ、当時の教員生活と云ふものは、今日の夫れとは違つて、一種の職場のやうなものでは無かつた。同僚同志が一団となつて、何とはなし、如何にもなごやかな雰囲気の中に生活したものであつた。(、筆者。現今の職員室とちがって、人間の心と心の暖かい交流が、目に見えるような気がする。

 権利・権利と、権利の主張ばかりしていて、人間の心と心の交流とその暖かさを失っている現今は、まさに心寂しいかぎりである)

 嘉悦先生は、たしか家事や料理を教えて居られたやうに記憶するが、その頃に在つても、今日の成女高等学校のやうに、何かにつけ、先鞭を付けねばやまじとしたのであつたから、当時としては、極めて時代に先立ち、和洋料理の他に支那料理を教へたのだつた。

 赤坂山王下近くに、今日でも未だ存在して居ると思はれる支那料理店の”もみぢ”、あの料理店でクックをして居る支那人が、当時この学校へ来て、料理法の実際を示したのであつた。(中略)

 宮田脩君は既に故人となり、岸辺福雄君は未だ相変わらず健在であるが、私の観察に誤りが無いとするなら、この宮田、岸辺両君を寄せ集めて、それを二つに割つて、それに少しの肉を加へて女性化したもの、それが嘉悦先生のやうに思はれる。

 何うした事か、私は愛国婦人会の出版部にも数年関係し、閑院宮妃殿下、岩倉公爵夫人をはじめ、棚橋洵子、下田歌子、三輪田直佐子、鳩山春子、山脇房子と云つた教育家とも極めて御懇意を願うやうになつたが、嘉悦先生は、その容貌から云つても、その性格から考へても、斯うした婦人がたとは、全然別個のタイプを備へて居られるかに、私には思はれる。(後略)」

 これは、当時成女学校の同僚であらえrた永持徳一先生の嘉悦孝観である。

 孝の恩師棚橋洵子先生をはじめ、これらの女流教育家の方々は、明治・大正期の私学の興隆に無くてはならない、そしてそれぞれに偉大な実績と功績を残された、大教育家であられる。

 孝も、この先生方の末席につらなる一人であるが、これらの先生方と孝とが、タイプが違うというご指摘に、何やら判るような気もするし、そうかといって、それを全面的に指摘する自信はない。

 だが、この孝伝を書き終った時点において、すこしでもその答えが出せるかどうか、はなはだ疑問ではあるが、努力してみよう。

 後年、筆者の長女夕起が成女高校にお世話になり、筆者もPTA会長を努めさせていただき、そして現在は、東京都私立中学高等学校協会の会長をしておられる、成女の校長中島保俊先生に、筆者が公私にわたって何くれとなくご指導いただいておるのもまた、吉村寅太郎先生によって結ばれた成女学校と嘉悦との、目に見えない糸のつながりがあるのを感じられるのである。