第十五章 “怒るな働け”たい

 孝がこうして私立女子商業を発足させたその翌年、明治三十七年、日本は明治維新後最 大の危機に直面した。

 これまでに日本は、明治二十七年に”日清戦争”を経験している。

 孝にとっては、宇土町鶴城学館時代のことであった。

 当時、独立国とはいいながら、朝鮮国は実質的には清国(中国)の勢力下にあった、

 そして、その清国はドイツ・ロシア・フランス・イギリスなどの国々によって、その領 土の一部を植民地とされかかっており、政治改革を迫られていた。この隣国清帝国の内情 を知った朝鮮では、従来どおり清と手を結んでゆこうとする派と、日本の助力をうけて民 俗の独立と内政の近代化をはかろうとする独立党とが対立、抗争していた。こうした日清 両国が、排外的宗教団体の東学党の乱を機として、七月末その鎮定のために出兵し、山県 有朋の第一軍は京城北方の成歓、ついで平壌付近で清軍を撃破して南満州に進み、一方遼 東半島に上陸した大山巌第二軍は大連・旅順を占領、海軍また山東半島の威海衛を攻撃し て北洋艦隊を全滅、翌年三月には遼東半島を完全に制圧したので、清国はイギリスに講和 の斡旋を依頼し、四月下関で講和条約が締結され�清は朝鮮の独立を確認�遼東半島・台 湾・湖島の日本への割譲�賠償金二億両支払�長沙・長慶・蘇州・抗州の開市・開港など が約された。

 この戦争は、清国と日本の朝鮮争奪のようにみえるところから、日本の侵略戦争だとい う日本人がいるが、これはごく一面だけしか見ることのできない人間か、それとも変手古 なイデオロギーにしがみついているのでそうとしか考えられない人たちだけの論であって、 けっして日本の侵略戦争ではない。

 もしそれなら朝鮮の日本帰属を清国に認めさせる筈で、独立を確認なぞさせる筈がない。

 そして、講和条約の締結直後の四月二十三日に起ったことが、日本の自衛戦争であるこ とを、確実に証明している。

 それは、ロシア・ドイツ・フランスによる”三国干渉”である。

 この三国は、それぞれの国の東洋植民地化の思惑から、この一度締結された”日清講和 条約”にクレームをつけてきたのである。

 ロシアは、不凍港を求めて極東進出の機会をねらっており、遼東半島を日本にあたえる ことは、この野望の芽を完全につみとられることであった。フランスはロシアと同盟関係 にありロシアへの協力は一も二もなかった。ドイツは、露仏同盟により両国からはさまれ ている脅威をなんとかして極東にそらせる必要を痛感していた。三国は、こういう事情か ら遼東半島の日本割譲反対のために”三国干渉”をしてきたのである。

 ロシアは軍艦を神戸に派遣し示威行動までしたが、当時の日本は三国はおろかロシア一 国とでさえも戦うだけの国力はなかった。

 ここに日本は多大の犠牲を払って獲得した遼東半島を、涙をのんで返還した。

 ところが、その後まもなく、ロシアは旅順・大連を租借し、ドイツも青島・膠州湾を租 借して、植民地化するとともに、ロシアはとくに清朝や朝鮮と密約をかわして鉄道の敷設 権を獲得、日本植民地化の野望を露骨に現わしてきたのであって、この”三国干渉”が日 露の衝突の遠因であり、ロシアの日本植民地化が素因となって、日本としては自衛の、ロ シアとしては侵略の、日露戦争が起ったのである。

 日露戦争は、日本にとっては必死の自衛戦争であった。

 これに敗れることは、明治維新前への逆もどりというだけで済まされることではなく、 植民地化すなわち日本の亡国であった。

 国力の差から考えれば、日本の敗北は必然と思えた。

 だが、国民ひとり残らずが一心同体になることによって、かろうじて敗戦を免れた。

 個々の戦闘では、大苦戦の連続ではあったが勝利を得て、露軍を遼東半島から追って北 上し、満州の奉天大会戦にもどうにか勝利を得た。強いて快勝と呼べるものは、東郷平八 郎提督の”皇国の興廃この一戦にあり”のZ旗信号で知られる日本海大海戦ぐらいである。

 しかし、ロシアも国内に革命運動が起きつつあったので、戦意を失って平和をのぞみ、 日本は国家と民族の自衛を果せたのである。

 この犠牲をもって日本が取得し、ロシアが失ったものは、血でも肉でもその固有の領土 でもなく�朝鮮における政治・軍事・経済上の優越権�南満州におけるロシアの権益�北 緯五十度以南の樺太、ただそれだけだった。

 だが、日本の勝利は、西欧列強諸国のアジア分割の植民地化の野望にブレーキをかけ、 アジアの諸民族に覚醒をあたえた。それは有色人種が白色人種にけっして劣るものではな いという自覚に連なるものであった。

 私立女子商業の仮り住いも、こうした国情のなかで、四年半の月日が経って行った。

 無料校舎は、経済的には申分ないのだが、実情的には困ることもある。というのは、き れいに掃除して東京商業にお返しして、翌朝学校へ行ってみると、夜間の男子学生が下駄 で机の上まで歩きまわったらしく、その乱暴の跡始末は毎日、女子生徒の仕事、和田垣校 長は「どうも有難う。お陰できれいになる」とお礼を言われるが、女生徒たちにしてみる と気分も落着かず、情操教育やいろいろの面からしてぢうしても好ましくない。中にはこ んな校舎ではと退学してゆく生徒もある。どうしても一日も早く借家でなく自分の校舎を もちたい。けれども土地もないし、資金も以前からの市街鉄道株だけである。この四年半 で、多少の生徒は増えたが、資金が貯まるどころではなかった。まして生涯、自分のため に余計な蓄財をする意志のまったくなかった彼女であることは、筆者の誇張ではなく、彼 女を知る人々が孝を敬愛した所以でもある。まして、この経営苦難の時、貯蓄どころでは なく学校を続けるだけで精一ぱいであった。ところが、突然思いがけない話が、ふってわ いた。徳が運を呼んだとでもいうのだろうか、知人の某氏から自分の友人が株で大儲けし て、女子商業の話をしたらご相談にのってもよいということだから訪ねてみたらというの である。そうだ、市街鉄道株をもとにして、何とか少しでも殖やして貰えたら、そう考え て早速でかけて相談してみた。その株屋さんは、一目みて彼女の熱意を察し、「ようござい ます。そんな事情ならいっそ建築費は、私がお引受けしましょう」という返辞である。こ の太っ腹な話に孝もすっかり喜んで、善はいそげと早速に敷地の選定にかかった。

 土手三番町に三百五十坪ほどの空地がみつかったが、所有者が台湾で儲けた成金さんで、 なかなか売ってあげると言ってくれない。

 そこで登場されるのが、当時の台湾総督後藤新平氏である。少年の時に氏房に見出され て、東京に遊学され、立身の端緒を与えられたということを、さすがに後藤氏は軽く考え ておられなかった。

「嘉悦先生のご恩は忘れてはいませんよ。私からその地主さんに話してみましょう」

 氏は心よく仲介を引きうけてくださった。

 台湾で利を得たその地主は、台湾総督の口ききとあっては、二つ返辞でイエスである。

 そこまではよいとして土地購入資金も二千円では足りない。

 いままで、ひとりで努力してきたのだから、今度だけは太田黒重五郎氏にご相談してみ よう、そう決心して太田黒邸に参上した。

 孝の話を聞いて、ご主人より先に夫人から心あたたかい提案が出された。

「あなた、出しゃばるようでございますが、こういうことはいかがでしょうか。私がその 土地を買って、それを嘉悦さんにお貸しすることにしたら……」

「うん、なるほどな。それならば取引きで、誰に聞かれても何も言われないですむね。こ れは名案だ。お前、案外頭がいいぞ」

 孝に借金をしたという肩身のせまい思いをさせずに彼女の希望にそってやれる方法。ま さに酸いも甘いもかみわけたというか、血あり涙ある名案といおうか、惟信氏の令嬢で孝 びいきの夫人ならではのご好意であった。

 二代にわたるご好意、それも二重にも三重にも深く考えて下さったもの、けっしてご恩 は忘れません。孝は静かに頭をたれた。

 明治三十九年の暮れも近く、太田黒家の客間の暖炉は、あたたかく燃えつづけていた。

 父が多少のお世話をした方のご尽力、父の友人の後継者のご好意、いちばん重要な校地 の問題がこれらの方々によって解決した。

 何という好運であろう。

 これを、父の世話になったのだから当然のことだと考える人もあろうが、孝はそうでは なく、これは父が種を蒔いたものが、私のときに実り花咲いたのだと解釈した。

 自分の好運が、自分の努力だけによるものと考えるか、それを父祖や他から受け継がれ たものとかんがえるか、人事をつくして天命を待つ、その天命もまた自分ひとりの徳では なく、父祖の徳が自分の徳に、そして自らの努力によって花となり身となったのだ。

 “天は自ら助くるものを助く”というが、これは努力さえすればということでなく、人 間の運命は天運・天命を無視しては考えられないということで、人智・人力を超越したも のがある。これを迷信とし、非科学と考える人は、自分の代ではなくとも、子の代・孫の 代にそれを知る時がある。

 孝は、自らの好運を、そして多くの方々からの好意を、そう理解して感謝した。

 だが“人間万事塞翁が馬”という諺のとおり、孝の運命も二転、三転した。

 喜びと希望にはずむ心を、素人なりに頭に浮んだ校舎の画図面を書き、大工の棟領にい ちいち相談をして直しては楽しみ、父の車夫だったお気に入りの村井喜一郎に、

「喜一っつあん、ちょっと市ヶ谷まで急いで頼むたい、また測りなおさないかんごたる」 と、毎日のように市ヶ谷まででかけて、現地で女設計士の真似ごとをする彼女だった。

 こうして、やっと校舎建築の最終プランもでき、次々に建築材料も運びこまれてくる。

 さあこれで来年早々には、朗らかな斧音が聞けるとして暮れた三十九年であったのに、 さて明治四十年が明けると、建築費を引受けた株屋さんが、日露戦争後の恐慌の端緒とな った一月二十六日の東京株式相場の暴落で途端に一文無し、学校の建築費の援助どころで はないという。“胡から駿馬をつれて馬が帰ってきたと思ったら、息子が落馬して脚を折っ た”のである。

 いや、孝にとっては塞翁の馬だなどといっているどころの騒ぎではない。

 せっかくどうやらこうやらここまできて、さあこれからという時に、この始末、泣くに も泣けない。

 春近しと思ったのも束の間、寒風に頬を吹きさらしながら、孝は茫然として土手三番町 の校地にただ一人、今さらの如く立ちつくした。

 この後に及んで……である。

 さすがに百折不撓の彼女の魂も、この時、一生に一度折れようとした。

 当惑とか悲しみなどというものではなかった。これで何もかも挫折なのだ、という絶望 感だった。

 後にして思い返せば、本当の禍はこうした境遇的現実よりも自らの心の持ち方にあると 自覚できるのだが、さすがの彼女もこの時だけは錯乱しそうになる自分の心が押えきれな いように思えた。

「あの時は、本気で鉄道自殺まで考えた」と孝は述懐したが、市ヶ谷駅の鉄路は深い崖下 にあった。

 彼女が心の弱い女だったら、鉄路に冷い躯を横たえていたかもしれないが、どっこい孝 はけっして弱く凡なる魂ではなかった。

 人間は一度真の失意のどん底に落ち、しかもその深渕から自力で浮び上ったものこそ本 物である。

 孝はすぐこの虚脱から抜けだして、自分を取り戻した。

 ここで自殺だ何だと弱気をおこしたのでは、せっかくの今までの努力や多くの方のご好 意が無になる。そうだ、死んだ気になって、もう一度頑張ってみよう。もう特志の人に頼 るわけにはゆかない。わずかずつでも出資を集めてみよう、そう決心して東奔西走が始ま った。

 出資の依頼といっても、「儲かりますから」と言える営利事業ではない。まして嘘の言え ない孝に「儲けて出資金は何倍にしてお返しします」などと言えるわけがない。しかも、 泣き落して同情を得るという、か弱い女性に変身できる処世術を持っているわけではない。 彼女に言えることは「うまく行きます」ではなく、「いかに立派で有意義なしかも必要な仕 事」であるかを懸命に説得するだけでしかない。

 ところが、案外それがよかった。

 たとえ好意的であっても、事業に出資する人間、貸す側の者にとっては、出資は慈善で はない。実際問題として出資金が確実に回収されること、金の出し甲斐があって事業が永 く成果を収めることができるかどうかが、肝腎なのである。その点、いたずらに卑屈にな らず、“女子商業教育の必要とその理想”を醇々と説く孝の人柄、収支の見通しを正確かつ 具体的に説明できるその数理的聡明さなどが頼もしく写った。

 ぼつぼつとではあったが、それではすこしでも協力しましょうという人が現われ、次々 に紹介され、この様子ならどうにか建築にとりかかれるかもしれないと前途の明るさを感 じはじめた時、又しても大きな救いの手がさしのべられてきた。

「支払条件その他、お金のことについては、先生のご希望のとおりで結構です。とにかく 校舎を建てることをお引受けしましょう。先生のお話を聞いて、結構なお仕事のお役に立 てばとそう思いましたから!」

 という、ある建築業者からの申し出である。この人は、氏房の邸のあった千駄ヶ谷の近 くに住む、弟敏が面倒をみたことのある人であった。

 信じられないような事情の好転であった。

 建築にかかれば木造二階建の校舎だけに完成は早い。蜃気楼ではと疑いたくなるような 早さで校舎が落成した。他の方々からの出資で付帯の設備や新しい校具備品も充実した。

 何たる紆余曲折。

 明日は校名も私立女子商業から私立日本女子商業学校と大きく改名し、盛大に新築移転 の式を挙げるという夜、孝はふたたびただ一人で、数ヶ月前には自殺まで覚悟して茫然と 立ちつくした土手三番町の空地、今は新校舎がその偉容を誇っているその新しい校庭に立 って夜空を見上げた。

 そこにあるのは、つい三、四ヵ月前、全身が奈落に沈むような失意のうちに眺めた灰色 の冬空とは打って変って、満天の星がふるようなすがすがしい五月の夜空であった。

 彼女は不思議な気がした。この変化は、自分の力であろうか、いいやそうではない。こ れは自分の運命もふくめた大自然の運行なのだ。すべては天運なのである。人の恩恵も、 自分の努力も、それらの人間の営みのすべてを大海の一滴よりもなお小さなものとして、 これをふくみかつ統べている永劫の力の輪転、その一部分の現れにしかすぎないのが、人 間の有為転変であり、人生の紆余曲折である。それを思えば、何と小さな、無力な自分で あったろう。だが、もし自分が善と信じてつくす勤めの中に少しでも世に、天理に嘉みす るものがあったとしたら、それでいいのではなかろうか。

 釈尊はすでに万象の内に永遠不滅の運行の真諦を、人間の善と信ずる営みは大宇宙を光 被する“梵”の力の、この意識界への顕現の小さなかけらに外ならない。小さくも貴ぶべ きことである。合掌すべきである、と観破された。

 変化流転の中の一刹那、五十年七十年の現し身の間を、人も我もともに幸せにあれかし と祈り、これに志を立ててきた自分嘉悦孝ではあるが、おそらく現世での勤め営みは限界 もあろう、しかし心の底には万物の霊長としての自覚に立って、大いなるもの天地自然の 理、天理の運行、天運を尊重するという安心立命の境地を持たなければならない。が微小 な身にどれほど悟れるか、ただただ神仏の心に叶うと信じられることを一生懸命にやり、 その結果を自然と感じるほかはない。福も天運の都合、災禍も天命である。

 そうだ一日も早く、成功の得意もなく失敗の落胆もない人間になれるよう努力しよう。

 ただ身をつくして迷わず、この世における自分の勤めにだけひたすらになれる無心の境 地だけを目差そう。

 満天の星空を見上げた孝の心眼には、いまにも神仏の降臨を仰ぎみるような心地がして、 彼女の瞳は童女のそれのごとく澄み、そして終生澄み通したのである。

 時に明治四十年五月、麹町区土手三番町、日本女子商業学校校舎新築移転の式典が行な われ、数こそまだ多くはないが生徒たちも意気揚々新しい学び舎に移ってきた。

 さて、新しき皮袋に何を盛るべきか、ここらで新たに校風を作り、教育の理念をかかげ てみよう。

 それらの教育理想や理念を簡明に知らせ、それに従って訓育の目標にする校訓が必要だ。 それも、すでに使われている名句・金言や、内容の表現されない形式的なものであっては いけない、あくまでも全人格的根本精神をあらわす言葉で、できれば一般生活原理にも通 ずるものであることが望ましい。

 そう考えた時、まず少女時代からの苦闘続きの体験から得た“着実で粘り強い生き方” を唱道したいという気持と、幾度かの運命の変転によって達観とまではゆかなくても彼女 の心の中に次第に練り育てられてきた哲学、そして新校庭の夜空を仰いでようやく一つの 信仰的なものにまで透徹した感激、そうしたものが自然に融合して、天啓のように彼女の 唇をついてでた一語。

“怒るな働け”

 これだ。この言葉を校訓と定めよう。

 怒るな働け、いかにも人生は苦難の旅の連続である。考えると腹の立つことばかりであ る。男は怒り、女は泣くが、その女の涙も多くは悲しみより憤懣の結果である。生きんが ための努力は生存競争となって、多くの利己心がせめぎ争いあって、競争はいつしか闘争 になりがちである。聖者の説かれたように、永遠を達観する活きた心眼をもって見れば、 人間社会は愚かで哀れな怒りの渦が巻いている修羅の巷である。しかもこの怒りは、現実 に生きる力をにぶらせて、終局的には我と我が身を不幸にするばかりである。自分の一生 を大切だと思えば、怒りを表面に出し他人にぶっつけて、しかもその怒りにまぎれて仕事 まで投げ出してしまってはならない。なぜ怒りを押さえ、自分の努力で工夫して困難を切 り抜けようとしないのか。本当の敵は外になく自分の心の内にある。

 人間の行きつくべきところは、人事を超越した平等無差別、永遠の世界にあろうが、そ こに到達するまでのせめてこの一瞬一瞬うぃ、健全に、朗らかに、迷わず、他人に嫌悪感 をあたえることなく、努力を生かして有効に使い、自ら開拓しよう   怒るな、働け。

 まず経済、生きるために働き、そして働きの内に天命を知り、大きな安心を得て、安け く、怒りを忘れられる境地に入ろう。

 怒るな働け。

 いままで性格的には怒りっぽい自分であったから、自分もさらにこの努力をしよう、そ して生徒たちにも、この言葉が処世訓・座右銘として活かせられるよう指導しよう。

 これならば誰にでも易しく理解ができ、誰にでも訴えることのできる言葉である。

 後年、嘉悦孝の名は、この“怒るな働け”の一語とともに、彼女の事業の詳細を知らな い人々の間にまで、津々浦々に宣伝されたのである。

「嘉悦先生、ああ、あの “怒るな働け”の先生ね」……と。

“怒るな働け”は、こうして新校舎とともに生れ、校訓となったが、筆者はこの言葉を、 たんに個人的処世訓・人生訓の座右銘というだけにとどまるものではないと解している。 “怒るな”は平和を意味し、“働け”はもちろん生産財・消費財などいろいろの財の生産を 意味していると考える。

 さらに“怒るな”は精神文化、“働け”は物質文明の進展であると解したい。

 日本精神を中心とする優れた東洋精神文化、これを強固な土台として、その上に立脚し た物質文明の進展、これが人類の正しいあり方である。

 精神文化を軽視した現在の物質文明は、公害を残し、人間をいたずらにエコノミック・ アニマルにしてしまった。これは正しい人類の生き方とは言えない。

 “怒るな働け”の根本精神は、横井小楠翁の“尭舜孔子の道を明らかにし西洋器械の術 を尽くす、何ぞ富国にとどまらん何ぞ強兵にとどまらん、大儀を四海に布くのみ”に通ず るのである。

 精神文化を尊重し土台となし、その上に立って物質文明を進展する、これこそ真の世界 平和招来の道である。

 さあ“怒るな働け” “怒るな働け”。

 新校舎の表玄関の欄干に、孝の筆になる“怒るな働け”の額が、木の香も新しくかかげ られ、この土手町三番町の新校舎は、彼女の魂がこめられた、八方に光彩をはなちはじめ たのである。