第十三章 成女学校と孝と

 こうして孝は、吉村先生の知遇をえて、この成女学校の幹事兼舎監として、十数名 の生徒とともに、彼女の新しい生活のスタートをきった。

 朝夕、生徒と起居を共にして、親しく手をとって、立ちふる舞いから作法その他の、 生活万端の指導をする。

 これは、まさに孝の独壇上である。

「さあ、ぐずぐずしないでやりましょう。時間を無駄にすることが、一番勿体ないこ とですよ」

 麻の洗面が済むと、孝が先に立っての便所掃除から始まる朝の行事が、まるでベル トコンベヤーが整然とまわるように、寸分の無駄もなく進行する。

 まさに、 働き蜂も顔負けのかのじょの働きぶりを見せられてゃ、生徒もサボるわ けに行かない、

 孝が舎監になってから、破れ畳の旗本古屋敷も、すっかり見違えるように綺麗にな った。

「働くということは、たしかに辛いこともあるでしょう。

 でも、どうです、こんなに綺麗になったところを見ると、私はとっても気持がよく て、働いた苦労や辛さを忘れてしまうんです。貴女たちはどう」

 孝は、まず、自分が真っ先になって働き、その後で、こんな風に生徒たちに語りか けるのだった。

 これが、本当の血の通った教育ではなかろうか?

 働くことがきらいで、有休休暇は一日も残さず取って、さらに生理休暇だ、何々休 暇だと、休むことばかり考えている、現在の人々には、まさに考えられないことだろ う。

 しかし、この頃でも、全部の人が全部働き好きというわけでもなかったであろう。

 やはり、これは余人とちがった、孝の特徴と考えてよかろう。

 自分の感情、とくに怒るというエゴイズムな感情を、他人に見せないことを大切に 考えていた孝だったが、一つだけにがい顔をする時があった。

 それは、食事の時に、平気で香の物に醤油をぼたぼたにかけることだった。

「過ぎたるは及ばざるがごとし、と言うでしょう。

 お醤油だって適量があります。あまり必要以上にかけすぎると、かえって味をこわ すし、たべるものをまずくします。これは勿体ないことですよ」

 と言って、残ったお醤油に湯を注いで飲んでしまう彼女だった。

 はじめは、

「なんでしょう、嘉悦先生は。

 あのくらいなことをケチケチして。

 おかしな先生ね」

 と陰口を叩いて、異様な目で眺めていた生徒たちも、やがて無駄を無くそう、勿体 ないと思われることはやめようという孝の言うことが間違っていないことを覚り、敬 意をはらうようになり、こうした彼女の感化が、知らず知らずのうちに身について行 くのを寮生たちは膚で感じるのであった。

 女子教育の目的は、特殊な才能に恵まれた素質をもった人は別として、一般的には、 あくまで円満な良妻となるように、人格と能力を身につけてもらうよう薫育すること である。

 この真実を覚らせてそれを本当に実践できる教育、それが実学教育である。それに は何よりも率先窮行、これが実学教育を終生の目的とする孝の努力目標であった。

 女性としての日々の勤め、そしてその勤めの隅々まで、これが欠けてはいないか、 これが足りなくはないかと反省しながら、自ら先に立って行い、これを生徒たちの身 についた素質になるようにしなければいけない。

 節度正しく、無駄なく、堅実な生活の実態を示しながら、しかしそれがオールドミ ス的な潤いのないものになってしまってはいけない。

 孝はいつも、これらのことを思い、自戒を忘れなかった。

 こうした生徒指導の努力は、またその彼女自身の自己陶治でもあった。

 心身ともに健全な生活。

 無駄なく堅実な経済生活。

 幼い頃からの数々の辛苦や体験が、いつも孝の考えをそこに落ちつかせるのだった。

「先生、わたしはどうしても通せません。

 先生はどうして、そんなにスッと通せるんでしょう」

 ランプと離れた窓際で、手先もさだかに見えないような薄暮の光りにもかかわらず、 孝のつまんだ糸の先は、魔術のように苦もなく、小さな針の穴をスッと通る。

 いっしょに裁縫していた寮生の一人が、あまり孝と自分がちがうので、こう彼女に 質問した。

「私のは感で通すのでね」

 にっこり笑う孝の顔をみて、その寮生は、この先生は、前進が彼女の勤めの規範と 能力にこりかたまっているのではなかろうか。

 女性能力の権化のような先生だ。

 なにか恐ろしいような思いに打たれた。

 しかし、家事の苦行だけでよいとするような孝ではなかった。

 趣味は人間にとって生き甲斐であり、人生にとっては潤いである。

 日課の書道も、活け花も、琴、茶の湯、手芸、こうしたものに示す孝の修練は、さ すがに嘉悦先生だと、生徒たちを喜ばせたり、羨ましがらせたりした。

 そして、孝の趣味はそれだけではなかった。

 ある時、校内の電話で、友人と長々と芝居の話をしていた小山内八千代(小山内薫 氏の妹で、のちの岡田八千代)は、通りがかった孝にしかられた。

 しかし、後になって、孝が自分以上の演劇愛好者であり、演劇通であることを知っ て、驚くと同時に、叱られたしなめられたことはすっかり忘れてしまい、心から嬉し く思った。

 孝がたしなめられたのは、場所柄や他人の迷惑も考えない長話のことだったことに、 八千代が気がついたからである。

 成女学校時代の嘉悦先生を語る

出席者(イロハ順)

伊藤 裾  林 三枝 豊原わかる

岡田八千代 上村つる 高洲とら

高倉仙子  中川貞子 中村光尾

村田春香  野原やす 矢橋 豊

山崎 花  山田みか 藤本しげ

福島 貞  北沢いの 芹沢もと子

福島 私に成女女学校時代の嘉悦先生のことを書けというお話だったのですが、それ よりも皆さんご一緒のときに話し合った方が面白いものができると思ったんですけ ど、さあ、何からお話ししましょうか。どなたか叱られた方がおありになって?

岡田 ありますよ。私はよく叱られました。何かいけないことがあると私が始めたよ うになってしまって……。どうしてこんなに私ばかり叱られるんでしょうと先生に伺 ったこともありましたわ。でもね。先生はそれは仕方がないと仰言ったのを覚えてお りますわ。

福島 そうですかねえ、私は先生はガミガミ叱るようなことはなかったように覚えて いますが……。

中村 私も叱られたことは何もありませんね。人間がおめでたいので、可愛がられた ことばかり覚えているんでそうかねえ(笑)。

豊原 私たちは小さかったので叱られなかったのでしょう。

北沢 私、お習字の時間に教壇のところで、とてもよく直して下さったことを思い出 します。

豊原 小学のお講義も伺いましたわね。あの頃の先生は、帯を下の方へお太鼓に締め て、とてもしっかりした御様子で、三十三とは見えませんでしたね。

村田 洋服を着ろと仰言ったこともありましたね。洋服を校服にしたいと言われまし たが、そこまでは行きませんでしたが……。

福島 特志看護婦の洋服を召して颯爽として居られたこともありましたね。私たち、 あれが洋服かと思いました。

岡田 そうそう、袖を短くした、改良服のようなんでしたね。

福島 それから髪を上手に結っておられましたね。束髪でしたが、とてもお上手でし たわ。私も一度結って頂いたことがありましたが、それがとても嬉しかったので覚え ています。

林  支那料理をよく作って下さいましたね。私今でもその時教えて頂いたのを毎年 作っています。

伊藤 そういえば、割烹を学校にとり入れたのは先生の御功績ではないでしょうか。

中村 私がその頃のことを考えてみて、先生を上手な教育者だと思うのは、先生が出 来の悪い者でもよく讃められたことです。たとえばお習字でも、下手は下手なりに丸 を沢山つけて下さいました。だから私なんかとても嬉しかったんです。とにかく私た ちいつも喜んで勉強しましたね。村田 簿記のつけ方なんか教えて頂いたのを、私今 でも嬉しく思っていますわ。今私たちがあの棒を使うと、若い者は驚いてみています。

福島 今いう「家計簿」は、おそらく先生のお創始でしょうね。

高洲 そうでしょうね。

中村 頭に沁みこませて頂いたんですね。

村田 算盤をよく教えて頂いたことも、今になってとても助かっていますわ。

林  先生のお声は、ラジオで伺ってもあの頃の通りですね。「身体髪膚これを父母 に受く……」なんて、ホントに昔の通りですわ。

中村 勤労奉仕とか、社会奉仕とか、今奉仕ということがしきりに言われますが、先 生はあの頃に奉仕ということをよく教えて下さいましたね。

福島 私とても恥ずかしい思い出があります。暑い時に体操の講習会がありましたが、 ある日先生が、この暑いのに誰も水を汲んで来ておいて上げる者もないと仰言ったの で、次の日に早速私が水を汲んでおきました。そしたら中村さんが、まあ貞子さんて どうしてそんなに気が効くんでしょう、と仰言ったんです。その時、先生が仰言った からだって言えば何でもなかったんですが、それを言いそびれてしまってとてもきま りの悪い思いをしましたわ。

中村 まあ、そんなことありましたかしら?

岡田 新派で始めて「不如帰」をやったときに、私がお友達に電話でその話をしてい ましたら、それを先生にきかれて、電話で芝居の話などするものではありませんと叱 られました。どうも私は芝居が叱られる原因になったようですが、先生は芝居がお嫌 いなのかと思っていました。その後「桐一葉」の芝居があったとき、先生がみんなに その話をなさいましたので、どうしてあんな話をされたのかと疑問に思いましたが、 あとで私より先生の方が芝居がお好きだということがわかりました。しかしお好きで も学校で芝居の話などすることは、わるいとハッキリ別けて考えていらしたのだと思 います。

福島 矢橋さんはお裁縫でよく讃められたでしょう?

矢橋 さあ、もう忘れてしまいましたわ。

中村 刺繍も教えて頂きましたわね。

伊藤 編物もね。

藤本 私たちの頃には、先生もお忙しくなって、そういうことは教わりませんでした。

山田 あの時代は一番お骨の折れた時代だったでしょう。

中村 そのかわり本当の教育という立場から言うと、とても面白かったろうと思いま すわ。それから、お机の上にいつもお仕事が一杯ためてあって、子供心にも片付けて 上げたいようでしたね。

福島 それは今でもよ。

林  今でも机の上なんかいろんなものが目茶苦茶。

 (二、三声を合わせて、いい秘書があればいいのにね)

豊原 それじゃ今度は整理の箪笥でもお祝いしたらどうかしら(笑)。

村田 あの頃の学校は寺子屋みたいで……。

林  雨が漏って、よく畳を上げましたね。

山田 私も家の都合で三ヵ月くらい寄宿をしましたが、御飯は先生も御一緒で、同じ ものを召し上がりましたね。

藤本 まだ割烹着のない時代だったので、襷をかけてお掃除も一緒になさいました… …。

岡田 そして、その次には叱られて……(笑)。

山田 先生はお叱りにもならなかった代わりに、誰かを特に可愛がるということもあ りませんでしたね。私、日曜のたびに家に帰るのですが、そのことをどうも先生には 申上げかねて、誰か他の方にそう言っては帰りましたが、そこに一寸親しめないとこ ろもありましたけれど、お叱りになることはありませんでしたね。誰にも円満に、平 等に接する方だったと思います。

北沢 学校がひけてから、羽仁もと子さんなどがいらしてよく会があったことがあり ましたね。私よくお茶のお世話などしたことを覚えておりますわ。あれは何の会だっ たかしら?--そうそう、不幸女会とか言いましたわ。不幸な女の人を慰める会を羽仁 さんたちとやっていらしたんです。

林  干瓢の長いのを煮てならべてかけておいて、よくお寿司を作りましたね。

中村 先生にお客様があると、それを出したりして……。

豊原 ホントに、私たちは他に得られないいい学校にいたんだと思いますわ。

林  そうね、みんなが親しくて……。

山田 割烹で作ったものはその場でいただきましたね。いただき方も覚えておかなく ちゃいけないという先生の御主義だったのね。先生はそこまで考えていらしたのね。

芹沢 お作法も教えて頂きましたわね。

豊原 先生と吉村、水谷先生とは、ホントにいいコンビだったわね。

福島 でも実質的なことは女でいらしただけに、先生が消化してから私たちに教えて 下すったんでしょうね。

(この時、嘉悦先生御来場)

福島 今、成女学校時代の先生の思い出を話しておりましたが、先生何かお話しを--。

嘉悦 あの頃は、何子さん、何子ちゃんと名前で呼びましたから、親しみがありまし たね。

村田 先生は何でもよくお出来になりましたが、あんなにお出来になる方があるでし ょうかとお話しておりました。先生はあの頃お幾つでいらして?

嘉悦 三十三でしたね。--私は本当に親に感謝しなければならんと思っております。 今度皆さんに会をして頂くのも親のお蔭だと思います。子供の時から何でもみんなや らされたからです。成女へ始めて行ったときですか?--そうですね。あの頃は何だか 後入り(後妻の意味)に行ったようで肩身の狭い思いをしました。というのは、あの 時私が女紅学校の生徒を引連れて行きましたので……。

 その時連れて行ったのは、たしか十人ばかりだと思いましたが行ってみると、生徒 はここにいらっしるようなお歴々ばかりでしょう?(笑)。女紅学校の生徒のように、 中産以下の家庭から選ばれて大日本婦人会の金で勉強する人たちとはちがいます。そ れで、連れ子をして行ったようで肩身が狭かったのです。

福島 おぼろげながらそのお心持はわかりますね。

豊原 何でも後から入って来た人たちはおとなしくしているように思われました。

福島 失礼ですが、その頃待遇はどのくらいでございました?

嘉悦 さあ、忘れましたね。

中村 先生はあの頃幾つまで働くと仰言ったんでしたか?

嘉悦 多分六十と言ったのでしょう。それが十年生き延びたんですよ。

林  私は成女を出てから先生の女子商業の専攻科へ入れて頂き、英語のタイプライ ターを習いました。女子にも職業が必要だというその尖端を切ったのですよ。一年間 タイプを稽古して、三井物産に二年勤めました。先生の御教育はたしかに尖端を行っ ていましたね。

 こうした、よき教え子にかこまれて、孝は明治三十三年から三十六年まで、四年間 をこの成女学校ですごしたのであった。

 孝にとって、この四年間は、教師としての実践面における最後の研修期間として、 またとない貴重な経験であった。

 だが、何時までもこうしてはいられない。

 一日も早く、自分が今日まで抱きつづけてきた念願を果したい。

 もちろん、成女学校の環境や待遇に不満があるわけではない。

 それどころか、ともに寝起きして、朝から夜まで寸刻の休みもなく手塩にかけて育 てた生徒たちの一人一人が、自分が刻んでみがき上げた大理石の彫像のように、美し く立派に成長してゆく姿を見守ることは、この上なく楽しく、そして喜びであった。

 しかしながら、孝の念願は、あくまで、た一教員として終ることではなかった。

 孝の目標とするところは、一つの専門的課程を教える一教員ではなく、日本女性の ために、何か新しい目を開かせ、新しい力を与えられる、意義ある指導者となること であった。

 そして、そのために、自分の手で立案し、自分の努力で、思うようにそれをなしう る場、その場の実現である。

 その具体的構想は、すでに鶴城学館で、女紅学校で、そして成女学校において、彼 女の心の中に練り上げられている。

 これからの時代は、単なる令嬢教育ではいけない。

 父氏房を通じて伝えられた横井小楠先生の”実学”の実践であり、

 幼年時代からまのあたりにみ、そして体験してきた、家庭と事業の経済的苦難から 発想された”経済教育”。

 日本の女子教育にいままで無かったもの、それが、この私の考える”実学教育”で ある。

 この孝の考え方は、この時代にあっては、まさに画期的な発想であった。