第十六章 「貸間にでもしたら」

 新校舎のうちの六間ほどの二階建の古家屋、そこが孝の居宅であり、そのまたうら に二階建の寄宿舎があった。

 孝の自室の障子を開けると、それこそ猫のひたいほどの小さな庭があり、その左側 が寄宿生の台所兼調理教室でその先に食堂、それから中廊下の左右に教室の小部屋が あり、突きあたりの階段を上って、二階もまた中廊下で左右が寄宿生の小部屋十室程 であった。

 孝の他にも、志方むめ、大橋八重先生など舎監をかねた先生たちがいたが、孝は学 監兼実質的舎監であって、彼女の流儀は変らなかった。

 寄宿生と起居を共にし、女性の日常生活の勤めの隅々まで率先躬行してみせる彼女 だった。

 起床のベルが鳴ると、誰よりも一番早く、雑巾がけをし、便所のお掃除をする彼女。

 新しい側近者や生徒たちは、まずびっくりし、それが三日坊主でないことを知ると、 感激嘆賞となり、やがて畏敬にちかい尊敬となって行ったが、彼女にしてみれば、女 紅学校・成女学校で経験ずみの流儀の延長にすぎなかった。

 翌明治四十一年十月二十三日、父氏房が脳溢血で倒れた。孝をはじめ家人一同の看 病も空しく、同月三十日午前十一時、氏房は帰らぬ人となった。

「(前略)惟ふに先生は、啻にわが勤王開国の名士たりしのみならず、尚ほ終生その 身を国事に委ねて、国家進運の開拓発展に寄与し、清操純潔なる模範的紳士たりしな り。先生真摯誠忠の資を以てして、其学識東西古今に通達し、一たび正義の為に起て ば、金石貫かずんば已まざるの概あり。されば王政維新に際しては、尊王愛国の志士 たり、地方官に任じては良二千石の称あり、郷村に在つては殖産興業を奨励し、或は 幾多の良財を集めて育英の師となり、県治に参しては地方自治政の木鐸となり、政党 に入つては朝野執政の警醒者たり。蓋し先生の如きは、一人にして百千の偉人を以て なす所の事業に当られ、能く之を遂げたる者と云ふべし。

 先生夫人久子との間に三男二女あり、芝蘭庭楷に栄え、一門の祥綏、世人の羨望す る所なり。夫人久子氏は熊本兼坂氏の出、先生に帰きてとり五十余年、琴瑟唱和して 春風常に家庭に満つ、性恬淡寡欲、衆と共に楽しむを至楽とし、而も敢学の気象に富 む。児女皆この美質を受く。三男龍人氏(筆者父)の日本外史を家庭に素読する頃、 夫人は深夜人定まりて後、自ら外史の講読を授け、又毎朝愛子の復習を監督せりと云 ふ、その厳粛にして慈愛に敦きこと斯くの如し。嫡男博矩氏は多年育英の業に従事し て、宮崎県師範学校その他に教鞭を執りしが明治二十八年以来、日本鉄道会社の幹部 に入り、目下なほ同社精算事務所にあり。氏もと蒲柳の質まるをもつて、他に己に代 つて国家に貢献すべき人材を養成せんとし、夙に有望なる青年を扶助して学業を修め しめ、爾来氏の誘掖によりて武官又は学士となれる者その数すこぶる多し。夫人は津 留氏の出、名を政子と云ひ、其の間に長男基猪君(二十一歳)二男基武君(十九歳) 三男三毅夫君(十七歳)長女文枝子(十四歳)の三男一女あり。基猪君及び基武君は 目下陸軍士官学校、基武君は野砲第十八連隊にあり。又三男三毅夫君は日本中学校に、 文枝子は府立高等女学校に在る。

 次男敏氏は、陸軍騎兵中佐にして、二十七、八年の日清戦役に殊勲を奏し、功五級 金鵄勲章を賜ふ。(著者註。現在、日本女子経済短期大学名誉学長であられる参議院 議員迫水久常先生のお父様は、不幸この日清戦争において戦傷をうけられ退役して自 宅にあられたが、敏はよくその病床を見舞い、迫水先生ご父君は“他の連中はちっと も来てくれないのに、嘉悦だけは本当によく来てくれる”と喜んでおられ、迫水久常 先生は筆者が始めてお逢いした時、“嘉悦敏さんという人は君の何に当るのか”と嘉 悦という名前をよくご記憶であった)三十五年以来、久しく清国袁世凱の軍事顧問と して天津に在住し、同国軍隊の修練に寄与する所多し。夫人は池辺氏の出、嘉鶴子と 云ひ、長男一郎君(九歳)長女静子(八歳)二男周治君(二歳)あり。

 長女孝子氏は、棚橋絢子刀自の高才にして、多年成女高等女学校その他に於て女子 教育に従事し、声望は斯界に高い。明治三十六年、日本女子商業学校を設立し、現に 校長として之を主宰し、常に寄宿舎内に起臥して三百の生徒を撫育しつつあり。

 二女末子氏は、日本女子商業学校理事小田網太郎に嫁し、長女桜子(十一歳)二女 翠子(九歳)の二子あり。

 三男龍人氏は、麻布中学校卒業後、海軍兵学校に入学、病を得て退学し、目下慶応 義塾大学に在学す。

 先生逝去の後六日、十一月五日、千駄ヶ谷の自邸を出棺、青山斉場に於て葬儀を行 なふ。

 男爵野田豁通氏葬儀委員長となり、亀井英三郎、原田十衛、横井時雄、井上敬次郎、 内藤遊、林田亀太郎などの諸氏十数名、ほとんど寝食を忘れて、諸般の事務を処理せ り」

 当日、葬儀の行列は零時三十分千駄ヶ谷の邸を出発、午後一時青山斉場に到着、森 厳な仏式法要ありてのち、林田亀太郎氏は門人総代として、原田十衛氏は政友会熊本 支部を代表、山本幸彦氏は政友会本部代表として、弔辞を朗読し、栗原武三太氏は山 根中将以下数十氏よりの弔電、神山群馬県知事以下二百数十氏よりの弔状を披露。つ づいて焼香の列は何時はてるともしらず、ついに式終了は午後三時半頃となった。

 此の日、会葬する者、先生の知己、朋友、門人等、朝野の名士八百余名。主なる者 は、逓信大臣後藤新平、海軍大臣斉藤実、伯爵板垣退助、同徳川達孝、子爵由利公正、 同曾我祐隼、同清浦奎吾、同入江為守、男爵磯辺包義、同野田豁通、同堤正誼、同米 田虎雄、同名和長憲、陸軍中将大蔵平三、陸軍少尉梅沢道治、同秋山好古、松田正久、 河野広中、鳩山和夫、杉田定一、元田肇、佐藤虎次郎、亀井英三郎、江原素六、井上 敬二郎、原田十衛、横井時雄、白杉政愛、太田黒重五郎、尾崎行雄、長谷場純孝、青 木庄太郎、菅原伝、栗原亮一、奥野市次郎、棚橋一郎、山本幸彦、山根正次、加藤平 四郎、徳富猪一郎、矢野文雄、岡崎邦輔、徳久恒範、頭山満、山口熊野、西山志澄、 林包明、渡辺勘十郎、利光鶴松、横井時敬、北里柴三郎、浜田玄達、徳富一敬、弘田 長、長谷川泰、元良勇次郎、成瀬仁蔵、山田英太郎、板倉中、小手川勇次郎、望月右 内、宮部襄、漆昌巌、小田貫一、粕谷義三、鈴木寅彦、宮崎栄治、飯田新右衛門、早 川龍介、佐竹作太郎、森本駿、松平忠威、伊藤徳三、大久保端造、三輪田真佐子、鳩 山春子、山脇房子、村野常右衛門、小崎弘道、西村財天、阿部充家、白井競、土子金 四郎、黒田真洞、草村松雄、津田静一、平山勝熊、三輪田元道、戸田正良、村上定等 の諸氏である。又当日は、熊本県政友会支部では、上京できない人々によって、遥拝 式が挙行されたという。

 先駆(守衛)高張、生花及造花○○○○○

                 放鳥     (葬列表最終頁の折込み参照)  先駆(守衛)高張、生花及造花○○○○○


   病床日記

                               嘉悦孝子記

 明治四十一年十月二十三日 晴

 はなやかなる秋の夕日の、はれたれば瑠璃と澄みて雲なき空に照映えて、あかあか と名残を止めつ。風少しありき午後六時半頃なりき。所用ありておのれ太田黒家をお とづれゐける程、遽ただしく鈴の音しておのれを呼びいだせる電話の、いづ方よりか 掛けたりけむと、心危ぶまれつつ席をまかりて電話室ヘ到れば、徒弟新吉のやや取乱 したる声して、今し叔父上の不意に半身不随とならせ給ひ、のたまふ言葉さへ聞きと り難し、急ぎ来りてよとのことなりき。千駄ヶ谷まる父上の俄か病したまひけるなり。 あまりのことに一度は己れが空耳にてはあらじかとも疑ひつれど、一時に心を奪はれ たれば、受話器を手にせるまま、くわしくそれと聞きたださむとだにえせざりき。さ はれ、斯くてあるべうもあらざれば、そこそこに暇乞ひしつ、其儘同家を出でて電車 にとび乗りぬ。いつもは早く覚ゆる電車の今宵に限りておそくおそく思はるるも心せ かるればにや。夢のやうに追分にて下車し、如何にとび行きしかは知らず、七時少し 過ぎには、はや父上を看とる身となりぬ。おのれより先きに、母上及び兄上御夫婦、 妹御夫婦、龍人(弟)、基武(甥)、三毅夫(甥)、文枝(姪)、桜子(姪)、翠子 (姪)、新吉(従弟)、敏子(従弟)もただ事ならぬさまに、御枕のもとにあり。待 ちわび顔に一座の眼は期せずしておのれを見迎ふる。ひたと胸ふたがれて、そぞろに 涙さへさしぐまれつ。医師はと問へば、かねてより父上を見まつれる程近き石橋医師 に診察を乞ひしが、容易ならぬ御病気とのことに、看護婦も招きおきたりなど、応急 の手当ははやのこる所なく行なはれゐたるも、今一層手厚うあいまつらむにはと、高 田病院の副院長林先生に電話す。折よくも御在宅にて、直にお見舞下さるべしとのこ とに、新宿停車場まで人車をいだしおく。間もなく来まして、脳溢血との御診察あり、 されど極々小さき血管の破裂なれば、この後再度三度の溢血さへなくておはさば、御 生命には別状なからむも、唯何を申すにも御老体にておはせば、つとめて興奮せさせ 申さぬやう、専ら静粛を旨としたまへとのことなりき。これより三人以上は御病室に はべらぬこととなし、看護婦二人を交替とし、おのれ等二人づつお側に看とることと はなしぬ。

 その夜のお熱は六度三分、お脈も六十位、昏睡とまでは至らぬも、眼はかたく閉ぢ 給ひ、おほかたうとうととねむり給ふ。七時頃に一度煙草を呑ませよと命じ給ひしよ し。その後は夜すがら唯うとうととして折々起き返らんとし給ふに、なに遊ばすぞと 問ひまつれば、ちよいと便所に行くと答へ給ふ。お言葉もよくは聞きとれす。そは迚 も叶はぬ御容体なれば、この儘にてかと静かに申せば、おうたふなづき給ひ、便器に 用をすまして、またうつらうつらと睡り給ふ。何をか思ひ給ふらむさまもなく、さな がら天使とも見ゆ。されど、ああいたましくも左半身は既に不随にておはせり。

 二十四日 晴

 朝六度三分のお熱にお脈もはかることおはさず。その日は皆様に事のよしお知らせ すべきか、それ程にてもないらしければなど、ひねもす云ひくらす。御食事も進み給 ひて、けふは牛乳四合、玉子三個などいふお食欲、お薬もよく通り、静かにねむり給 ふさま、多く昨夜と異ならず。林先生に電話もて御容体をお知らせす。昨夜検査せし 尿に蛋白質の少しく見ゆるが心がかりなれば、今一度検査せばやとの仰せに、心効き たる使に持たせて送る。未だ皆様へのお知らせはためらひゐたるも、聞き伝へて内田 康哉氏林田亀太郎氏の各御留守宅よりお見舞ありぬ。

 翌朝まで何事もなし。

 二十五日 はれ

 けさ御枕辺に侍して、つらつら御様子見たてまつるに、昨日よりは幾分か病勢も怠 れるさまなり。心に神を念じて、夜も帯を解かで看とりまゐらするおのれ等一族のま ごころの通へるにやとうれし。朝のお熱は六度五分程にて、牛乳もいつもの通りすす み給ふ。九時過ぐる頃、小牧先生と太田黒様と御兄弟相前後して御来車あり。支那へ は知らせたるにやと太田黒様のたまふに、昨日よりその事に就きて心を苦めゐたるよ し答へまつれば、慮り深き御身の、知らす丈けは知らせておかれよ、とにかく御重体 のことにしあればとねんごろに仰せ給ふ。げにもと心をさだめつ、外国電報はすこし く煩はしかりければ、営口経由にて天津なる敏(弟)へ電報す。

 お昼の牛乳もいつもの通りにて、玉子も召しあがりぬ。夕六時頃より、お熱少しく 高うなりたるさまに、看護婦の検温器あつるを、幾度かと見もて行けば、八度三分て ふ高熱なり。何となう安からぬ思ひに胸の打ちさわぐを、強ひてしづめつ、相戒めて 油断すまじきぞと、おさおさお看とりに怠りなかりしが、果して八時頃に至りて痙攣 来りぬ。再度の脳溢血らしきに、称怠れるに朝の御容体の嬉しかりしも、仇なる思ひ にて、もはやせんすべもあらじなど、母上をはじめ皆々顔色を失ひぬ。されどかくて あるべきにあらねば、おのれは横井様へかけつけ、林先生に電話もて御来診を乞ふ。 横井様もあなやと驚かせ、われ等とつれ立ち入らせたまふ。程もなく林先生御来診あ り。たしかに再度の溢血なれば、ますます安静にいたしまつれ、はた、事のよし知ら すべき親しきかたがたへは、はや知らせよとのことに、横井様より各地に伝へたまふ こととなりぬ。されど幸ひにしてこの夜は殊更かはることもおはざりき。

 この日午前、内藤泰吉先生お見舞にと入らせ給ふ。父上とは日ごろわけても親しき なかにておはせり。ちよつと病室をのぞかせよとの切なるおたのみあり。お心のほど 推しまゐらせ、しづかにそのよしを申しあぐ。内藤先生がと申せしお名の、父上にも よく通ぜしにや、そこらをかたづけてとのたまひ、やがてまた、ゆるゆるねころびて など、うは言のやう語らせたまふに、傍に侍りしものども、いづれも胸ふたがりてえ たへがたりしが。

二十六日

 朝とく横井様来ませしが、別にかはることありとしも見上げまつらぬに、少し心を やすめて帰りましぬ。新宿警察署長は亀井警視総監の代理なりとて来たられ、林田御 母公も来ましぬ。十時ごろ徳富御老人御来車、白杉家よりも精一氏来ませり。けふは お見舞客引きもきらず。熊本よりは電報にて御見舞頻々として来たりぬ。夜、井上敬 次郎様、横井様も御来訪あり。

 この日朝よりお熱はやはり六度三分位なるも、すこしく昏睡の度は増したまへる如 し。ただ折折「おこしてくれ、便所に行く」とのたまひ、たえず煙草をのむ手つきな ど例のごとく為し給ふ。お食欲はかはりなし。

 徳富御老人御来車の時なりき。これが一生の別れとならぬも知れず、さあらむには いかに口惜しからむに、病人にさはりなきやう、せめてはそと病室をのそかせよとの、 溢るるばかりなる御友情をこめてのたまふに、御老人のお心を察しまつりては、そぞ ろ涙ぐまれて、兄上と御相談の上病室へと御案内申し上げぬ。初めは父上に知らせま つらぬつもりなりしも、お二人の御間柄を思へば、このまま申しあげぬも辛くて、静 かにお耳に近づき、「徳富のお祖父様がお見舞にお出でです」と申しあげしにうむと うなづき給ひ、しづかに御手をのばして探したまふさまなり。お祖父様のお手をと側 らの看護婦の申すに、お祖父様も御手をのばし、探る手にさはりたまふを、父上しか とにぎりて強き握手したまふに、お祖父様、にぎりしままに、よよとばかり声たてじ と、身をふるはして泣き臥し給ひしにぞ、徳富奥様も、並みゐるわれ等一同も、看護 婦二人も、つまされて思はずもらひ泣きに袂をしぼりぬ。されど、当の御病人は何事 のありたりとしも知らず顔に、そのまますやすやをねむりに耽り給ふが如くなりしぞ 悲しき。

二十七日

 かはることなし。絶えず氷もて御脳を冷やす。相かはらず、右の御手に全力こめて 絶えず動かしたまふに、かはるがはるみ手を持ちて、なるべく静かにしまつらむとの み心をくばる。

 内田様御母堂を初め、岩男三郎様、白杉政愛様、原田十衛様、秋山少将の御夫人な ど、お見舞の客引きもきらず、殊に此日は多かりき。

 野田男爵、後藤男爵も御来訪あり。野田様御声高きを聞きつけ、誰か客かと問ひ給 ふにぞ、野田様なるよし答へまつる。さうかとうなづきたまひしが、暫くありて、ド ッコイドッコイとのたまひ起きんとしたまふに、なに遊ばすと問ひまつれば、「鳥渡 座敷に行つて野田に逢ふ」と仰せらるる。今日はまだ起き給ふ時にあらねば、野田様 をお連れ申さむと申せば、うむとうなづかせ給ふ。野田様においで願はむとてあちら へ行けば、はや、お帰りになりたりとのことに、何と答へまつらむかと打案じつつ引 返して御病室に入る。はや、すやすやとねむりたまふは、すでにさきのこと忘れたま ひしがごとし。

 十一時ごろ、林田氏より敦賀発にて、イマツイタヨウダイシラセとの電報来たる。 イチルノノゾミデキタと返電す。各地よりお見舞の電報十通ばかり来たる。

 お熱はやはり七度ニ三分。食は牛乳四合、卵子三個、林先生も少しくのぞみ出来た りと仰せらる。夜は横井様来たまふ。

 二十八日

 今日は又きのふよりおこりたりままふやふに見上げまつる。朝のお食事も心地よげ に牛乳一合召さる。ただ一つ心がかりなるは毎日の灌腸にいまだ大便のみ通じなきこ とにて、けふは少しく御腹はりて瓦斯たまり居る様子。

 三時頃林田様来ましぬ。お目にかかりてはあしかりなんも、唯ひそかに御病室へと て、しばしみすそのもとにゐたまふ。暫くありて御目ひらきぬ。林田様をつくづくと 見そなはし、さもうれしげににつこりゑみたまひ、「お早うがした」、「さんざんで」 とのふた言仰せられしは、たしかに林田様たるを見とめ給ひしさまに、御病気以来初 めてのお笑ひ顔に、われ等は却つて涙せきいでぬ。横井様、井上様、海老名みやこ様 など御来車あり。けふはまた昨日よりよしと一同いささか愁眉をひらきぬ。牛乳三合 五勺卵子二個の御食事。次の間に山とつもりしお見舞ものを御覧じ、「あの卵子はた れが持つて来たか」などのたまふさま、慾目にはいよいよのぞみいできぬ。

 二十九日

 また昨日よりよきに、いつも朝夕おとづれ給ふ横井様も「おたかさんにおごらせね ばならぬ、二十五日に一番先きに匙を投げた人だから」、などじゃうだん云ひたまふ 程なりき。

 林先生十二時御来車。

 父上の今日はしきりに御飯をもとめたまふよし申せば、この有様ならんには、あす はおかゆ位はよろしからむ。いよいよ危険界を脱せりとまで仰せたまふに、われ等は ますます力を得ぬ。されどこは空だのみなりき。夕刻より少し興奮したまひしかの如 く、起きる起きると云ひつづけたまひ、この夜は昨夜までの如くよくねむりたまはず、 暁となりぬ。

 夜十時頃なりき。小さき孫だち、気遣ひ顔に屏風のかげにあるを見いでたまひ、そ こにゐるはたぞと問ひたまふに、三人の孫すべり入り、長けたるがまづ文枝ですと申 しければ、文枝かと答へたまひ、其次はと問ひたまふに桜ですと申しあぐれば、桜か と答へたまひ、次はとまた問ひたまふ。翠ですと申しあぐれば、また翠かとのたまひ、 心喜びたまふごとくなりき。慾目にはますます御精神のはつきり確かになり行くやう 覚えたり。

 三十日

 ……………

 ああ、されど今は日記をものするだに、涙に目もくらみ、悲しみに胸つぶれて、筆 もたる手のふるへ、何時やむべうもあらじかな。かかるうきこと、つひにはおはさむ には、なほお別れの名残にも限りをつくして、せめてしげかるべきおもひでの愁ひを、 われとなぐさむよすがとむなしおきてんものを。天に哭するも地に叫ぶも今はかひあ らじかし。さはれとはに安けきおねむりの些の苦しみのかげをだにうかべおはさぬさ まの、世にしふちやくてふ雲かからねばにや、すすみよりて、み顔を拝しまつるに、 まことに神々しうもまたなくたふとかりしか--。

 ああ、おのれ等ひたすらの望みの光、今は敢なう落ちたまひぬ。再び仰ぎ見たてま つるべうもあらじと思へば、力なへ気潰えて、先立つは、あやなき涙のみ。おのれ等 一族御枕につどへど、重ねて御声を耳にすること能はず、静けき御姿を、まのあたり にすれど、とはなる御ねむりに入らせ給ひては、はや、み魂をとどめむ術あらじ。悲 しからざめや。

 けさ七時頃に暫しねむりにつかせたまひければ、一同胸なでおろせしも、八時頃よ りやうやうに興奮したまひ、腰のいたむに器械はめよなど、またく常識を失ひたまひ しやう見えたまふにぞ、主任医石橋氏をむかへて興奮をしづめむとて灌腸す。九時頃 なりしか、少し静まりたまふかと見れば、子供をよびて唱歌をやらせよ、文枝にオル ガンをひかせよなど前後もなうのたまふうちにも、何となう御様子あやし。今一度お 医者をといふに、むかひのものと打つれ、五分間もたたず、石橋医師の来ませし時に は、はや、しづかにねむるが如く、こときれたまふところなりき。

 噫………………

 時に午前十一時。

 横井小楠門下の逸足嘉悦氏房は、内閣書記官長林田亀太郎、警視総監亀井英三郎、 逓信大臣後藤新平、海軍大臣斉藤実など数多くの教へ子たちの社会的活躍を喜びなが ら、そして五人の子供とくに長女孝の教育界での着実な歩みとその新校舎の落成に満 足しながら、七十五年の生涯を終った。

 父の生前に新校舎の落成をみせることができたことは、孝にとってはせめてものな ぐさめであった。

 だが、依然として入学志望者は増えない。

 せっかくの新校舎もがら空きである。

 女子に商人の勉強などてんで必要があるのか、まだまだ機運の進展は牛歩のように 遅々たるものであった。

 時々心配して学校にこられる土子金四郎先生が、

「嘉悦さん、空けとくのはもったいないから、貸間にでもしたらどう」

と冗談を言って孝をからかわれると、

「そうですね。土子先生がどんなに高い家賃でもいいから貸せといわれたら考えても いいですが、それでもそんな店子を入れるとうるさいからやはりお断りですね」

 と、屈託なく声を合せて笑う彼女だった。

 経営難は、ちょうど打ち返す波のように、再三再四彼女を襲ったが、孝は自若とし てそれに打ち向って行った。

“今にきっと、入りきれないほど生徒がくる”

 孝の信念は固く揺るぎないものになっていた。