第十九章 “ゴバチャン”と信仰

 孝の博い親族・同族への愛情は、学校経営という営利でない公益的事業こそやっていた が一銭の財も貯えていなかったにもかかわらず、彼女の周囲に、いつも嘉悦一族を打ち寄 らせ群がらせていた。

 とくに、生涯、独身を続けた彼女であるが、自然の母性本能からでもあろうが、非常な 子供好きで、(広範囲の活動の暇にも余力を残す精力の故もあろうが)いわゆるオールドミ ス型にありがちの、子供をうるさがる事など、彼女には思いもよらなかった。

 一族の子供たちは、誰も彼も幼い時から孝を“学校伯母チャン”と呼んで、一番いかめ しそうなこの校長伯母さんの膝元を、こよなく懐かしがって集まった。

 その中で、“学校伯母チャン”とはっきり呼べない筆者は、“ゴバチャン”という呼び方 しかできなかったのだが、何時とはなしにこの呼び名が他の子供たちにも伝播して、“ゴバ チャン”が孝の愛称になった。

 この“ゴバチャン”が、私と二つちがいの次弟健人が生れたのを機に、私の母数子から 自分の手許に引き取って育てたのが、末弟龍人(立人)の長男で、----後年龍人と数子が夫 婦養子で孝の籍に入ったので戸籍上孫となった----筆者なのである。

 いま私のところに四歳の佳央、二歳の奈央という孫娘が同居しているが、私は毎朝この 二人と神棚にご燈明を上げていっしょに拍手をうち、仏壇にお線香をともして読経してい るが、これはゴバチャンと生活した三十余年の間に、いつしか私の習性となったものであ る。

 孝の神仏讃仰は、仏教の宗派的には禅宗曹洞宗であるが、お地蔵様とのご縁が深い。そ れは、彼女の子供好きと、青少年子女の育成を務めとする教育家であるという自覚が、潜 在的に結びついているからでもあろうか。現在多磨墓地にある彼女の墓は大小五体の地蔵 尊とともにあるが、その地蔵尊は卒業生、在校生。教職員それぞれの死亡者供養のための ものと、戦死者供養のための将軍地蔵尊である。

 ゴバチャンが、こうした地蔵尊を建立したことについては、一つの挿話がある。

 或る日、世田谷桜新町の庵主渡辺静心尼が孝を訪れて、

「あなたの知った故人で、どうもご供養の届いてない人があるようです。名前はわかりま せんが、あから顔のどっしりした感じの人なのですが」と問われた。

 孝は“あから顔のどっしりした感じ”ということで、とっさに恩人の一人、和田垣謙三 先生のお顔を思い浮べていた。和田垣先生は大正八年七月十八日に亡くなられ、自分は学 監から校長になって今日に到った。そして学校も隆盛の一途をたどっている。しかしそう いえば一周忌か何かの時から忙しさにかまけて先生の墓参に行っていなかった。

「それはきっと和田垣先生です。早速お墓に参ってみましょう」

 すぐ、彼女は小石川雑司ヶ谷にある先生の墓地に行ってみた。案の定、久しく墓参の人 も絶えていたとみえて荒れはてていた。さっそくお墓の清掃をして手厚くこ回向をし、そ の後も墓参を怠らなかったが、この事あって孝と静心尼との親交はさらに深いものとなっ た。だが、恩人の墓前に合掌することは、孝にとってそのまま天地の恩への合掌であった。

 その他、母久子から譲られた小さな観音像を朝夕に拝し、幼い私を横にはべらして、修 証義や般若心経を読経するゴバチャン。筆者も門前の小僧で、何時しかこれらのお経は暗 誦してしまった。

 また貰い子殺しという幼児連続の殺人が起った時、この悲惨な運命に会った子供たちの 供養のために、上野浄名院で六万八千体の地蔵尊建立の発願をしたりした。

 女子経済教育の唱導家としての孝と、信仰家としての孝が、心理的にどう結びついてい るのかを考えた人はあまりいないようだが、もっともこういう心の問題は、感応しない者 には観じがたい、いうならば悟るとでもいうべき理解のしかたしかないのであって、どれ ほど長く側近にあっても、本当に孝を、そしてゴバチャンの心を、正しく理解している人 は、けっして多かったとはいえない。またこうしたことは言葉でも、文章でもなかなか伝 えにくいことであるし、彼女にしてもこの心の境地については、あえて人に語り教えよう とはしなかった。

 しかし、その理解がたとえ遅まきであっても、孝の心を考えることのできる筆者は幸福 であり、それはゴバチャンとしての孝に育てられた私、という立場だからでもあるだろう。

 孝が一身のために財を積まなかったのも、おそらく、この心境の故である。

 人間はいうならば須臾の肉身にすぎない、それを知るならば、あくせくと財を貯えてな にになるだろう。はっきり言えばゴバチャンはやや極端な“貯めること嫌い”であった。 彼女が金を必要とする時は、有意義な仕事をみつけ、それをやろうとする時だけだった。 やりくりのつく限り、知人の遺族や孝に頼る人のために散じて、

「おや、もうなくなったの、お金というものは本当にオアシたい」

 と、けろっとしているのだった。

 この無頓着に近いゴバチャン独特の天衣無縫さは、孝の仕事の表面だけを見て“気に喰 わないがっちり婆さん”めと思った人々を、いつのまにか誤解がとけて“ゴバチャン教” の信者にさせたり、人々に“あれほどの経済教育家がどうして何時もお金がないないと言 うのだろう”と不思議がらせたりするのであった。

 しかし、このゴバチャン風経済法を、宵越しの銭は持たない式の江戸っ子気質的なもの だとか、ありあまる中から恵みほどこす慈善者流と考えるのは間違いで、彼女にしてみれ ば、生きるための経済知識の必要こそ説いて、これを斉家済世の一助にこそしようとは念 願したが、人生は永遠流転の中の短い一と刻と感じるゴバチャンには、死に金は意味がな いということである。

 したがって、ゴバチャンの生活ぶりは、簡素すぎるほど簡素で、他からみると窮乏生活 ともみえても、彼女自身にとってはてんから窮乏でもなんでもなく、幼時からの苦闘の体 験と相俟って、その一日、一日はまことに板についた朗らかさであった。

 ゴバチャンのこの簡素窮乏生活様式は、彼女が吝嗇であるからではなく、自分のための 利殖屋でなかったから、明るく朗らかで強かったのである。

 衣食住の華美も粗末も、しょせん、皮一重・舌三寸の感覚にすぎす、人生わずか五十年 有余年の束の間のことでしかない。質素なものも天の恵みと考えれば、有難く喜ぶべきで、 それを重んじ工夫し努力し、充分に活用すれば、贅沢なものを心なく使いすてるよりも、 もっと遥かに心にしみとおる豊かな味わいがある。

「あたしは、美味しいい漬物さえあれば、何もいらない」

 この言葉は、ゴバチャンが、何時もそして誰にでも聞かせる耳なれた一言であった。

 だがこれは、彼女が物の味を解さなかったり、あるいは感受性が鈍かったという理由か らではない。

「けさのおみおつけは、薄からず濃からず、とても良い味がでとおるたい。このお味噌は 信州ね」

「今日のお漬物はほんに美味しかたい。あげ時もよかったし、重しのかげんもちょうどよ かごたる」

「このお魚は、てり焼きにするかしないかで、味が大変にちがうとたい」

 味噌汁も、同じ漬物、同じ材料の料理でも、味つけの上手さや工夫したことを敏感に受 けとって、必ず讃辞を送った。

 勤倹節約は生きにくい世を生き抜くため、余ったもの、廃物を有意義に利用活用するの は、生きにくい世をすこしでも生き易くするためである。

 ゴバチャンは、口には質素を唱え教えながら、自分は奢侈贅沢をひそかにほこる偽善者 でもなかったし、人の世の生き甲斐である趣味性(彼女の場合には和歌、書道、日本画、 読書、観劇などであったが)を、必要ない無駄ごとと否定するような現実一点ばりの教育 者でもなかった。それどころか当時、赤坂見附にあった赤坂帝国館という活動写真館に筆 者や寄宿生をつれてでかけるという新しい感覚の趣味ももっていた。

(筆者註。この映画館は二階が座敷で“血と砂”“東への道”ラモン・ナバロの“ベン・ハ ー”、そして“十戒”などを見た記憶がある)

 父祖を敬し、同族を愛したゴバチャン孝は、当然にまた心からの愛国者であった。

 これは、ただ孝だけということではなく、名和長年、弟嘉悦悪四郎泰長から伝わってい る嘉悦一族の血である。

 孝の教育事業も、社会奉仕活動も、日常の生活や言動も、すべてが天皇陛下を敬重し、 国を愛し、民族を愛する心からでたもので、個人の経済知識、一家の消費経済のあり方も、 国家のため、世のため人のためで、彼女はこれを教室で、講演で、著書で、それも単なる 理想論・空論としてでなく、平易にしかも方法論的に説き、実践したのである。

 だが、ゴバチャンはあまりにも人を信じすぎる人だった。

 困難な経営のその事業の途々で、まったくよくも度々と思えるほど、人に騙され利用さ れ痛い目に会った。

“あれ程の人が、どうしてああまで他人に甘いのだろうか。一度騙した人は寄せつけなけ れないいのに”と側近者や友人たちをはがゆらせることがしばしばあったが、彼女自身は 去る者は追わず、来る者は拒まず、怒りも復讐も知らないかのようで、一度膝下に来た者 はいつまでも見捨てず、誤ちも許すというよりもすこしも気にしないという態度を崩さな かった。我も人も、所詮我執の世である、しかも他人の胸中まで洞察できるほど人間は万 能力をもってはいないとすれば、疑えばきりがなく、それでは何一つ他人には頼めないこ とになってしまう。まず信じ、まかせ、それからの結果はすべて天運である。裏切られる のは自分の不徳のいたすところである。裏切る人間になるよりも裏切られる人間である方 が、まだしも幸福である、これがゴバチャン流の対人観哲学であった。そしてそれを“さ すがに嘉悦先生は男まさりの大腹中の人だ”などと賞められると、“いや人を見る目が無い んですよ”と笑っていた。

 このゴバチャンの失敗談が一つだけある。

 大正六年頃、食糧不足で物価騰貴が激しかったので、中流以下の人々が生活に苦労した が、この時、普通の鶏とちがって、ホロホロ鳥ならば年に三百六十五個の卵を生むという ことで、これを鶏卵の代用として安く売れば、物価抑制や食糧不足の足しになると考えた ゴバチャンは、吉岡弥生女史とともに実業之日本社長で政治家の増田義一氏などを引っ張 りこんで「大日本養禽会社」を設立したのである。もちろん出発は物価騰貴の時代に安い 卵を供給して鶏卵不足を補おうというのだから、営利の目的よりも社会奉仕のつもりで、 彼女をはじめこの会社で儲けようという気は誰もなかったが、想像した以上に能率が上ら ず、鶏卵よりも味がわるいのか思うように売れず、そのうち社会情勢も好転して、という わけで、開業早々に早くもダウン、吉岡女史以下私財を出して借金を返済、“養禽会社では なくて損金会社”という有難くない仇名までつけられて、この会社は倒産した。

 やはり、ゴバチャンもまた氏房と同じく、経世家・教育家であっても事業家ではなかっ たというわけだが、これが悪評にならずに、ユーモラスな失敗談として語り伝えられたの は、やはりゴバチャンの人柄と人徳からということができよう。

  「あの頃の嘉悦先生を語る

 出席者 池田むら 宇佐美みえ 千葉くに

     守屋ふじ 中島みつ 林原房子

     松山あき 吉原妙子 能美睦子

     今村琴子 植木けい 多良つぐ

     馬場幸子 湧川すみ子

M 「嘉悦先生はお疲れといふものを御存じないお方であると思ひます。私も種々各方面の偉い教育界の方々に接して居りますが、よく疲れたといふ事を仰言つたのを伺ひましたが、嘉悦先生がお疲れになつたと仰有つたのを伺つた事が一度も御座いません。私の存じて居ります範囲の方々は、ほんとによく疲れたとお話しなさるので、私は学校の先生は余程お疲れになるものだと存じて居りましたのに、嘉悦先生は疲れたと云ふ事を、寄宿舎に御厄介になつて、朝晩お傍に置いて戴いてよく存じて居りますが、疲れたと云ふ事を、一度も伺つた事がありません。実に先生のお精力には感心させられて居つたのであります。何故疲れたと云ふ事を仰言らないか、先生はクヨクヨなさらない。小さい事には決して拘泥なさらない。さう云ふ事から先生はお心を大きくお持ちになるので疲れを抜く途を持つて居られるので、ああ云ふうに疲れたと云ふ御様子が見えないと云ふ事が、先生に就いて感じ上げた第一の事であります。それと、嘉悦先生は棚橋先生は四十二になつて、始めて日光を御覧になつたのだから、私は四十になつてからでなければ日光を観ない、それ迄は観なくても何でもないと云ふやうな事を仰言つて居られました。先生の総てがさうで、実にお偉いと思ふのです」

N 「先生はどんな人でも善意に解釈されて、どんな悪い事をしても、どんな厭な人でも好嫌いなく可愛がつて下さいます。随分御迷惑を掛けたやうな人でも、面倒を御覧になる、先生は種々な人を可愛がる。誰でも可愛がる方であると思ひます。それで私等は学校の先生と生徒と云ふやうな気がせず、お母さんと娘と云ふ風でした。それがほんとによかつたと思ひます」

I 「嘉悦先生は、個人的に貯蓄すると云ふやうな事はいささかもなさいませんね。皆人のためにのみ御尽しになつて、少しも御自身のものを貯蓄なさらうとなさいませんね。尤もそれが形の変つた貯蓄かも知れませんが、一種の貯蓄になるのでせうが」

N 「さうです。何でも人の為めに出してい仕舞ひになられます」

I 「御自身では未だあると思つてゐらして、オヤオヤもう失つて了つたのかとお考へになるやうな方ですね」

B 「過去の事は少しも御咎めになりませんね」

C 「観音様のやうな方ですね」

B 「ほんとに、其点では実に有り難いと思ひます。某と云ふ人なんか、あれ程先生に御迷惑をお掛けしたのに、未だに世話をして居られます」

H 「ほんとにさうですね。それより朝の御掃除の話を是非しなければなりませんね」

一同「さうさうあれは大切な事ですよ」

H 「明治三十九年に市ヶ谷の新校舎が出来て、私共四十一年頃ですから、先生にとつては大切な大切な校舎ですから、一生懸命に掃除されたわけですね」

T 「朝は五時半頃でしたね」

S 「私は先生と競争で早起きしました」

T 「私は田舎から出て来たので、朝の早いのは驚かない方なのですけれど、毎朝中々続きませんでした」

H 「私共が眼が覚めて窓を開けて先生のお室を拝見すると、先生のお室は何時も奇麗に片付いて開け放されて、お掃除が済んでいるので、私共も慌ててやり始めたものです。寝巻の上に上つ張りを着て、襷を掛けて働いたものですよ」

W 「廊下を拭き掃除する時は、お尻をあげて、ツウーと拭いたりすると、もつとお尻をコトンと落してキュッキュッとお拭きなさいと言はれて、カラ布巾で拭かされたものですね」

T 「先生が先棒で、朝の雑巾掛けをやつたものですね」

Y 「御不浄のお掃除も御自分でよくなさいました。全部御自分でなさいました」

B 「あれは貧乏の中でやつとお建てになつたのですから、余程嬉しかつたのでせう」

一同「まあ悪い事を云つて」

H 「あの時分は全部瓦斯燈で、消燈されると、どこもかも真暗でしたね。私共なまけ者は昼間遊んで夜勉強しようとすると時間が足らないので、ふとんを出したあとの押入入れの中に這入つて、ローソクの火が外に洩れないやうにして勉強したものですね。今考へるとあぶない事をしたものだとぞつとします。どんなにか先生をハラハラおさせした事かと今になつて相済まぬ気がします」

T 「私共入学した時は、先生は随分お苦しかつたのでせうが、それでも何時も御元気でしたね」

K 「御飯を、入学したその時、毎朝冷御飯を付けられましたね。前の日の残りを一杯づつ喰べさせられる訳です。先生と生徒で八十人位でしたらう。始めて家を出た方々は厭でもありませうが、一ぜんづつ冷御飯を喰べなさいと命令されたものです。それで若し厭がつて召上らない方があると、誰々さん持つていらつしゃいと仰言つて御自分が召上るので、誰も喰べないものはありませんでした」

W 「あのおからのおみをつけには閉口しましたね。卯の花汁なんて、しやれた名が付いているから、どんな旨いものかと思つたら、おからのおつけなので驚いてしまいましたわ」

M 「先生はお醤油をダブダブ注ぐことを非常にお叱りになりましたね。そして残つたお醤油はお新香の中かお湯を注ぐかして、奇麗に召上つたものですね。私が先日伺つた時、恰度お母さまのご命日で、冷麦が出来たから喰べて行きなさいと仰言つたので、私もそれでは仏様の御供養を遠慮なく頂きますと申上げて御馳走になりましたが、その時三十年振りで、先生が残りのおつゆにお湯を注いで召上るのを拝見しました。それで家に帰つて申したのです。嘉悦先生はあんなに御立派になられても、お醤油を無駄になさらないやうに上つてゐらしたと申しましたら、では私共はお醤油を飲むばかりでなく、お皿迄舐めなければならないと云つて戒め合つたものですよ」

S 「寄宿舎にゐられた方は、皆それを拝見して居ますね」

B 「私もあの時のお蔭で、未だにお醤油を無駄に致しません」

W 「私なんかお漬物にお醤油をザァーと掛けては叱られたものですよ。今ではあの時の習慣で少しも無駄は致しません、全く先生のお蔭ですよ」

I 「洗濯をするに泡が立つても、その上シャボンを付けたりしては不可ませんよと言はれたものです」

B 「ああ云ふ処迄気をつけて下さつたのですね」

W 「御不浄のお掃除もよくなさいましたね」

I 「成女学校の寄宿舎の時もよくなさいました」

W 「学監先生がお掃除をして下さるのだから、吾々は入る時はお辞儀をして入らなくてはならないと云ふたものです」

M 「市ヶ谷では、新校舎と寄宿舎との間の暗いジメジメした便所で学校の生徒も寄宿舎の生徒も入るのが十位ありましたね。真黒げの便所でしたが、皆さんが汚して困るから、私が掃除する、さうしたら皆が気を付けるだらうと仰言つてゐらつしゃいましたね」

W 「よくお辞儀して入つたものですね。通学生は知らないのでせうけど、先生は便所を清潔にして置くと、いい子供が授かる、私は独身でいい子供は出来ないが、いい生徒が出来るやうにと便所の掃除をするを仰言つてゐました。先生のお掃除をして下さつた便所へノコノコと入つてよく罰が当らなかつたものです。それで先生がお掃除なさるのを見てゐて、済まないなあと思ひながら見てゐたわね。先生私共が致しますとは云へなかつた、思つてても言はなかつた」

T 「悪いとは思つてゐましたがね」

M 「先生の御居間は角の寄宿生が行つたり来たりするあの角のお室で、総て御自身の事は御自身でやつてゐらした。それで疲れたと云ふ事は一口も言はれなかつたのですからね」

I 「先生が結腸で御病気になられた時なんか、浜田さんが会計をしてゐた時ですが、そんなにお悪いとは思はなかつたのです。どうしても静かに休んでゐなければなりませんと申上げても、医者がそんな事を云つても大丈夫ですと仰言つて遂に便所で倒れてお了ひになりましたが、それ迄は少しもそれ程悪いとは思ひませんでした。それ程御辛抱強い方でゐらしたのです」

K 「私は一ペンもお休みになつたのを記憶してゐません」

W 「嘉悦先生が旅行等をなさると、箱根へなんかいらしつた時はお土産を下さつたもので、今でも持つて居ります。五色のシオリですけれど、今持つてをります。糸巻なんかもあります」

S 「私は高等科を明治四十一年に卒業しましたが、学校に残つてお手伝ひさせて頂く事になりましたが、その当時は、入学志願者が少くて、一人志願者があれば十銭づつ頂けたのです。そしてそれをその日の中に払はずに翌日迄残して置くと、志願者が翌日は来なくなると不可ないと云ふので、お菓子でも何でも買つて了ふ、そして皆戴いて了ふのです。それ程生徒が無かつたのです。随分御苦心をなさいましたものです」

△ 「今、一人の志願者に一銭づつ頂けたら大したもんですね」

一同「そんな虫のよい事を云つては不可ませんよ」

S 「それから、上野不忍池の弁天様は商業の神様だと云ふので、私共も先生のお供をして巳の日には、どうか生徒が沢山出来ますようにとお参詣に何べんか参りましたよ。それから先生は細い事でも何でもお上手で早くて、お裁縫でも私と競争で、羽織を五時間で仕上げたり、着物を四時間か五時間で仕上げたりなさつたものです」

I 「この間、婦人会で人形を造つて資金を得ようと云ふので、皆が人形造りをやつたのですが、私は針のめどが通らないので困つて居りますと、先生がどれ私が通してあげませうと仰言るので、まさか私であへ通らない夕方薄暗いのに御冗談だと思つて居りましたら、一回でスーッと通つて了つたので、私はビックリして了ひました。そしたら先生は、眼で通すのではない、私の感で通すのだと仰言いました。細い袖の針でしたが」

W 「偉い方ですね」

I 「凄い方でせう」

K 「お辞儀なんかもよく、今朝解いて洗い張りして縫つて、翌日には学校へ着てお出でになられたさうですね」

W 「ほころびをとても御注意なさいましたね」

K 「さうです。ほころびはすぐやらなくては不可ない、ああ云ふ事は後廻しにするから不可ないと仰言いましたね」

B 「おまめなんですね。何でも思ひ付いた時、直ぐやると云ふ御主義なんですね」

H 「お正月のお重詰は今でもなさいますね」

S 「総ての方面がさうです」

I 「お電話を朝頂く時なんか、奥さんはお目覚めですかとお尋ねを受けるんですよ、朝の六時頃に、もう五時にはお起きになるんですね」

B 「五時にお起きになつてから、一時間位お経をお上げになつて、それから髪をお上げになり、それから御食事なさいます」

W 「私なんか朝の五時は夜中です」

M 「先生はお髪はお独りなさるんですね」

B 「先生は御自分で元結いを結つて、チョッと唾を付けてキュッとお〆めになると、チャンと出来るんですよ」

M 「何時か私が後に廻つて、先生お手伝ひを致しませうと申上げると、いや私は自分で出来ますとキュッと〆めて奇麗にお上げになつたので、私はきまりが悪くなりました」

T 「二階の窓から覗くと、何時も鏡台の前でお上げになつてゐらつしやいましたね」

H 「一絲乱れず癖直しをなさつてゐらつしやるのをよく見ましたわ」

B 「御器用なんですね」

M 「大きい気持の方は、細い事は気の付かないものなんですのに、両方ですからね。お華なんかもよく生けてゐらつしやいましたね。棚橋先生に小切れを集めてクッションを拵へて差上げたりなさいましたね」

W 「お餅搗きも、今でもなさるんですか」

B 「無論なさいますとも」

W 「私なんかよくうあらされましたが、途中で笑つたりすると、駄目駄目と叱られたものです」

B 「先生はお鏡餅を上手になさいますが、私なんかにはどうにも斯うにもなりません」

I 「私もお米を計るお手伝ひをしたものです。払下米で」

W 「今でも先生はお上手にお造りになりますか」

B 「無論です」

W 「その餅はどうするんです」

B 「学校で搗いて出征家族の方々に上げました」

W 「お鏡餅は先生がなさるのですか」

B 「最近は鏡餅をまるめるのは先生ですが、こねるのは鈴木亀蔵さんがやります。何しろ先生では二升三升のお鏡をこねるのはとてもご無理です。あれはノシ餅のやうに最後まで搗き上げないで、すこし搗いてすぐ揚げて、手の平でこねるのですが、あまり搗きすぎるとブツブツがなくなりグンニャリしてしまつて、よいお鏡はできないので、あまり搗かないのを手でこねるまけでとても力が要りますので、もう先生ではご無理で、こねるのは鈴木さんがやり、そのあと先生がまるめられるわけです。それはとてもお上手ですよ」

I 「先生は肉饅頭もとてもお上手ですね」

B 「さうさう支那饅頭、おいしいわ」

T 「おすしもお上手ですね」

I 「三越の食堂で、お握りとのり巻を売つた事がありますね。あの時はまだ三越に食堂と云ふものがなかつた時ですね。お握り、何のお握りでしたかしら、そのお握りとおすしを売りましたね。あれが食堂の始まりだつたのです」

W 「一ツ橋の商大の食堂で、支那饅頭とおすしを売つた事がありますね。とてもよく売れて評判でしたね」

B 「一ツ橋の講堂を拝借して、支那饅頭を拵へて売つた時は、よく売れましたね」

W 「商大の講堂で売つたのが、始めて食堂と云ふものがお客さんに売つて喰べさせた始まりですね」

S 「高等商業の先生のお昼は、みな先生が御献立をなさつて、お昼は全部出したものです。その給仕に皆よく上の組の者が行つたものです」

W 「その時は、皆先生の子供みたいでしたね。皆がママ、ママと呼んで居ましたね」

I 「さう云へば、先生はとてもお母さん孝行でゐらつしやいましたね。お母さんの事と云ふと、どんな事でも一生懸命でしたね。おふとんなんかふくふくと綿を一ぱい入れて、皆御自身でお造りになつて御差上げになりましたね。それから棚橋絢子先生にも、まるでお母さんのやうによくお尽しになりましたね。棚橋先生もお孝さんお孝さんとお呼びになつて、何時かズッと昔、千代田のバザーに私もお供した時、嘉悦先生と棚橋先生とおいでになりましたが、棚橋先生は嘉悦先生をまるでお供のやうに、種々お買物をなさる毎に、お孝さんこれを持つて、と仰言ると、校長先生が全部それをお持ちになつてゐらつしやいました。上には上があるものだなあと感心して拝見して居りましたが、恩師に対する態度と云ふものをとても教へられました。

W 「さう云ふお手本があるのですから、私共もしなければならないんですがね」

M 「嘉悦先生は何でも御自分でなさる」

W 「一度先生のお宅へ伺つた時、先生のお声がするけれど、何処にゐらつしやるかお姿がお見えにならないので、先生何処ですかと云ふ乍ら、お室に入らせて頂くと、箪笥と箪笥の間にゴザをおきになつて御召物を御たたみになつたり、御整理をなさつてゐらつしやるので、ビックリして了ひました。誰もお傍でお手伝ひする人が無いんですか、と申上げると、自分でやらないと、後で出すとき、人に訊ねなければなりませんから、何でも自分でやります。と仰言られて、ほんとにお忙しいのに、そんな事迄よくなさるなあと感心させられました」

B 「それはもう御見の廻りの事は何でも御自分でなさいますよ。先日も先生のお供で九日間旅行致しましたが、よくお供ができるかと随分心配致しましたが、関西旅行でも、それはお床を敷くのから、御召物、御身廻りの品、全部御自身で整理なされて、私共の手はチットも当てになさらず、唯お供をすると云ふだけの事でした」

W 「我々の手には負へんのですね」

B 「唯、後からくつ付いていくと云ふだけです」

W 「よそからの贈答されたお菓子なんか、みな寄宿生に下さつたものですね。先生のお室へ行けば、キットお菓子があるに違ひないから、いただいて来い来いと私に皆の上級生が云ふので、いやだと云ふと睨み付けられるので、恐いから仕方なしにお室にいただきにいく、そして下さいとは云へないでモジモジしていると、お菓子ですかと仰言る、……皆がカステラいただいて来い来いと云ふんで、……今はカステラなんか珍らしくもありませんが、の時分はとても高価で珍らしい、……それでカステラと仲々云へんので、カス、カスとどもつてゐると、カステラでせう、カステラはもう無いんですよ、と頭から言はれてヘエッと縮み上つて了つたものです。今考えると実に恥かしい。それで、何でもあるものは皆先生がお出しになつて、御自分は少しも召上らず、皆私共に取つて置いて下さつたものです。黒田さんが強くて、貰ひに行かないと怒るので、私一番小さいので何時も使ひに立たされるのには閉口でしたわ。それで私が行くと、何も申上げない先に菓子貰ひに来たとお思ひになるかして出して下さるのですの、今考へるとほんとに恥かしい」

H 「Eさん、神田の学校の事を少しお話下さいませんか」

E 「何分子供の時の事なので」

I 「神田の学校の頃には先生も受付に頑張つてゐらしたものです。開校当時は和田垣先生が校長で、先生は学監をなさいましたね」

W 「あの時分の方がなごやかでよかつた。よく講師の方に御馳走を出した。講師の方が今は皆立派な人になつてゐられますね。月給を払へないのでよく御馳走をなさいましたね。商大の前の錦町の東京商業学校が和田垣先生が校長でゐらしつたので、そこを仮校舎に借り、講師は商大の、その時分の高等商業の専攻部の生徒で、今は一流の人、領事やら、会社の重役になつてゐられる方々が講師になつて下さつたのです。それは商大の矢野さんが嘉悦先生の教育事業に後援して下さつて、専攻部の生徒を講師に貸して下さつた訳です。その方々が先生の事をママさんママさんと呼んだと云ふ訳です。先生はああ云ふ若い書生さんを、とてもお好きでお可愛がりになりましたね」

B 「あの当時、先生は外へばかりお出になると、よく私共不平を云ひ云ひしましたが、親の心子知らずで、方々借金に歩いてゐられたんですね」

I 「先生は学校をお建てになる時は、御自分の貯蓄は何千円かおありだつたのですか」

B 「何で貯金されたのでせう。製絲工場でお働きになつた時の分かしらん」

Y 「鶴城学館で先生をなさつてゐる時、貯金されたのが二千円あつたさうです」

B 「こんな事もありました。長野県の松本へ講演にゐらした時、塾生が御留守をして居りましたら、汽車が転覆した記事が新聞に出たので、キット先生の汽車に違ひないと大騒ぎして、電報を打つたりとても心配しました。すると先生から無事だと塾生の一人一人に絵葉書にお返事を下さいました。さう云ふ風に生徒をとてもお愛しになられた方です」

W 「なかなか出来ない事ですね」

B 「私個人的にも一生忘れられないのは、子供が九死に一生を得た時、一方ならぬお世話になりました、一生の思い出です。長男が病気した時、腸閉塞で三日三晩苦しんだ。どの先生に診て頂いても助からないと言はれた。私は思ひ余つて先生の処へ電話を掛けました。大変子供が苦しんでどうしたらよいでせう、最後に先生におすがりするより方法はないと電話をお掛けした処、それでは私が慶応病院の先生に頼んであげませうと、わざわざ先生ご自身で電話を掛けて、自動車でお迎へ迄出して下さつた。そしてその慶応の先生が来て診て下さつたら、直ぐ病院へ入れた方がよいと云ふので、直ぐ病院へ入れましたら、手術を致しましてお蔭でよくなりました。二日程してわざわざ見舞に迄来て下さつて、ほんとうにあの嬉しさは忘れられません」

Y 「先生はめつたに御病気をなさいませんが、御病気になられたりすると、“私は平生忙しいので、神様が休息の時間を与へるため、私に病気させて下さつたのだから、唯静かに休んで、どんなに苦しくても感謝して養生する”と仰言つて、熱がお高くてもジッと御辛抱なさつてお寝みになるので、そのお気持ちだけに、御病気は何時も軽くお済みになりました」

B 「ほんとうにね。子供の時は、慶応の看護婦さんに迄、気を付けてやつて下さいと仰言つて下さいました」

Y 「棚橋先生が、一週間に一度だけ----大正七、八年頃迄ズッと女子商業に論語の御講義にお見えになりましたが、その時には玄関迄迎へにお出になりお手を取つて教室迄御案内なさり、御講義の終る迄生徒と一緒に御聴講になり、お帰りになる時は玄関の御車の中迄お送りなさいました」

C 「市ヶ谷では、休講の時は、小田先生の適書、嘉悦先生の論語・孟子の御講義が大変結構でしたね」

I 「あれが私共にどれだけ役に立つたか分かりません」

B 「先程もお話しが出たのですが、先生のお母さんに親孝行なさるのは実に非常なものでしたね」

Y 「お母さんのおふとんは、必ず先生が御自分で綿をフクフクとお入れになり、何枚も重ねて御蒲団をお敷かせになつたり、肩をお叩きになつたり、逗子の別荘へお連れになつたり、とてもとてもお孝行なさいました」

T 「卒業の家事の時に、お姑さんに尽す心得を試験に出されましたが、その結果、先生が皆さんよく書けました、だけれども実際にお姑さんにお仕へしてからでなければ満点はあげられませんよ、と九十点頂きました」

一同「九十なら優秀ぢやありませんか」

T 「然しその為めに、辛い場合は先生の御言葉を思ひ出し思ひ出し姑に務めました為めに、どうやらかうやら今日迄ボロを出さずに済みました。先生の御教訓の賜と思つて居ります」

B 「先生は年寄りをとても大切になさいますね」

一同「さうです。それはとても老人を大切にさないます」

T 「私の母なんか、芝居へ御招待受けた時でも、先生の方から御挨拶に来て下さいます。恐縮の至りですが、あれは仲々出来ない事ですね」

Y 「お子さんがおありになりませんので、御親戚のお子さんをとてもお可愛がりになります。それで、まるで先生のお子さんかお孫さんのやうに沢山、先生の処にお集まりになつて、とてもお賑やかです」

I 「先生と婦人会に就てお話し致します。震災(関東大震災)を契機に麹町婦人会を起しました。明治大帝の勤倹の御詔勅を奉持して、震災直後に勤倹力行の趣意で婦人会をお起しになつた。その時は嘉悦先生は主催者におあんりになり、三谷民子(元女史学院々長)先生が理事長におなりになつて、その時に働くと同時に貯蓄しなければならない、震災のこんな事で怖ぢけてはいけない、婦人の力で復興しなければならないと仰言つて、毎月月掛三十銭づつ貯金をし合つたのです。各班に班長を造つてお金を集め、復興債権を買つて二年半で掛け切りました。十三年(大正)の一月から始めて十五年に完了致しました。それがその後になつて、単に倹約だけでは不可ない、時代は進展してゆくのだから婦人が後れてはならない、社会に取り残されては不可ない、お互ひに修養しなければならない。それと同時に、自分達が向上してゆくには、自分の子女も女中も皆向上してゆかなければならない。麹町婦人会が勤倹だけでは不可ない。其外に社会事業をする為に、勤倹に縛られずにやらなければならない。それから又一つには資金を得なければならないので、芝居の切符を買ひきり、歌舞伎とか演舞場とか帝劇を買ひきりまして資金を造り、それを資本にして講習会やら講演会を致したり、美容の方面も研究したり、経済方面では太田正孝氏の御講演を聴いたり、種々各方面の施設を見学したり視察したり致しました。それから被服廠跡(関東大震災最大の人的被災地。焼死者三万二千人といわれる)の震災の記念堂の建立には三万円寄附金を集めて献金致しました。それが仕事の第一歩でありました。その後に大震災で思ひ付いた事は、皆で慌てると云ふ事が不可ない、皆慌てて喰物を持たずに逃げる事ばかり考へるから不可ない、と斯う考へ付いて、災害救済共同資金と云ふものを各戸に求めまして、約四万円ばかり出来ました。この一部を定期預金にし、一部を郵便貯金として何時でも出せるやうにし、水害とか火災とかが各地方に起つた場合には真先きに救済資金を出しました。その他にも種々の災害の場合寄附を致しましたので、大変に世間の人々から感心させられたのです。現在もそのお金が残つてをりまして、公債が買つてあります。先日の静岡の大火の時にもそれを出して、シャツやその他雑貨品を買つて贈りました。理事長嘉悦孝子の名の下に。それから愛国婦人会の分会長になるようにと、区長さんから非公式に交渉があつたので、それで麹町婦人会と愛国婦人会と合体することになりまして、麹町婦人会の積立金を愛国婦人会に事業資金として寄附致しまして、両方で一緒になつて、平和に仕事を続けて居ります。愛国婦人会になつた後もカード階級に対して農林省の払下米を積立金で買つて贈つたり致しました。それからバザーを致したり、友愛セールも麹町婦人会としてやりました。それから麹町婦人会会員同志の不要品を持ちよつて必要な方に安く分けてあげる、その一割を手数料として会が頂く、これを会の運転資金とし、いろいろの品物を社会奉仕として寄贈する、それが殆ど嘉悦先生の御計画によるもので、現在は学校の事以外に御用が多いのですが、先生は分会の副会長と富士見分区の班長等、細い事迄もやつておいでになります。その他、この地方の出征軍人の送迎には襷をかけて必ずお出掛になりますし、昨年の暮の友愛セールには真先に生徒さんを三十人位奉仕させて下さいました。そのため大変に仕事がいい具合に運びました。先生は現在は愛国女学校の校長もしてをられますが、これは愛国婦人会の経営するものです。その他、麹町区の嘱託やら、麹町青年学校の校長として毎晩欠かさず御出勤になります。御自分は重要な科目の公民科を御持ちになつて居られます」

Y 「先生はほんとうに悪い事をした時には怒りません。お客様の時、特別の食器等を出されるのに、女中さんや私共が粗相して壊しても決して御叱りにならない。何一言仰言らない。その他、アイロンで大切な御召物を焼いて了つても、決して御叱りにならない、お心の大きい方であると思ひます。それからお節句の時などは、お雛様を飾つて、二階のお部屋へ皆を集めてお白酒やらあられを御馳走して下さつて、寄宿生にも故郷の雛祭を偲ばせて下さるやら、どんなに私共の寄宿生に温いお心を注いで下さつたか分かりません」

B 「しかし先生は一面なかなか厳格なところもあり、何でも一を聞いて十を悟れるやうにならなければいけませんと云つて、私などいつも頭が悪いと叱られました。口の動き方で何を云はうとするかを察しられるやうになりなさいと仰言いましたね。これらのことなどは仲々酷しい点でした」

Y 「花の日会では、いつも真先に街頭にお立ちになりましたね」

W 「何でも彼でも真先になさる、実に怖ろしいほどのご精力家でゐらつしやいましたね」

 ゴバチャンの生涯は、そのほとんどが学生や生徒と起居をともにする共同生活であった。

 それが、自然に彼女をして、身を以て示す実践教育者に仕立てていったのである。