第十七章 “どぎゃんすればよかね”
いかなる先見の明も、それが証明されるのは時機の到来を待つよりほかにない。
言い換えれば、何時その時機が来るかは一つの天命であるが、先見の達識をもってたゆ むことなく努力を続ければ何時かはその時機が来るのが当然の成ゆきでもある。
孝にとって、彼女の先見の明を証明する時機の到来は、けっして早いものではなかった。
明治三十六年から四十年までの神田錦町の仮住いの五年間を第一期の草創期とすれば、 四十年から大正三年頃までを第二期の揺籃期といえよう。つまり通計すれば十二、三年か かっているわけである。
この揺籃期時代に、孝は父氏房を失い、そして日本近代化の中心となられた英明君主明 治大帝陛下のご崩御に遭遇したのである。
「 明治天皇と乃木希典
明治を象徴するふたり
“明治の日本”は、なんといっても世界の驚異であった。
この時代を象徴する人物として、わたくしはまず明治天皇、ついで乃木希典大将をあげ たい。(中略)
この民族の中心になっていたのが明治天皇で、一八六八年に即位して以来、約半世紀間、 帝位にあって一九一二年七月三十日になくなった。その前から天皇の御製が英訳されてい て、単なる“戦争好きの君主”ではなく、詩人的素質も、そなわっていることが認められ ていた。そして、その死が伝えられると、世界の新聞のなかでも、とくに同盟国イギリス の諸紙は、最大の讃辞を呈して、哀悼の意を表した。
『明治天皇の死によって世界はもっとも偉大なる人物の一人を失った。天皇の治世はおそ らく日本の歴史中、もっとも深く記憶すべき時代として永久に伝えられるであろう』=タ イムス紙
『明治天皇の治世における日本の発展は、世界の歴史中その類例を見ないほど急速にして、 かつ目ざましいものであった』=モーニング・ポスト紙
『いま東西の歴史をあんずるに、各国の元首中、明治天皇のごとく一治世のもとに、その 国民のため、かくも偉大なる事業をなしとげたものを知らない』=イーブニング・スタン ダード紙
『明治の御代を回顧すれば、記録としてほとんど奇跡でないものはなく、しかもそれが一 場の夢ではなくて、真実の成功であったということを知覚するのが困難なくらいである』 =グラフィック紙
『明治の時代たるや、神代にはじまり、一躍して二十世紀に達したのであるが、いまやこ の不思議な時代に終焉をつげることとなった』=デーリー・メール紙。(中略)
明治天皇の“空前の大葬儀”がおこなわれ、しかもその夜、明治を象徴するもう一人の 人物乃木希典大将が、その夫人とともに自らの刃に伏したのである。(中略)
乃木大将夫妻の自刃は、この夫妻の劇的な生涯を飾るにふさわしい幕切れであった。こ のチャンスをのがさず、生命を賭しての大演技を見ごとにやってのけた乃木夫妻は、世界 にも類のない人生ドラマの作者であり、自演者であるという見方もなりたつのである。
(筆者註。これは大変皮肉家であった大宅壮一氏が、いろいろな皮肉をこめて言われてい るのであって、大宅氏の本心は、かならずしも乃木将軍夫妻の自刃を演技とみ、否定する ものではないようである。大将ご夫妻の自刃は、あくまでも明治天皇に対する殉死であっ て、三島由紀夫先生の諫死のような壮烈な意志と意味をもったものではないとしても、古 武士的精神のあふれたもので、演技者ではない)
それは別として、この死が日本の国民大衆に与えたショック、その警世的影響ははかる べからざるものがある。恐らく赤穂浪士四十七人の壮挙が後世におよぼした影響の総和に 匹敵するであろう。(中略)
乃木将軍の遺書を手に入れるため、各新聞社は腕ききの記者を動員したが、そのなかに 『国民新聞』の座間止水がいた。(中略)
こんどは赤坂署を訪れた。署長の本堂平四郎はすでに官舎の方へかえっていたが、座間 とは旧知のあいだがらなので、こころよく一室に通してくれた。(中略)
『将軍の死はまったく武士の鑑だ。あんな立派な死にかたはめったにあるものではない』
『どうしてですか?』
『まずヘソの下へ刀をつき立て、左から右へ一文字にかききり、刀のとまったところから 一寸ほど上へきりあげて、さらに刀をもちなおし、刃でノドをつらぬき、ツカをジュウタ ンでささえるようにして、その上へうつぶしになっている。ちゃんと切腹の方式にかなっ ている』
(筆者註。三島由紀夫先生と森田必勝列士もまた、この古式にのっとった見事な割腹であ った)
『夫人の方は?』
『ヒザをしかとくくった上、まず短刀で胸を刺したが、肋骨につきささってうまくいかな かった。そこで二度めにその下をついたが、これも失敗、三度めに左の心臓をめがけて強 く刺し、その上にノシかかった。二人の前には、明治天皇のご真影が飾ってあったが、二 人ともこれを伏しおがんでいるような形で死んでいた。こんなことはよほどしっかりした 精神をもっていなければできることではない』
『すると、その現場を見せれば、将軍の死にたいするまちがった解釈なんか、たちまちふ っとんでしまうわけですね』(中略)
殉死は浪漫か背徳か
(前略)
時事新報の断定
まず乃木将軍の死を無条件に礼讃したものをあげると、
『吾人がこの大将の立派なる死によりて受けたる教訓は、
一、 主義のために殉死したること
二、 偉大なる犠牲的精神を発揮したること
三、 一点の私慾名誉心を有せざりしこと
等々にして、これらは何人も以て模範とすべきものなり』=立教大学長 元田作之進 『大将は実に大慈大悲の釈尊に似ている。釈尊は金枝玉葉の身をもって、一朝妻子をす て深山に入り、今日までその絶大の感化をのこしたる如く、乃木将軍の死もまた我が国 民に精神的感化を与えることを疑わぬ』=文学博士 前田慧雲
『高潔の死といいたい。殉死といいたくない。殉死といえば自ずから議論の域に入る』 =教育家江原素六
『私はまさかのときの死ぬ覚悟に、さっそく死方を学びました。死にかけて死にきれす、 のたうちまわって見苦しいさまではとね。それで懐剣を出して見ましたら、錆びており ましたから、さっそく研ぎにやりました』=日本女子商業学校長 嘉悦孝子
今ごろ、こういうことをいう女子教育家がいたとすれば、それこそふくろだたきにあ うにちがいない。(後略)」(『炎は流れる』大宅壮一著・文藝春秋刊)
大宅氏はふくろだたきにあうことを、心配してくださっているが、このへんに孝の面 目があると思う。
もちろん、孝の心のいちばん底にあるのは、大先祖の名和長年の弟嘉悦悪四郎泰長か ら流れ、嘉悦氏房から伝わった尊皇愛国の至情である。その至情とは、愛国のための死 を怖れないことである。
そして私は、彼女がその事業に対しても、決死の覚悟をもっていた、と確信している。
この覚悟がなかったら、どんなに負けずぎらいの努力家とはいえ、女手ひとつで頑張 りぬける筈がない。
この決死の心、これがあってはじめて、先見の明はありながらもなかなか生徒がふえ ない十数年の茨の道を、女ひとりの彼女がどうにか歩みつづけられたのである。
大正三年、第一次世界大戦が勃発した。
日本も同盟国イギリスの求めによって参戦し、三国干渉によってドイツの手にわたっ ていた清島を攻めてこれを落し、海軍はドイツ領南洋諸島を占領した。
これによって急激に日本の景気は向上し、好景気による人手不足は女子に職場進出を 促して、思想的にも経済的にも日本婦人の夜明けが来たようで、孝をふくめた多くの婦 人たちが続々と社会的に進出した。
雌伏十年の孝に、やっと先見の明を証明する時機が到来したのである。
「日本一の女子商業教育家嘉悦孝子先生
嘉悦孝子先生教壇に立たれて茲に五十年、その記念祝賀会が開催せらるるに至りまし たことは、まことに慶賀に堪へないところであります。同先生は明治二十二年成立学舎 を卒業せられ、直ちに母校の教壇に立たれて以来、鶴城学館、成女学校等に教鞭をとら れ、特に自ら日本女子商業学校、及び日本女子高等商業学校を設立し、その学監又は校 長として、我国の女子教育、就中女子商業教育に、率先尽力せられて、今日の進展発展 に導かれたる功労は、実に偉大なるものでありまして、本祝賀会の趣意書にも『特に本 邦女子商業教育創始の殊勲者たり』とありますが、全くその通りで、一般女子教育に関 しては、他にも幾多の功労者がないではありませぬが、我国女子商業教育を興されたる は、先生の外にはないのでありまして、実にその先見卓識は敬服に堪へない所でありま す。而も単にその創始者たるのみならず、専心その発達向上を図り、啻に中等商業教育 に止まらず、女子高等商業教育にまで進展せられましたことは実に我国に於て独特のこ とであるばかりでなく、広く世界にも多くその比を見ない所でありまして、私は右趣意 書上記の『本邦女子商業教育創始』と云ふ言葉の次に、『並びに其の発展向上』の九字に 加へて『本邦女子商業教育創始並びに其の発展向上の殊勲者たり』と謂ふ可きであると 云ふことを主張するものであります。
私も會て、日本女子商業学校の講師として、同校が市ヶ谷見附にありました時代に、 数年間関係を致したことでありますから、その時代に於ける嘉悦先生に就き、或は嘉悦 先生を中心とする女子商業教育に関して、記憶をたどりながら、追憶談を物して、本祝 賀記念の事業に涓埃を致すことにしたいと思ふ次第であります。
私が講師となりましたのは、たしか明治四十二年の春からであつたかと思ひます。私 は四十年に一橋高商専攻部を卒業し、同年十二月、一年志願兵として麻布の歩兵第一連 隊に入営し、四十一年十二月除隊して間もなく、母校に於ての指導教授法学博士関一先 生の御紹介で、嘉悦先生に拝顔し、講師に採用せらるることとなり、『簿記』や『商事要 項』を受持つことになり、爾来大正三年秋、長崎高商の教授となりて赴任する迄、約五 年間、同先生の下に、御手伝をして居た次第であります。其頃は、法学博士和田垣謙三 先生が名目上は校長で、儀式の時などには其の事に当つて居られましたが、実際は概し て校主たる嘉悦学監が中心で、小牧、小田両理事の輔翼によりて経営に当つて居られた 様でありました。
私は一橋黌在学中に、奥村五百子女子に面会したことがありまして、さすがに女丈夫 だな--と思つたのでしたが始めて嘉悦先生にお会ひした時にも、極めて闊達な其の御風貌、 失礼ながら其のお鼻の秀でて大きい点、これは、特に意志力の強い非常に傑出せる婦人 であると云ふことを感じました。先生は当時の一般の女学校の教育がどうも実生活に迂 遠なるものがあり、為に或は『星』とか『すみれ』と云ふ様なことに走つて、家庭を有 つても会計帳さへ碌々整理出来ないものが少くない、之では良妻たり主婦たるの資格に 充分でない。吾が女子商業教育は斯かる欠陥を補ふものであつて、必ずしも女子の商人 や、婦人事務員を養成するのが主目的ではない、と云ふ如うな御主張を持して居られま したが、然し其当時より既に、本科・速成科及び高等科の各種バライテーを設けて夫々 の希望に応ぜんことを努めて居られました。後の高等商業部は右の高等科の成長したも のであると見ることも出来るかと思はれます。
『怒るな働け』と云ふ標語が嘉悦先生の生活原理で、学校の校訓でもありまして、先生 は無論率先範を示されて居り、学校は常に和気に充ち勤勉力行の風が盛でありました。 然し、吾々が講師の一人として実践躬行によりて生徒に範を示さうとすることは、実は なかなか容易なことではなかつた次第であります。私は一年志願兵として兵営生活の体 験を有つて居りましたから、『働け』と云ふ方には、随分共鳴もしましたし、或程度迄は 実践も出来ると云ふ自信も有つて居ましたが、修養の足らない未熟者で、しかも性来癇 癪持の私には、『怒るな』は容易ならぬ苦行で、斯かる校訓の学校に講師たる資格が、果 して自分にあるのかな--と、微苦笑を禁ぜざることも一再ではなかつたのでありますが、 倖なる哉、縹渺越格の和田垣博士が、ある何かの会の訓話に於て、『怒るな働け』は勿論 理想的であるが、二つを一緒に実践することはなかなか容易ではないから、初めは『怒 つても働け』位がほどよい所であらう、と云ふ様なことを説かれたことがあつて、大に 助かつた次第でありました。
然し実際に於ては、常に積極的で、大度宏量で、明朗快活で、慈愛親切であられた嘉 悦先生を中心とする同校内の雰囲気は、まことに愉快なものであつて、怒る様なことは 殆どなかつたかと思つて居ます。
当時居られた男の先生には、小牧・小田の両理事を始め、渡辺新三郎、土方正平、中 村茂男、梅野誠之進、守屋貫教、宇佐美力、衣笠勇、県堅、小平省三等の諸君があり、 藤本恕一郎、渡辺水太郎、阿部重兵衛、矢田部良吉、津田俊太郎、黒川善一、武田英一、 福島政雄、武藤長蔵、山崎馨、山本嘉平治、車谷馬太郎の諸君も相前後して居られ、私 が長崎高商へ赴任しました後には、法学博士福田徳三先生すら、暫くおとなしく、来講 下さつた程で教員室にも教室にも、生気溌溂たるの趣がありました。是はたしかに嘉悦 先生が、よく人材を集めて、喜んで其の能を尽さしむるところの、主将的の徳を具へて 居られた為めであります。生徒も高等科には、北海道からも、九州からも佐渡ヶ島から もと云ふ風に、日本全国から、才媛令女が此の偉大なる教育家の下に、斬新適切なる教 育を受けんとして、千里を遠しとせずして笈を負ふて四集して来たのでありました。
先生は、寄宿生と起居を共になされ、朝は未明に起きられて校舎廊下の雑巾がけをな さるので、寄宿生は何れも競ふて早起きして『怒るな働け』を実践して居ました。亦朝 食前には必ずお習字或は画をお書きになつて、静かな一ときを過されました。先生の雄 筆は斯くて益々光を添へたのであります。私などは何枚も何枚も戴いて、知己友人に頒 ち、しかも学資に乏しき娘を、よくお世話なされました。何でも寄宿生十人に一人の割 にて、無料の人を養はれたとの事でありましたが、斯くして卒業後立派な奥さんとなら れ、又良き職につかれたる人も、相当の数に及んだと聞いて居ります。
先生は其頃よく申されましたが、『私は何になっても日本一になりたい、例へ女中にな つても日本一の女中になります』と、而して今は女子商業教育者の日本一とお成りにな つた次第であります。
終りに、先生は亦私にとりましては、母の如き慈愛を感ずるのであります。或時は、 私があまり衣物に無頓着でありました為、一揃ひの衣服を新調して下さつたこともあり ます。而して亦現在の妻は、先生が御推薦お世話下されたもので、お蔭によりまして、 先生の孫とも云ふべき二男二女を恵まれて、長女は既に二児の母となり、長男は海軍造 兵大尉となつて、御奉公を致して居る次第であります。
甚だ雑駁でありますが、思ひ出づるままを記しました次第であります。」(昭和十五年 一月十八日、経済学博士田崎仁義)
この田崎仁義博士をはじめとする新進気鋭の青年学徒、のちには著名な学者・教育家 となられた人々が、孝の周囲に雲集してこられ、ついには校舎に生徒を収容しきれなく なって、濠向うの物理学校(現在の理科大)の一部を借りて分教場にする程の盛況とな った。
“こう生徒が多くなっては入りきれんごつ、どぎゃんすればよかね”(註……ごつ-ようだ。 どぎゃんすればよかね--どうすればよいでしょう。)
孝はすこしも自慢げではなく、本当に心配そうに身近の人々に問いかけるのだった。
世間や人々は、今更のように彼女の先見の明に驚き、礼讃と祝福を送ってくださるの だったが、孝の眉は静かであった。