第二十章 大正から昭和へ
大正八年、和田垣先生の御逝去により、名実ともに孝は校長となった。時に孝五十二歳。
それから三年後、大正十一年三月には、物理学校の借校舎の生徒たちを迎えるために、 三階建の新校舎の増築が完成した。
生徒数も八百名を越え、学校は活気溢れるばかりであった。
翌十二年九月一日の関東大震災にも、火の粉をかぶるほどごく近くまで燃え拡がってき た火事が、風向きの変化で、学校をふくむ一画だけ焼失を免かれ、大震災による被害も、 前年に増築した新校舎・十五、六年になる旧校舎も寄宿舎とともに、屋根瓦がすこし落ち たり硝子窓が多少破損した程度の軽微な損害で終り、孝はその幸運に感謝するばかりであ った。
そして、生徒はますます増加の一途をたどって行った。
大正十五年十二月二十五日、大正天皇崩御、昭和に改元された。
その昭和になって三年の七月十七日、母久子が八十二歳の高齢で没した。
孝が校長に就任して十年、孝六十二歳、筆者十二歳の時であったが、まさに眠るような 大往生であったことと、内田康哉伯、斉藤実子、後藤新平伯、清浦奎吾子、古庄幹郎大将 をはじめ、多くの知名士が次々にご焼香に見えられ、子供心に“ああ、あの方は内田さん だ、この方は後藤新平先生だ”と、孝に連れられて以前にもお逢いした方々の顔と名前を、 従兄弟たちに誇らしげに説明した記憶がある。
昭和四年四月、従来の高等科を充実・発展させ、さらに高度の女子商業・経済教育をと 念願して計画をすすめてきた“財団法人・日本女子高等商業学校”が孝を理事長・校長と して開校のはこびとなった。
何年間かの高等科という実績があったといっても、そして女子商業という母体がすでに 存在していても、教職員組織・設置基準・そして寄附行為など、女子商業創立にくらべて みて、けっして優るとも劣らない大事業であった。
“嘉悦先生が、女子商のもう一つ上の学校を創られたんですって?”
“女子の高等商業学校ですって……。”
“何でも、男子のはあるけれど、女子では日本で最初だそうよ”
“女手一つでよくなさるわね”
そうした評価のなかで、八名の入学者を迎えて、日本女子高等商業学校は発足した。
社会的には、さらに“嘉悦孝”の女流教育者としての盛名を高めたのであったが、孝に とっては、やっと最終目的が動きはじめたという、一面では“当然に落ちるべき熟柿が落 ちた”という感もあった。
それは、私立女子商業の創立以来、明治から大正、そして昭和へと二十数年の時代の歩 みが、急速に進んで、女子商業からさらに女子高等商業という、女子にも高度の経済、商 業の専門学校の必要性が社会に強く認識されてきた結果、その当然の帰結として女子商業 教育の第一人者としての彼女に白羽の矢が立ったということであった。
この高商設立に際して、外部的に多大のお力添えを頂いたのが、木村義正先生であり、 内部的には森凱雄・平岡市三・宇尾野宗尊・山崎与右エ門などの諸先生であった。
孝は今さらのように、二十五年前の家賃なしの借り校舎、借り校長の神田錦町の思い出 が胸底に浮んで、感慨無量であった。
一代の業はようやく成った。
これからは、神仏の手によって召され、土に還る日まで、全身全霊をもってこの業を守 り通すことだけを考えればいい境遇であり心境である。
六十代を越した孝は、依然として元気であった。六月上旬、孝は日本唯一の女子実業専 門学校のしかも紅一点の女子の校長として、全国実業専門学校長会議に出席し、天皇陛下 に拝謁を賜ることになった。この時の孝の服装は、ロープデコルテにツバ広の帽子という 六十歳にして始めて着用する洋装で、ヒールのある靴をはいたことのない彼女が、歩く練 習をしていたユーモラスな光景が思い出される。
昭和七年五月、女子商業の生徒の増加で、いよいよ狭くなった市ヶ谷の校舎は、高商が 加設されたことによって、どうにもならないほど窮屈になったため、靖国神社に近い旧陸 軍軍医学校跡を借用して、市ヶ谷から移転した。
この年、法人名を財団法人日本女子高等商業学校から、財団法人嘉悦学園に変更した。
これは、女子商業も孝個人の所有という状態から法人に移し、私有の形式を廃すための、 孝の一大英断から出たものであった。
翌八年、在学生の努力によって、本科卒業生に対し実業教員無試験検定(商事要項・簿 記)の認可と、経理士無試験登録の特典を得ることができた。
この時の様子を、当時の学生で現在この学校の後身の日本女子経済短期大学の教授中野 愛子女史、など十三人の学生を指導された教務主任故宇尾野宗尊先生(のち名誉教授)は、 「私の思い出--教員無試験検定の頃
昭和六年四月、嘉悦孝校長から、日本女子高等商業学校の卒業生の資格として中等教員 無試験検定をとりたいがというお話があり、私は法規を調べ、教務主任に就任した。創立 後日も浅く学生数四十三人、教授講師二十四人という小さな世帯だが、全国で十三校しか ない官公私立高商のなかで、女子だけの高商としてユニークな存在、なんとかせねばと思 い、仕事にとりかかった。
教員無試験検定をとるためには文部省の出張して行なう試験を学生に受けさせ、それに 合格させなければならない。夏休みの時期になったが学校当局はもちろん学生も受験準備 の特別授業のため一日も休めない。教授講師も実によく努力した。学生のなかには夜間、 氷で頭を冷やしながら頑張るものさえあったように思う。試験は十一月、当日は準備なっ た学生は少しも騒がず粛然と受験、数日後文部省へ行くと『成績はきわめてよい』と絶賛 された。点数にして平均九十六点何分。その後官報で発表され、これで卒業生は申請によ り教員免状がもらえることになり、別に全員が計理士無試験登録ができることになった。 (後略)」と語り、中野氏は当時を想い出して、
「文部省から通達をおけた嘉悦孝先生は、クラス全員十三名を教室にあつめて、『このたび の文部省の試験は本学の実力がためされる試験であり、しかも女性の学識能力を男性に比 して試される試験でもあり、その上あなた方がこの資格試験に合格すれば、今後後輩は、 みんな教員の資格を得ることができるのです』と激励の訓示をされました。なお『あなた 方ならきっと合格することができる。私はあなた方の日頃の実力を信じます』とつけ加え られました。
その時、私たちは三年生でした。
信じられ、期待されたということは、よろこびとともにその責任を重く感じました。
十三名はガッチリとチームワークを組みました。
夏休みを返上して勉強に取りかかり、簿記と商業概論に重点をおきましたが、簿記とい っても商簿、銀簿、工簿、原価計算まで入りますし、商業概論もその範囲は膨大です。
先生方も夏休みを返上してのご指導で、学校は夏休みのためどの教室も空いており、一 教室に一人か二人ずつ入っての勉強ですが、真夏のしかも冷房もない教室は、暑くて暑く て。しまいにはバケツに水を汲んで両足を入れて、“太平洋の水はつめたい”などと冗談を 言いながら自分をはげまし、頭はつめたい手拭いでしばっての討入りスタイルでした。
これらの努力と苦労が実って、嘉悦先生から電話で『合格でした。しかもみなさんの平 均点は九十点以上で、試験管もおどろいておられました』という知らせをうけた十三名は、 だきあって泣きました」
と語っている。
こうした学生たちの涙ぐましい努力を見る度に、孝は自分の仕事にひそかな誇りと喜び をしみじみと感じるのであった。
“他の職業を選ばないでよかった教育界に入れてよかった。私は毎日その思いを噛みしめ ながら一日を送っているんだよ”筆者は何十度・何百度か聞かされたこの言葉を、思い出 しては終生忘れることなかれと自戒している。
“私も何時の日にかは、孝と同じ心境になれるだろう”と……。
昭和十年二月、借用していた富士見町三丁目の敷地・建物が、大蔵省から払下げを受け ることができた。これには官界・政界で活躍されブラジル移民、アマゾン開拓の父といわ れる上塚司先生のご高配に負うところが大きい。
“熊本の誇るべき先覚者嘉悦先生のご苦心をみて、私はただちょっとお手伝いをさせてい ただいただけ”と、上塚先生は謙虚に語られるだけではあるが、九段のこの高台の高環境 地に本拠を確立できたことは、学園の発展に至大の影響があった。
しかも、この地がのちに孝の終焉の地になるとは、奇しき運命であるといわざるをえな い。
この昭和十年から十六年頃には、女子商業では三百五六十名の入学許可者に対して入学 志願者は五倍近い千四五百名という激甚な競争率であり、高商も十年の二十二名卒業が十 一年には倍増の四十二名卒業、十四年には七十一名、十六年には八十八名という急速な増 加を示している。
だが、国家としての日本は、重大危局を迎えつつあった。
薩英戦争、馬関戦争、日清、日露、第一次世界大戦という一連の自衛戦争をやむなく戦 い、どうにか西洋列強諸国による日本植民地化の侵略は防ぐことができたが、経済的にも 軍事的にもまだまだ米英をはじめとする西欧列強諸国には比較にならない、一小島国の日 本であった。
この弱小国日本が、強大国に伍してゆくことができる唯一の道は、国民の総意の結集と、 国民全体が一致協力して経済成長の努力をすることでしかなかった。
だが、経済界は功利主義的経済至情主義の利潤追求のみを目差し、これに不平・不満を もつ一部の人々はただいたずらに共産主義に走り、政党政治は混迷の度を加えて行った。
ここにおいて、“月月火水木金金”という言葉で知られるように、軍事力に対する経済的 うらずけの貧困を、精神力と努力によって強固にする苦心を続けてきた陸海軍軍部の人々 の政治不信が強まって、米英中ソその他の日本経済封鎖計画の垣根をはずすのは、軍事力 しかないとして、ようやく軍国主義的傾斜が激しくなって行ったのである。
昭和四年十一月、日本の軍事力の抑制を目的とする米・英・仏・伊・日五ヵ国のロンド ン軍縮会議が開かれた。しかし、対米七割の日本要求は容れられず、“統帥権干犯”問題や 浜口雄幸首相狙撃事件などが起きて、日本は対米英均等を要求し、昭和十一年に会議を脱 退した。このロンドン会議は日本の軍事力の弱体化を目差したもので、これが次第に日本 に対する経済封鎖へとエスカレートしてゆくのである。
昭和六年九月、満州事変が始まった。一部の人々はこれを日本の侵略戦争という。中国 やその他の国の人々が言うのであれば、それはご自由にと言うほかはないが、日本の独立 を護るための日本の自衛までを他民族と同じように非難する日本人がいることは残念であ る。贔屓の引倒しも困るが、無責任な批判はまた売国行為に繋がることもありうるのであ る。
昭和七年五月、氏房膽沢県知事時代の県庁筆吏であった斉藤実海軍大将が総理大臣に就 任。同七月、氏房の塾に学び孝の後援者の一人であられた内田康哉氏が外務大臣になられ た。翌八年、満州国問題による対日勧告案の可決によって国際連盟を脱退。昭和九年、岡 田啓介内閣成立。この時、岡田氏の女婿迫水久常(現日本女子経済短大名誉学長・参議院 議員・元経企長官・元郵政大臣)氏が、総理秘書官となられ、二・二六事件に際しては、 岡田総理を首相官邸から救出するために決死の努力をされたのである。
昭和十二年には、同文同種民族が相争うという不幸な出来事“日支事変”が起った。
戦争はもちろん無いに越したことはない。その中でも特に起すべきでなかった戦争が、 この日支事変である。
蘆溝橋における一発の銃声が、その出発であるが、果してこの発砲者は誰であったか、 日本軍の銃声か国府軍のものか、それとも?これは日本と国府を戦わせるための謀略的銃 声ではなかったか?まさに暗夜の鉄砲であって、犯人を名乗った者もない、完全な迷宮入 り事件せあるが、私は共産軍の陰謀による謀略発砲であると想像している。
ただ遠因は、中国に対する日本の経済進出、しかもそれが利潤追求だけを目差すエコノ ミックアニマル商法であったことが不信を買ったかもしれないが、大半の日本人は(とく に軍部をふくめて)けっして中国との親交を捨てようとは考えてもいなかった。それが何 時の間にか米英に接近したり共産派の謀略に乗って排日となり、日貨排斥や現地在住日本 人への迫害などが具体的に出てきては、一般日本国民も軍部もそれを甘受することはでき なくなってくる、その沸騰点において発せられた謀略銃声が、世界最初の非戦闘員に対す る広島・長崎の原爆投下という日本史上いや世界史の上でも前例のない暴虐・悲惨な行為 が生れ、日本民族唯一度の経験である敗戦という姿で大東亜戦争を終らせ、しかもあの政 治家としても人間としてもまれにみる英傑蒋介石総統の国府を台湾落ちさせてしまったの である。
歴史の非情である。
日本も蒋中国政府も、かくなる宿命にあったのだと自覚するほかない。
悲しむべきことではあるが、それが歴史に書き残される事実なのである。
しかし、歴史が非情であっても、人間対人間、民族対民族が非情であってはならない。
戦争という、しかも日本の自衛戦争という止むをえない状況ではあったが、日本は長い 期間にわたって中国各地を破壊し荒廃させ、中国国民に多くの迷惑をかけた。にもかかわ らず、蒋総統は“怨に報ゆるに徳をもってせよ”と敗れた日本に対し世界史に前例を見な い恩情を示され、ソ連その他の日本分割占領(北海道をソ連、四国をイギリス、本州をア メリカ、九州を中国それぞれが占領するという案)、天皇制廃止を反対され、賠償まで放棄 されたのである。われわれ日本民族はこの事実を忘れてはならない。
そして、孝や筆者と奇縁のある方が一人ある。それは、一般日本人居留民の送還、岡村 寧次将軍以下百余名の戦犯容疑者の帰還に職をとして努力下さった方で、いま何応欽閣下 の秘書をしておられる王武閣下(元中国陸軍少尉、日本陸軍士官学校出身)という方であ る。
もし、この方のご努力とご厚意がなかったならば、岡村将軍以下百余名の人々は戦犯と して処刑され、一般邦人も帰国できなかったかもしれないのである。王先生は、このため 一度は軍から免官されておられたが、蒋総統と何応欽将軍によって再任されたが、この王 先生が士官学校に入学される前、日本中学に在学中、孝の弟敏の家に寄宿されており、筆 者を弟のように可愛がって下さったのである。先生の父君は孫文の同志であり、母上は津 軽藩(現在の常陸宮華子妃殿下の御生家)勘定奉行の娘であられた。まさに、ここにも見 えない糸のつながりがある。
さらに、もう一人、孝の手許に預けられて勉学していた愛親覚羅金憲貴嬢という中国女 性があった。この方は男装の麗人として知られる川島芳子女史の妹で、川島女史が度々、 孝の許を訪問されたのを憶えている。川島女史は戦後処刑されてしまわれたと聞いたが、 彼女はどうしておられるか、まったく消息を聞かないが、川島女史の冥福と彼女の無事を 心から祈らずには居れない。
しかし、歴史の非情の中にも、こうして、民族と民族、人間と人間との愛情が、美しい 華を咲かせることも忘れてはならない。