第十八章 花の日会

 こうして、女子商業教育家としての嘉悦孝の声望は、外面的には定まったといえるが、 孝自身の心はかならずしも満足してはいなかった。

 もっとなにか社会に貢献したい、もっと世のため人のためにお役に立ちたい、学校経営 と自ら教壇に立っての働きのかたわら、孝の精力は社会奉仕へと向けられたのだった。

 ここでも、彼女の卓越した指導力と実行力が物を言って、直接彼女の教育や指導を受け なかった人々の間にも、婦人会の先達として孝の徳望は広まって行った。

 時々年々、数えきれないほどの彼女の活動の中から、一般世人の注目を集めたものをい くつか取り上げてみよう。

 女子社会事業家としての孝の名が、大きく世間に知られたのは、“花の日会”の活動から である。

 この花の日会について孝は、

「私が、はじめて婦人団体の社会奉仕に関係するようになりました大日本婦人教育会(筆 者註。女紅学校時代)については、すでに申しあげておきましたが、勿論、その後にでき た日本赤十字社の篤志看護婦人会や愛国婦人会にも、教育者の一人として、無力ながらも お手伝いをいたしておりました。この篤志看護婦人会は、所謂上流婦人で組織された奉仕 団体で、富士見町の本社で、毎週繃帯巻きの講習会がありました。仕事はいろいろあって、 看護婦さんをモデルにして、頭とか腕とか足とかに繃帯を巻く稽古をしたり、三角巾の中 へ綿、絆創膏、ガーゼ、繃帯などを小さく折りこんだ小包繃帯をこしらえたり、繃帯の布 を機械にかけて巻いたりして、有事の日に備えていたが、明治三十七、八年の日露戦争に 大へん役に立ちました。

 戦争と同時に、私たちは一そう馬力をかけて繃帯の製造をはげむ一方、戦線から内地へ 送りかえされてくる傷病兵を新橋に迎えて、天幕ばりのなかで繃帯をとりかえてあげたの が、兵隊さんに大そうよろこばれました。

 また忙しいひまをみては、絶えず陸軍病院に見舞に行って、繃帯を巻きかえてあげたり、 洗濯をしてあげたりして、みんなが一生懸命に働いていました。

 しかし、もし私にたった一つだけ自慢することを許して下さるならば、ここで花の日会 の思い出を語っておきたいと思います。

 ちょうど大正三年、欧州大戦が勃発して、日本も連合国側に参戦して青島を攻めていた ときのことでありました。アメリカから帰ってきた小森さんという方が、私のところへ訪 ねて見えて、アメリカやイギリスでは花の日というものがあり、各婦人団体が街頭に出て 花を売ってその利益を社会事業に使っている、という話をして『あなた一つ発起人になっ ておやりになってはどうか』と、すすめてくれました。

 その話を聞いて、私は大へんいいことだと思いました。青島も陥落して間もなく兵隊さ んが凱旋してくるだろうが、無事に帰ってこられた人はいい。しかし、戦死した人の親兄 弟はどんな気持だろう。世間が凱旋で騒げば騒ぐほど淋しくなるのだ。だから、その凱旋 の日に私たちが花を売って、その利益を全部戦死者の遺族にあげることにしたら、みんな と同じ心でその花を眺められるのではあるまいか----そういう考が頭に浮んだ私は、実践の 下田歌子先生や、女子美術の磯野吉雄さんと相談してみたら、一も二もなく賛成して下さ いました。

 それから、戸板関子さんをはじめ東京の各女学校の校長さんや婦人団体の有志の方に集 まっていただいて、花の日会の案を発表しますと、皆さんも双手をあげての大賛成で、い よいよ準備にかかろうとすると、悪口の好きな新聞に、『若い女学生に花を売らせるとはな にごとぞ』と叩かれたため、尻ごみをする人たちが出て参りまして、最後に残ったのは下 田歌子先生と吉岡弥生さんと私の三人だけでありました。

 吉岡さんは、『私が婦人界へ出られたのは嘉悦さんのおかげだ』とよくいって居られます が、(筆者註。後年、筆者三歳の時、疫痢にかかって、一日に血便三十六回という重体にな って吉岡先生の病院に入院した。吉岡先生は“私の命の恩人の嘉悦先生が目の中に入れて も痛くないほど可愛がっている坊ちゃんに、万一のことがあっては大変だから”と、先生 ご自身が疲労のため病気になられたほどの、手篤い看護のおかげで一命を取りとめた。の ちのち筆者が吉岡先生にお目にかかる度に、そのご苦心談を何十度となく拝聴したもので ある)

 それまでの吉岡さんはただ女医として知られていただけで、婦人会へ顔をお出しになっ たのは、この花の日会がはじめてであったと思います。しかも、一人で花を七万個も売っ て、すばらしい働きをお見せになったところから、かくれていた吉岡さんの存在が、急に 明らかになって来たのでした。

 無論、私は一人になってもやるつもりでおりましたが、下田さんの奔走がよろしきを得 たのでしょう。宮様から花の御買上の御内命に接し、次いで、皇后様から有難い御下賜金 まで頂戴いたしましたので、それまで躊躇して居た人たちも進んで参加するようになり、 花の日会の人気は忽ちのうちに高まって参りましたから、女子美術の磯野さんが中心にな って材料を準備し、各女学校に配ってこしらえてもらった赤い花の造花が、驚くなかれ五 十六万個に達しました。私の学校でも三万個の製作を引きうけ、他に美濃紙を二千五百帖 ばかり納めましたので、私も先生方も生徒もみんな手が真赤に染ってしまいました。

 青島攻囲軍司令官神尾将軍凱旋式の日に、第一回の花の日会が催され、私たちは、東京 駅前、日比谷公園前、三越前、赤坂見附という風に、めいめいの持ち場へ出かけて行きま した。なにしろはじめてのことですから、どれ位売れるものやら見当がつかず、大事をと って四十万個を前売しておきましたため、当日は十五万個持って行ったのが、忽ちのうち に売りきれて、みんなで奪い合いをするような騒ぎまでおこりました。この日は、電車の 車掌も、電話の交換手も、魚河岸のあんちゃんも、長屋のおかみさんも、花の日会の花を つけていなければ幅がきかないといった有様で、東京の全市が私たちの赤い花で埋められ た壮観は、全くたとえようのないものでした。

 かくして、日本の婦人団体としての最初の経験であった花の日会の街頭進出は、大成功 のうちに終りましたが、その日の売上げを計算してみると、一万千五百円というまるで予 想さえしなかった大きな額に達していました。その利益金約九千円を、全国で三百七十六 人の戦死者遺族の方へ贈って大へんよろこばれましたが、それ以外にも、私たちは、日本 の女が一つに団結して事を行なえば、これほど大きな仕事ができるという貴い教訓を得た のでありました。花の日会はその後も大正の終り頃まで続いて、いつも一万円近い利益金 を各種の社会事業の寄附しておりましたが、いろいろ紛らわしい団体が生れて来て、街頭 で花を売って混雑するようになってきましたから、すでに当初の目的を達したものとして、 私たちの花の日会を解散いたしました」

 と語っている。

 銭後は花が羽根に変ったわけだが、戦後の“赤い羽根”や“緑の羽根”運動の先駆であ った。

 「  回 顧

 嘉悦先生の御世話になった人が、男子にも多くある筈だ。名乗り出てはどうだ、と祝賀 会席上で徳富先生は講演中に述べられた。かく申す私程先生の御厄介になった者はあるま い。私が十一、二歳の時は先生は二十三、四であられたから、大人と子供であった。当時 私の母が成女学校寄宿舎の御世話をさせて頂いて居た関係から先生を知ったのである。実 に五十年以前の昔である。打ち絶えて後十年を過ぎた頃私が、福島県宝積寺仙齢和尚の下 に身を寄せた時、思いもかけず蔭に先生の庇護を受けて居た事が始まりで、今日まで御厄 介にのみなり続けて居る不甲斐なさである。独立して工場を新築した直後、先生の媒酌で 妻を娶り、事業上には種々曲折蹉跌があり、四十年の歳月は過ぎた。去年の末娘の結婚式 場へ臨席してくだされた先生が、自分の孫が嫁入りするような気がすると懐述された、そ の意中を玩味して、感慨無量返す言葉もなかった。先生は其の罪を憎み其の人を憎まず、 一切既往を咎むる事なく、去る者は追わず来る者は拒まず、軽佻なる世間の批判に拘泥す る事なく、清濁併せ呑む底の所謂親分肌にて、名僧は余りに仏臭いが、先生は人間味の横 汪溢せる聖者である。徳富先生は、嘉悦先生が男子であったら大臣級であると喝破された、 時に先生の行動に対して疑問を抱く場合もあったが、小人の能く大人の意志を知るの難き を悟るのであった。茲に教壇には直接の関係は無い事であるが、私の関り合った事の五、 六を、前後しているかも知れないが、極大略を記して、過去の先生の姿の一端を偲びたい と思う。

 大阪毎日新聞社の招聘を受けて講演に行かれる途中、棚橋老先生と共に、京都南禅寺へ 立寄られて一泊された時、偶私は寺畔に滞在して居たので鞄持をして大阪まで御伴をさせ て頂いた。南禅寺管長の部屋で、管長相手に棚橋先生の多弁を先生は黙々として最後まで 聞いて居られた。

 桂大将の愛人として有名なお鯉さんが、大将逝去の直後、黒髪を絶って先生方へ出入り するようになった。折角発心して居られるからと同情して、更正の相談相手に先生がなら れた。

 花の日会はの事は周知であるが、先生の精力旺盛なる、自ら花造りの段取から、会員の 統制、外部団体の交渉、銀行に於ける売上の計算立合等々不眠で処理された、一日に一万 円の売上げの日もあったと記憶する、当時の一万円は今日の幾許に値するか。

 先生は日本舞踊に趣味を持たれる。

(筆者註。孝の仕舞は見たことがあるが、日本舞踊を見たことはない。ただ見巧者という か、踊り手の上手下手の批評はよく聞かされた。筆者も門前の小僧習わぬ経を読むではな いが、よく孝に連れられて歌舞伎見物をしたのでいっぱしの通ぶって、たしか十歳ぐらい の頃だったと思うが、六代目と先代美津五郎の三社祭の善玉・悪玉のナマコぶりとでもい うのか体をくにゃくにゃさせて手をだらりだらりとする、その回数が、美津五郎より六代 目のほうか多いことを指摘したら、その後いろいろの人の前で、『康人は、これこれこうい うことを言うんですよ。子供のくせになかなか踊りをよく見ているでしょう』といわれて、 いつも半分は照れくさく半分は得意だったことを覚えている)

 故人舞踊の名人先代藤間勘十郎(女)と親しくされた、勘十郎師匠は人も知る六代目菊 五郎丈の踊りの手ほどきをした人である。或る夕、独逸から帰朝早々の左右田博士や藤本 博士の肝煎にて、築地新喜楽に一席を設け、九代目団十郎の面影があるといわれるこの勘 十郎を招いてその名人芸を観賞された。

 白瀬大尉の南極探検の壮挙には、先生は率先してその行を盛んにするため、浜町の久松 座(現在の明治座)で興行中の幸四郎・左団次の大一座を、数千円を投じて三日間買切り、 その利益金全部を、探検隊に提供して後援されたが、これには私の友人多田恵一君が書記 長として加わっていたので余計に感銘が深い。

 東京大震災(筆者註。大正十二年九月一日、午前十一時五十八分四十四秒、マグニチュ ード七・九。随所に火災発生、津波も襲来し、通信も交通機関も途絶、ガス・水道・電燈 などすべて停止。死者九万一千三百四十四人、焼失または全壊家屋四十六万四千九百九戸 に及んだ。この時、私は七歳で小学校一年生であったが、孝や寄宿生の人たちと一緒に昼 食をとりはじめた時であった)の日、余震なお去らない真夜中、土手三番町に見舞に伺っ た、先生は省線(現在の国電)市ヶ谷駅前の樹下に布団を敷いて静坐しておられた、猛火 は麹町大通を越えて北へ北へと焼け進みつつある時であった。

(筆者註。この時、幸いにして校舎の焼失を免れたが、校舎の前で焚出しをして罹災者の 人々にお結びをあげたことを記憶している)

 ある年、悪質の感冒が流行し、(筆者註。大正七年世界的インフルエンザのスペイン風邪 という流感がわが国にも伝わって翌年にかけて大流行、死者十五万といわれた)東京市内 に予防注射液が不足を告げた時、先生は神奈川県検疫課に勤務中の助川氏(のちに医学博 士)の出張を乞い、無償で市民の一般希望者に予防注射を行ない、ご自分も赤十字の講習 会で覚えた修練を発揮して看護婦をつとめられた。

 大正五年十月、水害をうけた羽田、江戸川などの被害地に、一門を動員し先生自ら先頭 に立って被害者のお宅を見舞われ、見舞品を贈られた。(筆者註。花の日会活動の一環であ る)

 同六、七年の物価騰貴には、窮民のために米の切符制度を考え、これらの人々に切符を 配り、それで米を安く買わせ、その差額を花の日会から米屋へ払うという方法で、それを 実行された。また外米の払下げをうけて救済に充てられたりした。(筆者註。その後三十年、 戦時中の物資不足時代にはすべてが政府の責任で行なわれる配給制度になったことを思い あわせると、このことはたしかに彼女のいろんな仕事の中でも、とくにその“非凡”さの あらわれた一例で、経済教育指導者としての見識の卓抜さがあると思う)のちに日支事変 以来、米の不足が訴えられ、代用食のことが真剣に考えられたが、当時すでに先生は豆粕 を代用食とする事の研究をつまれていて、当時の東京市長田尻稲次郎氏が殊にその方の主 唱者であったため、先生は田尻市長と協力して豆粕の試食をされ、その普及につとめられ た。

(筆者註。これらはみな一時的な策として、その後の社会情勢の変化とともに葬り去られ る結果にはなったが、今日にして思えば、その即実的な意図と大胆果敢な実行力とは、孝 の大きな特徴であった。そして他人にはいざという時のための貯えをすすめながら、自分 自身のためにはまったく貯蓄を考えなかった手元不如意の彼女が、食糧品を廉売するため に、自分の丸帯を売ってそのことにあてたことは、ごく側近の者だけしか知らない事実で ある)

 先生は平素から孝心あつく、芝居好きの御母堂を毎月欠かさず歌舞伎にお連れになった が、ある時御母堂の喜の寿の祝の園遊会を、富士見町細川侯爵家の能楽堂を借りて催され ましたが、招かれた人は数百名に及び、御母堂がご贔屓であった先代中村吉右衛門丈や六 代目菊五郎丈の顔も見え、余興、模擬店など大へんに盛会でありました。

 先生は仏教に深く帰依しておられ、かつて西国三十三札所観世音菩薩東京出開扉が行な われ、その時仏教各宗派連合で奉賛会が設立されてその総裁に斉藤実子爵がなられました が、これは先生のご尽力によるものでして、出開扉は東京市の後援まで得て盛大に行なわ れ、信仰者の随喜の的となりました。

 支那事変突発後直ちに、出征将士の防寒に思いをいたされ、物資の欠乏を予覚された先 生は、花の日会同人と謀り、知人の家庭から毛製品のボロを集めて再製する運動を起され、 その売上げ金を軍部に献納されました。」(矢吹時中氏談)

 また、第一次欧州大戦後、敵国として戦ったドイツではあるが、そのドイツの子供たち の窮乏を伝え聞いた孝は、慈善音楽会を催して救済金を寄贈し、かの国から赤十字二等勲 章を贈られている。

 こうしたいずれもが、金満家がありあまるポケットマネーからその一部を出す慈善では なく、借金を背負って営々として自己の学校経営に努力しながら、労をいとわず着眼と工 夫によって無から有生みだしての献金であって、これこそが本当の社会福祉ではなかろう か。

 その後、いろいろな社会事業団体が次々に出現し奉仕活動が行なわれたが、孝はかなら ずその組織の指導力として活用され、世の信望にこたえたのであった。

 昭和十五年頃、孝が関係していたこの種の団体名を挙げると、

 警察官家庭後援婦人会理事。愛国婦人会評議員。同麹町分会副会長。愛国婦人会経営麹 町愛国女子校長。花の日会責任者。日本赤十字社篤志看護婦会評議員。東京連合婦人会。 女子青年団。日本弘道会。婦人同志会。東亜婦人会。私立誠和女子青年学校長。結核予防 婦人会麹町区委員。司法省人事調停婦人委員。婦人税制研究会。少年保護婦人協会。婦人 衛生会。救治会。東洋婦人教育会。女子校長会。彩耀会。大日本婦人倶楽部幹事。大日本 婦人海外協会評議員。日本国際協会婦人部委員。神宮家庭寮、など枚挙にいとまがない。

 孝が、その信じる所に向っては迷わず進む勇気と、あきらめを知らぬ執拗なまでの鞏固 な意志の所有者であったことは、彼女個人に多少とも関係のあった人すべてが、一様に認 める所である。

 そうして、自己の感受性と能力の許す限り、これは“世のために善”と信じた仕事につ いては、ためらわずに実行に移す彼女の姿は、本当に彼女をよく知らない者には、なにや ら教育者の本質を逸脱したでしゃばり女と誤解される場合も無かったとはいえまい。しか し、それもその人が彼女をよく知らないうちだけのことであって、二度、三度と彼女に逢 ううちに、策もなく邪気もなく天真誠意の人である孝の人柄を理解し、彼女の意図するも のはすべて私利私欲に立ったものでなく、救世済民を願ったものであることを知るのであ った。

 しかも孝の身辺は、いつも彼女の撒き散らす雰囲気によって、温い情誼と潤いに満ち溢 れていた。それは彼女が、精力と強気ばかりの自己を絶対と誤信するような独裁的暴君で なかったからである。

 彼女はつねに、目に見えない永遠の力を信じ、それゆえに神道を崇敬し仏教に帰依する 敬虔な精神を、魂の奥深く鎮め横たえていた。それはまた自己の小であることを自覚する 謙讓となり、その心から他人を大きく深く愛したのであり、天地の恵みを思うがゆえに自 分の生命の源泉である祖先を敬い、父母を尊び、長幼の序を守ったのである。

 孝の演劇とくに歌舞伎愛好は、昭和三年七月十七日に八十二歳で没した母久子の芝居好 きに奉仕することが、一つの動機であった。

 それも大正三年頃(筆者註。大正三年九月、六代目尾上菊五郎・初代中村吉右衛門らで 「安政奇聞佃夜嵐」が二長町の市村座で初演されている)からで、この名優ふたりの競演 は、----当時は二人とも新進の若手役者ではあっても----江湖の歌舞伎ファンを魅了するもの であったようで、その後この両優と孝の交誼は長く続いて、筆者も久子や孝に連れられて 幾十度となく一代の名優菊吉ご両人の自宅にも楽屋にもお邪魔したものである。

 だが、孝の人生哲学からすれば、こうした親への孝養は、特殊な義務感などではなく、 人の情として、当然すぎるほど当然のことであって、彼女は同じ意味において他の親族、 同族を愛し、彼女の周囲に集まる人々を愛し、郷党や郷土に尽し、そしてそれは民族・国 家愛へと延長されていたのである。

 さらに孝の特徴は、これらのすべてに対して、心だけでなく身をもって愛を示し、かつ 与えたのである。

 彼女の母への孝養は、誰がみても至れり尽せりであったが、他人からどんなに賞められ ても、“当然なことをしているだけなのに、どうしてああ法外に言われるとだろうかね”と 何時も苦が笑いをしていた。