第十四章 私立女子商業設立
孝には、祖母勢代、そして母久子を通して、一つの明治の女性像があった。
祖母は、武士の娘、武士の妻、それも古武士といってもいいくらいの女丈夫的な人 であった。
だが、その勢代に、生活力・生活の知恵は十分とはいえず、浪々の祖父に嫁してか ら、生活の窮迫にあっても、ただ自分の持ち物を売り払って、日々の糧を得るという、 まことに消極的なことしかできなかった。
精神的には、窮乏生活に立派に堪えぬいて、祖父に尽くし、子女を、そして孫の私 まで、立派に養育して下さったが、生活の打開策としては、それ以上の積極的方法は とれなかった。
母の久子は、祖母に負けない良家の出で、女性としての教養や婦徳には、非の打ち 所の無い人であった。
また父氏房にとっては、貞淑なまことに良き妻であったし、私たち子供にとっては、 何かというと自分では子供の学問の相手さえも出来ないで、やれ家庭教師だ、それ塾 に通えという現今のキャラメル・ママとちがって、書道でも漢字でも、子供たちの学 問指導には他人の手をわずらわすようなことのない人であった。
だが、この良き妻、良き母も、家計の逼迫については、その対応策をもたず、なす 術もなかった。
孝の周囲の実学党の人々、その家庭と、友達の母や祖母もまた、嘉悦家における祖 母や母と、同じ型の女性たちであった。
これからの社会では、精神的にさえ確然としていればというわけには行かない。
精神的な育ちの良さ、武士は喰わねど高楊枝、そのあり方が、時代の変化とともに、 士族の商法という失敗を繰り返させ、売り喰いという消極的生活方法しかできないよ うにさせている。
人間は、もちろん喰べられればそれでよい、などという獣であってはならない。
だが、生きるということは、また人間に与えられている使命でもある。
精神の孤高だけでは、だんだん生きて行かれなくなって行く。物理的生活能力が必 要だ。
それが、男女にかぎらず、これからの人間が生きる上に、さらに必要となってくる のは、目に見えている。
そして、女性の一番の弱点は、自分が生活能力をみにつけることを怠って、それを 男性に委せきっていた、そこにあるのではなかろうか?
現在の成女学校での生活に、何の不満もない。
しかし、自分の考える女性像と、成女学校での教育方針には、若干の差がある。
吉村校長といい、宮田先生といい、まことに人格高潔な教育家で、立派な方々であ る。
これらの先生方も、”女性の向上”を、その教育理想として、日夜努力をしておら れる。
だが、孝の理想とは、すこしちがう。いや、大変にちがうかもしれない。
ここでもまた、社会人として生活能力をもった女性の育成、という面が忘れられて いる。
自分一人がいくら実生活に即した教育を心がけ、身をもってそれを示してみても、 やれ外交官の夫人になりたい、いや文学士の奥さんがいいといったような、いうなら ば、相手の男性の地位や名誉や表面的状態ばかりに目を向けて、自分の生活能力の育 成に対しては、すこしも関心を示さない。
結婚がいけないと言っているのではない。
女性の最終目的は、やはり結婚であるべきで、それが失われたのでは、人類は増加 せず、滅亡してしまう。
だが、自分の能力の育成を忘れた、ただ相手の職業や地位だけに頼る結婚は、万一、 不幸な事態が起きた時には、どうしようもなくなってしまう。
残念ながら、成女学校では、現在の女性のこの考え方を是正することができない。
どうしても、生活能力、実務能力を身につけ、そして、どんな人とでも結婚でき、 またその男性と協力していける女性を育成しよう。
それには、自分で、そういう学校を創設する以外にない。
日本は農業国だから、女子農校はどうだろう。しかし、東京の真中で、農学校もで きない。
そうだ、かつて土子先生が、
「嘉悦さん。
文明国では、女子が社会に進出して、いろいろな会社で、会計や事務をやっている。
日本もやがてそうなるにちがいないし、そうでなくても、家庭にも経済的訓練は必 要だからね」
と言われた。
自分も、祖母や母のあり方、またこれまでの教育体験によって、それを痛感してい る。
東京の真中で、しかも知的な都会女性を育てるのだから、
”女子の商業教育”
これだ。
女子の事務員を養成するというよりも、ただ盲目的に金銭を消費するという、不生 産的な家庭夫人ではない、消費経済の切り盛りの上手な妻となれる女性を育成しよう。
”女子商業学校”
孝の決意が定まったというよりも、長い間、孝の心の中に蓄積されてきたものが、 やっと時機をえて、発酵しはじめた、そんな感じである。
こうして、”女子商業学校”設立計画は、孝の心の中に生れたが、外部的には、な かなか簡単には行かなかった。
なにしろ、現在のような女権が男権よりも強いなどという時代ではない。
明治二十七・八年の”日清戦争”には、どうにか勝ったとはいえ、まだまだ近代国 家といえるほどの資本蓄積もない。
この時代に、女子が、一人で学校を創設するということは、現在では想像すること のできない、至難中の至難事であった。
これまでの例としても、鹿鳴館をその背景として活用し、一代の艶色才弁を駆使し て、華族女学校を設立した、下田歌子女史ぐらいのものである。
まして、孝の考えている女学校は、上流家庭の子女からは相手にされそうもない、 女子商業学校である。
資金も、宇土町時代に貯金した二千円を、この頃いちばん値のいい市街鉄道株四十 株にかえた、ただそれだけである。
個人としたら、相当な大金ではある、しかし、学校設立という大事業からすれば、 けっして大金とはいえない。
他人に頼りたがらない孝である。出資者や後援者を求めて、などという気持は、消 極的にもあるわけがない。
だが、女史の学校としては、商業学校というのは前例がない。
誰か、男子商業教育の体験のある先輩に、相談してみよう、と孝は考えた。
「羽仁さん。貴女、東京高等商業の校長さんの矢野二郎先生をご存知」
「私だって、新聞記者の端くれだから、心臓は強いし、顔だけは広いわよ。矢野先生 には、何度かお逢いしてます」
「そりゃ助かった。私を矢野先生に紹介して下さいな」
「サアサア、この名刺をもっていらっしゃい」
報知新聞の女流記者として、活躍していた羽仁もと子女史は、孝の依頼を気持よく 引受けてくれた。
明治三十六年春、孝はこうして、後の商大、当時の東京高等商業の矢野校長を訪問 して、教えを乞うた。
「わかりました。貴女の目のつけどころはさすがだ。
だが嘉悦さん。率直に言わしてもらえば、実際問題としては時機尚早ですね。
世間は、まだ女子に対しては、そういう教育が必要だとは思っていませんね。
男の商業学校でさえ、昔から”士農工商”と最下級にある商人の修行に、高等教育 まで要るものか、丁稚小僧から仕上げればいい、専門の学校教育をやるとしても、せ いぜい中学程度のもので沢山だ、という意見が多い。
一人の志願者をつかまえるのでさえ、まったく苦労しましたよ」
孝の抱負を、じっと聞いておられた矢野先生は、まず彼女にそう訓された。
「しかし、けっして反対じゃありませんよ。
貴女の着眼は、たしかに正しいし、十年、二十年先のことを考えておられる。
私も感服しました。
だが、私は十一年かかってやっとこの学校を建てました。
どうです、十一年の辛抱ができますか」
「はい。大変なことは、先生のお話でよくわかりました。
ですが、何とかやってみたいと思います。辛抱はいくらでも出来るつもりです。
どうか、これからも、宜しくお願いいたします」
孝は、決意を眉宇にみせて、矢野先生のご忠告に、そう返辞をした。
「いや、そう決心されたのなら、私も出来るだけのお力添はしましょう。
そうだ、ご紹介するから、名古屋高商の校長の市村芳樹君に一度逢われるといい」
と紹介状を書いてくださった。
そして、
「ああそうそう。この人はたしか、貴女と同郷だった。この人にも逢っておかれた方 がいい」
と言われて、芝浦製作所長の太田黒重五郎氏の名を挙げられたのであった。
世の中は、広いようで狭いものだった。
目に見えない糸は、ここでもちゃんと、張りめぐらされていたのだった。
この太田黒重五郎氏は、かつて成立学舎時代に、孝が知遇をえた太田黒惟信氏の女 婿であり、その後継者だったのである。
まさに、奇縁である。
孝はまず、太田黒氏を訪れた。
「矢野先生のご紹介で伺いました。
ご先代には大変お世話になりまがら、長らくご無沙汰いたしまして、本当に申訳け ありません」
ご無沙汰のお詫びを述べる孝に、重五郎ご夫妻は、
「貴女のことも、お父様の氏房先生のことも、父からよく聞いていました。
その貴女が矢野先生のご紹介でみえるとは、面白い世の中ですな。
本当によく訪ねてくださった」
と心から歓待せられた。
孝は熱意をこめて学校設立の決意を語った。
「よくわかりました。父からのご縁でもあるし、出来るだけのご援助はさせていただ きましょう。だが、貴女のお心持ちの問題としては、人に甘え人に頼らない心構えが 大切だと思いますよ。貴女の将来、のちのちのことを考えるとなおそれが必要だと思 います。たとえばいま私の会社に伝手を頼って入社させてくれと頼みに来る学生がい るが、その大半は自分の努力で入社し、自分の力で伸びようという意気がないようで す。それと同じで、寄附を狙って学校をつくるようなことでは、将来あなた自身の理 想や信念を生かす力強い学校はできないのじゃないですか」
さすがに一流経済人としての太田黒氏の忠告であった。
そうだ、私が女子商業設立を決意したのは、私なりの女子教育への理想と信念があ ったからだった。他人に頼らず、できるところまで自力でやってみよう。
「よくわかりました。まだまだ自分を甘やかしておりました。いま持っております市 街鉄道四十株を資金にして、やれるところまでやってみます」
孝のこの決心は、重五郎ご夫妻を心から喜ばせ、そしてこの時からお二人は孝ファ ンとなって物心両面から彼女を後援してくださるようになった。
さて、学校設立というとまず第一に必要なのが校舎である。
いくら明治中期とはいえ、ただの金二千円では、新校舎の建設などは思いもよらな い。
借り校舎で始める以外に方法はない。
借り校舎さがしが始まったが、それもなかなかあるものではない。
と、不思議な糸は彼女をまた土子金四郎先生に結びつけた。
「嘉悦さん。神田に東京商業学校というのがある。校長は有名な洒脱博士の和田垣さ んだ。和田垣先生は私がよく知っているから、貸してくれるかどうか聞いてみてあげ よう」
ところが、この和田垣謙三博士の東京商業学校は夜学(いまの定時制)であったか ら、昼間は教室があいているという暢気さで、
「土子の教え子か、それじゃ家賃はとれないなァ、どうせ昼間は空家だし家賃は等分、 無料・無料」
土子先生の徳もさることながら、まことに和田垣流の太っ腹で、ただで貸してくだ さることになった。
さて次は校長である。
自分はまだ若輩だし女性だし知名度もない。
土子先生もお忙しい方で、それまでお願いすろわけにはゆかない、どうせ校舎の借 りついで、引き受けていただければ、家賃無料の名目もたち、学校の貫ろくもつく、 そうだ、校長も和田垣先生をお借りしてしまおうと、お願いしてみると、
「どうせついでだな。適当な時期までやりますよ。だが嘉悦さんが自信がついたら一 日も早く交代だよ。それに名誉校長みたいなものだから、こっちのほうも無料だな」
受諾もそうだが、就任条件も現代では考えられないものだった。
そこでいよいよこの無賃仮校舎に墨痕あざやかに「私立女子商業学校」という看板 をかかげ、入学志願者がドッとやってきたらどうしようと待ち構えた。
だが二日たち三日たっても、志願者はやってこない。五日目にやっと規則書をとり に一人。この少女に長々と女子商業の教育理念を話してきかせた孝は、あの子は明日 きっと願書をもってくるよと自分自身に言いきかせて、翌日は朝早くからじっと入り 口をにらんでいたが、とうとう現れない。
東京府に出した設立願いも、三ヵ月も経過したのに梨のつぶて、何時認可がおりる のかさっぱりわからない。
「どうも志願者が来ませんな。どうですか商業の二字をとってしまったら。そのほう が生徒が集まるんじゃないですか」
そうすすめてくれる人もあったが、商業の二字を削ったら、私の教育理念を捨てる ことになる。どんなことがあっても、この二字は削れない、矢野先生のご忠告はここ だ、頑張るぞ頑張るぞ、孝の決意は微動もしなかった。
待てば海路の日和ではないが、待つこと半年、明治三十六年十月一日、東京府の認 可が下りた。
そして入学生十一人。
生徒の数より教員の人数の方が多いという入学式ではあったが、孝の心は明かるか った。
とうとうやった。
涙を流すまいと閉じた瞼に、まず父と母、そして祖母勢代の顔が浮んだ。
三十七歳でやっと第一歩が踏みだせました。ありがとうございました。
孝は心の中で、そっとつぶやいた。
棚橋先生、土子先生、矢野先生、太田黒ご夫妻いろいろな方々の顔が、浮んでは消 えて行った。
おかげさまで、おかげさまで、彼女はその方々にむかって、心からの感謝をささげ るのであった。
余談にわたるが、ここまで書き終えた日に商業高校の集まりがあって私も出席した のであるが、その時偶然に東京商業学校長の中村正文先生と隣り合わせになった。大 先輩である先生にご挨拶申上げたところ、
「嘉悦さん、おたくの学校と私のところは、他人じゃないんですよな」
というお言葉をいただいた。
一瞬私は”どうして?”という疑問をいだいた。
その私のとまどいを察しられたのか先生は、
「おたくの初代校長はうちの……」
ハッと気がついて私は、
「ああ、和田垣謙三先生で……」ととっさにご返辞したのであった。
それからは、いろいろとお話がはずんで、本学の名誉教授の松葉栄重先生が東大時 代に和田垣先生の教え子であって、先生の講義が専門のことよりいろいろ世事雑事を 話されるのだが、まことに名講義であって、いまだに忘れられないという話を私によ くされること、私が和田垣先生の墓参をさせていただいていること、そして”孝伝” を書いているのだが、いまちょうど和田垣先生のご好意によって入学式を終ったとこ ろを書いていることなどを申上げて、心楽しいひとときをすごした。
まったく世間は広いようで狭く、目に見えないつながりは、どこで糸が結ばれてい るかしれないのである。
さて、この”私立女子商業”普通の女学校の課程以外に、簿記、珠算、商事要項、 速記などを加えた独特の教科内容で、ここが孝の苦心の在するところ、さらに彼女は 経営費節約をかさねて講師は高等専攻部の学生をたのんだ。金ボタン制服の若い先生 と十一人の生徒の若さがぶつかり合う教室、夜間校のこの学校も、昼間はまるでちが って花ざかりだった。
しかし、こんな苦心も糠に釘で、黎明期の苦難はなかなか彼女を解放してはくれな い。
生徒はちっとも増えないのに、いかに高専の学生とはいえ無料ではない。校長と家 賃は無料でも二千円の資金は水の流れるように、どんどん出てゆく一方である。
成女学校時代の昔なじみの先生方や成立学舎当時の友人や後輩も激励かたがた様 子をみにこられて、
「やっぱり、商業という名前をうたうから世間が敬遠するんでしょう。商業は学科で やえばいいのだから、せめて看板からは商業という名を削ったほうがいいんじゃない ですか」
多くの方々が、そう忠告してくださるのだが、孝は相変わらず、強情にその忠言を うけいれなかった。
”この旗印だけは、どんなことがあっても降せない”
だが、ほとんど時を同じくして、名古屋と岡山に女子商業が出来たことを考えると、 時運はやはり来つつあったのである。
孝の着眼とこの強情さは、けっして彼女の独りよがりや好きこのみだけではなかっ た。
生徒はすくなかったが、周囲に集まった関係者や若い講師たちは、一人残らず孝の 熱意、学識才能に傾倒し、その人柄にうたれて協力を惜しまず、薄給に甘んじるだけ でなくむしろ口から口へと孝の教育家としてのまた人間としての良さを語ってくだ さったのであった。
これは、学校の将来、孝個人の未来にとり無形の利益となり、どんな広告にもまさ った宣伝となった。
創立当時の卒業生としては、名弁護士のちには代議士として活躍された池田清秋氏 夫人で内助の誉れ高かったむら子女史、その一生を孝の片腕となって尽くされた馬場 幸子女史、あるいはそれ以後の卒業生として、三井物産重役阿部重兵衛氏夫人まさ子 女史、同じく宇佐美力氏夫人みえ子女史、日本防災業の創始者能美防災K・K会長夫 人睦子女史などが数えられるが、能美ご夫妻などは金婚式を終えられた現在も変りな いオシドリ夫婦であられて、これらの方々は、まさに近代日本を代表する良妻賢母の 典型というべき方々である。
また、当時の金ボタン制服先生をはじめとする若い講師たちも、それぞれに社会的 に立派な地位を得られておるが、そのお一人で中華人民共和国海関税務司となられた 津田俊太郎氏が、昭和十五年孝教壇生活五十周年によせられたこの当時をしのんだ一 文があるので紹介しておこう。
「”女子商業創立の頃を思ふ”
昭和十五年正月二十六日、神田一ツ橋共立講堂に於て嘉悦先生のご誕生日を選び、先 生の教壇五十年と云ふ教育界稀に見る先生の御業績を賞揚祝賀するため、朝野知名の 士を初め、旧子弟諸姉御集会、盛大なる祝賀会を挙行せられた、実に斯界の美挙で慶 賀の至りに堪へませぬ。先生に於かれても嘸かし御喜悦の事と拝察致します。 当日不幸御盛典の末席に列するの光栄を失した私は心中甚だ遺憾に存じますので、一 言女子商業学校創立当時の事どもを回想してご祝辞に代へさせて頂き度いと思ひま す。
嘉悦先生に初めて御目にかかつたのは今より約三十五年前で、場所は神田の東京商 業学校でありました。即ち今の女子商業学校出生地であります。開校当時で僅かの生 徒、教員諸氏も極めて少数でした。校長は故和田垣博士でしたが事実上校務は先生が 御覧になつて居られ故小田主事が補佐せられて居られました。
そこで当学校と私との御縁ですが、私が当時御手伝ひをしたのは英語の教授で、私 の畏友山崎馨一君が領事館補を拝命せられたので其代りにと云ふ事で、私も通学中の 学校(一ツ橋東京高等商業学校専攻部在学中)から遠くないので自分の授業の余暇を 見ては教へに来つたものでした。之れが御縁で麹町番町にあつた成女学校にも時折り 英語の講義に来る様になり先生に面接の機会も増し御教示を受くる事多くなり、実に 慈母に接する様な気分でした。其当時の事は今でも忘れる事が出来ませぬ。其内私も 業成り職を支那の税関に奉ずることとなり渡支しましたので、三十有余年間は親しく 御指導を受ける事を得ませんでしたが、二年前離支致しましたので又々時々拝顔高教 を受けて居る次第であります。初めて謦咳に接してから今日に至るまで忘れ得ぬ印象 は数多ありますが、其内殊に私が常々感服して居ります事は御寛容の一事であります。 実に其御度量の広大なる測り知るを得ませぬ事であります。正に海洋の如きもので然 も春海にも似た処があります。自分の如きは時に悲観し時に憂鬱になつた時でも一度 先生の温容に接し、慈愛に満ちた奨励の御詞を聞く時は知らず識らずの内に愉快にな り、更に新らしき希望を認め元気を取戻す事が常でした。之れが先生の指導教理の一 つである『怒るな働け』を間接に表現して居ります。而して此簡易なる五文字は絶大 なる実力を有して居ります。普遍的であります、故に先生の側近にあるものは凡僕婢 に至る迄其感化を受けて居りますから一度先生の御宅に伺ふたのものは、其一種特異 のなごやかな而して明朗な雰囲気に入つた事を体験せらるると思ひます。
其他高徳美点はあまたあります、御孝心深き事、人を使ふに申分なき人徳を有せら るる事等々、枚挙に遑ないので此等が今日の御成功の礎因で、本日教育界各方面の御 集合となり大祝賀会になつたのです。此一事を以て先生の偉大さを雄弁に物語つて居 ると信じます。最後に申上度い事は先生が日露戦争前後から世界の大勢より推量せら れ、日本経済界の趨勢に目を注がれ、女子にも一種の商業教育が必要なるを考察せら れ、現女子商業を創立せられた事であります。幾多の困難を排して今日の隆盛を見る に至られしは、元より先生を補佐せられたる幾多有能の方々がありしによるは勿論、 先生の一往邁進的実行力と御指導に待つ事多大なるは喋々を要せぬ事と信じます。賢 母良妻たるの基本教育に加ふるに実際社会に有用なる実業教育を加味し、婦女子を育 成さられんとせしは実に時代の卓見と信じます。御覧の通り其効果は世人の認むる処 となつて今日迄卒業生約一万人を出し皆堅実有用なる社会人となり、又時至れば良妻 賢母となられて居ります。社会は益々進歩し此種教育を受けし婦人を要求するは当然 と存じます。此上とも御賢察あつて一層御改進立派な特殊教育をも併せ有する婦人を 沢山社会に送られる様希望して止みません。
終りに先生の御長命を祈念し、女子教育其他社会事業の為め益々御尽力ありて愈々 先生の高徳を発揚せられんことを願ふ次第であります。」
昭和十五年にこの評価をうけるその基礎が、借り校長、借り校舎、そして十一人の 生徒という姿ではあるが、まさに先覚・先見の明をうちに秘めながら、スタートをき ったのである。