第二十一章 教壇生活五十年
昭和十五年、孝は七十四歳となったが、なお壮者をしのぐ元気さで、毎日早朝より出校 して校長職を執り、教壇に立った。
そしてこの年は、孝が成立学舎の教鞭をとってから五十年に当る年であった。
志垣寛先生をはじめ多くの方々の発意で、“嘉悦孝子女史教壇五十年記念事業後援会”が、 蘇峯徳富猪一郎氏を委員長として発足した。蘇峯委員長は、さっそく次のような趣意書を 起草された。
「嘉悦孝子女史は明治・大正・昭和の三代を通して、民間女子教育界に於ける、卓越の存 在たることは、苟くも女子教育に関心する者の皆な知るところであります。茲に民間の二 字を加へたのは、女史は全く官府の力を仮らず其の一生を女子教育に献げて、総てのもの を其の犠牲として居るからであります。女史は熊本に於ける横井小楠木門下の高足、嘉悦 氏房翁の長女にして、明治二十二年成立学舎に教鞭を執て以来、完全に五十年を経過いた しました。其間特に女子商業教育の開拓者として功績最も著明であります。今や七十有三 の高齢を以て、気魄旺盛壮者を凌ぎ、躬を将て幾千百の女性の学徒を率ゐて居ます。国家 派女史の功労を認め、社会は女史に向つて深厚なる感謝を捧ぐ可きは、当然の事と信じま す。されば此の機会に於て、女史の為めに、教育事業五十年の祝節を記念す可く、私共同 志胥りて、後援会を設け、嘉悦学園の為めに、資金を募集することになりました。希くは 大方の各位。女史の過去五十年に於ける努力と、現在に於ける顕著なる効果と、将来に於 ける多大の希望の為めに、奮ふて御賛同あらんことを。」
孝の誕生日、昭和十五年一月二十六日、神田一ツ橋の共立講堂において、嘉悦孝子教壇 五十年記念祝賀会が、生徒一千余名をはじめ、各界来賓、教育会・婦人会有志、卒業生、 教職員など多数の参会を得て盛大に行なわれた。
だが、筆者は、現役兵として遠い北支那太原の地にあり、遥かな祝福をゴバチャンに送 った。
嘉悦孝先生教壇五十年記念祝賀会
趣 旨
嘉悦孝女史は熊本の人、横井小楠の高弟嘉悦氏房翁の長女なり。幼少にして已に厳父の 薫化を受け、頗る産業と政治とに関心を有ち自ら進んで製紙工場の女工たりし事あり。明 治二十年上京、成立学舎に学び、同二十二年業卒ふるや、請はれて母校の教壇に立つ。爾 来、今日に至るまで満五十年、鶴城学館、成女学校を初め専ら民間に在つて女子教育の為 にその一生を捧ぐ。特に本邦女子商業教育創始の殊勲者たり。その間また「花の日会」を 初め、婦人社会奉仕運動の為に、献身努力せられし事幾何なるかを知らず、現に日本女子 高等商業学校及び日本女子商業学校の校長たる傍、愛国婦人会、女子校長会、婦人税制研 究会、警察官家庭後援婦人会、少年保護婦人協会、婦人衛生会、救治会等幾多婦人団体の 幹部として、公共の為に奉仕これ日も足らざるなり。
思ふに、一婦人の身を以てよく時運を察し、世に先んじて国家最要の施設に当り、赤手 万難を克服し、以て一生を公のために傾倒するもの古来その儔頗る稀なり。然り、女史五 十年の業績は、実に教育界・婦人会の等しく敬仰措かざるところなり。即ち吾等ここに嘉 悦孝先生教壇五十年記念祝賀会を催し、以て女史永年の御功労を記念し、感謝の熱意を捧 げんとするもの、又以て女子教育振興の一助たるを信ずればなり。
敢て大方の賛同を希ふ所以なり。
昭和十四年十二月
記
一、祝賀式
時 昭和十五年一月二十六日(先生御誕生日)午後二時
所 東京市神田区一橋通 共立講堂
一、 記念出版
先生の業績並に本会の状況を輯録編纂し、先生に贈呈すると共に一般賛同者に頒つ。
一、 記念品
(1) 名士の揮毫に成る書画の張混屏風一双を先生に贈る。(2)先生の胸像を作製し、嘉 悦学園に寄贈す。
一、 経費
以上一切の経費は、祝賀会賛同各位の醵金に依る。祝賀賛同者は会費として一口(金 一円)以上の御出金を願ふこと。但し、経費に残余を生じたる時の処置は実行委員 会に一任されたし。
以上、御賛成の方は、同封の振替用紙御利用若しくは便宜の方法を以て、本年末日 までに、本会宛御送金下されたし。
東京市神田区一橋通 教育会館内嘉悦孝先生教壇五十年記念祝賀会
顧 問(五十音順)
侯爵 細川護立 伯爵 清浦奎吾 安達謙蔵 徳富猪一郎 一条悦子 永田秀次郎 河原田稼吉 古壮幹郎 三土忠造
実行委員長 吉岡弥生
同 副委員長 天野多喜子 宮川英子
常任実行委員(五十音順)
入沢常子 伊豆富人 市川源三 池田むら子 上塚 司 大江スミ 大妻コタカ 大麻 唯男 岡田徳子 岡田うた子 亀井まき子 嘉悦基猪 金谷珠子 河口愛子 木村正義 指原乙子 志垣 寛 十文字コト 曽根松太郎 清水文之輔 田尻常雄 竹内茂代 千葉 くに子 寺田四郎 中村律子 中川貞子 中山貞雄 中島正勝 鳩山薫子 馬場幸子 馬 場一衛 藤井利誉 福島貞子 松平浜子 松野鶴平 三輪田元道 三輪田繁子 宮川宗徳
峯間信吉 吉村律子 宗像蔦子
発 起 人(○印 実行委員)
阿部喜三郎 阿部ふみ子 安達 雪 安藤正純 足立六三郎 相沢 熙 青井石子 青木あさ子 青木 新○青木文子 青柳芳次郎 赤木 光 赤松壽賀 県 光子 秋庭伊兵衛 秋葉馬治 秋穂 稔 秋山定吉 芥川多嘉子 浅井コマ子 麻生永子 麻生正蔵○跡見李子 綾井章江 赤星陸治 鮎貝ひで 荒川五郎 有馬ツネ 天野多喜子 安達謙蔵 荒川 清 伊藤トラ 伊藤波満 伊東かう 伊東清治○伊東静江 伊福部敬子○伊豆富人 井上敬次郎 井上匡四郎 井上鼎子○井上秀子○井上文江 井上正明 井上八重子 井関智世 井芹継志 井田磐楠 家入経晴 生田花世 生田ふく子 池田信一 池田節子 池田種生○池田むら 池田泰親 池田よし 石井玉子 石川光子 石川ふさ 石毛うめ子 石井もと○石田敏子 石橋蔵五郎 石橋千鶴 石光ツル 一条悦子 市川いし 市川源三 市川房枝 市野 湛 泉 道雄 稲垣公晟 稲毛金七 今井けい 今岡信一良 今次清蔵 今村琴治 岩崎ナヲ 岩崎美佐 岩崎庄吉○印牧千恵子 犬伏よし 伊藤 幸 石川鏡瑞 石久保重義 宇佐川知義○宇佐美みえ子 宇野哲人 宇田ヤス 上田千代 上田モト子 上原博子 上村喜代子 上村露子○上塚 司 植野録夫 植村愛子○植木けい 牛塚なほ 後田房子 臼倉クニ 内貴松子 内田虎三郎 梅原信之 浦野 伝 漆 雅子 上妻弘道 内海幸作 宇尾野宗尊 江口植次郎 江田国子 江藤俊明 遠藤ゆう○大麻唯男 大江スミ 大倉繁子 大崎千恵子 大沢玉子 大沢ツル 大島正徳 大杉大吉 大塚愛子 大塚惟精 大塚宝吉 大築仏郎○大妻コタカ 大戸孝之助 大西忠哉○大西頼子 大浜英子 大原千賀子 大平エツ 大堀 潔 大森潔子 大山勇次郎 太田滋子 太田黒敏男 小笠原貞子 小笠原嘉子 小川銀次郎 小川松造 太田黒市五郎 小沢恒一 小沢徳一○小野源蔵 小野寺令枝○小畑是清 小畑儀三郎 小原国芳 小原新三 小原六子 尾池秀雄 尾崎親治 尾高豊作 生出貞子○岡田歌子 岡田喜三郎 岡本武尚○岡田徳子 岡田八千代○岡本福恵 樋村一治 奥 むめお 奥田末吉 坤川美香○落合賢子 乙丸晃川 扇本トキ 大成哲雄 奥村安和
○嘉悦基猪 鹿島多喜子 鹿子木員信○加藤覚亮 嘉悦康人 川辺 密 金田 実 加藤サキ 加藤久子 加藤 弘 角田重治 角田清隆 風見すず 勝田馨子 門野駿子 金子幸子 金子太津子 金子ふみこ 金成亀次郎○金原さと子○金原千恵○金丸トモ 上遠野直子 上中八重野○亀井万喜子 亀井久子 辛島知巳○川崎 克 川崎喜重 川村文子 川本静夫 川本澄子 河井道子 河合なつ子 河内いね○河口愛子 川崎なつ 河原春作○金子 茂○金谷 珠 神戸源次郎 嘉悦博矩○嘉悦龍人 嘉悦 敏 加藤きみ子 鹿児島兼三郎
○木内キヤウ○木下澄代 木下富子○木村正義 木村庄二郎 木村武治○木村 利 菊地タミ 菊地豊三郎 菊地秀子 菊地文子 菊地利三郎 岸 澄子 岸田三治○岸野信乃 岸本喜久多 北原愛子○北村立子 清浦錬子 清川富美子 木村 喬 北村基武久野和蔵 久保田 �○久布白落実 草野薩子○草野ふみえ 櫛引友三郎 国枝 操 国友寿栄 熊坂賢太郎 栗原富士子 黒木百子 黒田芳生 黒田米子 黒政祥子 桑原トミ 桑谷春三 郡司篭山
煙山八重子
国分可任 後藤一郎 小岩井みき 小口みち子○小暮初枝 小島義正 小菅長四郎 小橋 秀 小林達吾 小林珠子 小林彦三 小林富恵 小林 学 小林芳次郎○小林初枝 小堀辰男 小松チヅ子 小山武夫 小山光衛 後藤清太郎 後藤エイ○五味幹裕 小松淑子 小溝橘子 児玉九十 古城貞吉○古賀留女 香坂郁江 高地テル 上月良夫 厚東せん 黄 貴軒 近藤樵仙 近藤憲子 近藤芳子 小林 誠 小山亮清 佐々木ベン 佐野貞雄 佐藤照子 桜間道雄○佐藤民太 佐々弘雄 佐久千代子 佐藤加寿子○佐藤敬子 佐藤京子 佐藤潤象 佐藤荘太郎 佐藤高治 佐藤婦美子 佐藤間平 佐藤ゆき 佐伯ノブ○佐伯タミ 斉藤 力 斉藤てい 斉藤かをり 斉藤春子 斉藤文次郎 斉藤和歌子○斉藤法代 坂井むが子○坂田静子○坂本久子 境 一枝 桜井賢三 桜井ふさ子 桜沢たみの 桜庭美津 桜庭ミヨ○笹原 助○指原乙子 定方亀代○雑賀陞子 鮫島民子 佐野善作○志垣 寛 篠田ウノ 斯波 安 塩原 静 塩谷伴造 重田広子 柴田いよ子 柴田きみ 柴田孫七郎 柴田 豊 柴田友枝 芝田徹心 渋谷タカ 島崎はつ○清水明子 清水喜代子 清水さわ 清水とみ 清水福市○清水文之輔 清水光子○清水みや子 下川兵次郎 下田守蔵○下村寿一 下山松枝○十文字コト 須東繁子 周布貞子 末松直次 菅沼トシエ 菅沼重雄 杉田鶴子 杉戸寿子 杉原総子 杉谷寿賀○杉山あき 鈴川富士子 鈴木彦太郎 鈴木秀男○砂原都留 鈴木亀蔵 須貝寅吉 菅原弘礼
瀬尾秀雄 関 治子 関根公平 関根はる 関屋貞三郎 関屋龍吉 芹沢孝子 世良俊雄○曽根志津○曽根松太郎田島春江 高橋 猛 詫摩武臣 田路十二一 高橋 日皐 田崎靖子 田島亀彦○田島真治○田尻常雄 田中重之 田中千代 田中芳子 田所美治 田村泰明 田部香枝子 大 千代子○多良つぐ 高岡愛子○高木古泉○高木 武 高木 徳 高倉 専子 高洲虎子 高野範子 高橋とき 高橋雅子 高橋百輔○高藤太一郎 武田歳太 武田陽蔵 武部欽一 武谷礼子○竹内茂代 武須喜久止 竹中花子 竹村一郎 竹村きん 竹村茂登 詫摩武彦○龍野定一 立花優子 立山松次
○ 棚橋源次郎 谷』周三郎 為藤五郎
○ 千葉くに 近岡富美 力石喜乃子
津田信良 拓植あい 辻村誠之 土井郁子 土田喜寿 鶴見清子○常川よし子 築紫熊七 出井篤三○出口 競○寺田四郎 寺島幸三 外口昇八 利根川治子○戸野かめを 土上新作 土岐龍雲 土肥ゆき 徳永藤次 富田敬純 富所東一 名取富美子 内藤佐賀子 内藤千代丸 中井勵作 中内辰熊 中川喜久子 中川貞子○中川よね 中沢 留 中島真孝 中島福子○中島正勝○中島みつ 中島石教 中田利子 中野万亀 中野美代子○仲野昭子 中村吉右衛門 中村継男 中村俊秀 中村尚子 中村福太郎 中村光尾 中村 律○中村貞雄 長岡恒喜○長坂花子○永瀬諭喜 永山琴子
成毛通子 成毛基雄 永好せつ 中村忠彰 中村時蔵 中村久雄 二宮シマ 仁木清一 新妻伊都子 新堀照蔵 西尾好克 西川美代子 西崎綾乃 西村和子○西井貞子 西村ひで子 西村庄太郎○西村まつ○西村泰子
沼 軍司
野口援太郎 能勢裕夫 野田武夫 野田松平 野水マサ子
林 止 原田 茂 羽仁もと子 長谷川きぬ 長谷川時雨 長谷川智恵 長谷川 仲 長谷川 雅子○馬場一衛○馬場 幸 馬場英雄 間 理子○鳩山 薫 花木チサヲ○花 輪しう 浜 幸次郎 早坂平八 早部保司 林 歌子 林 毅陸○林 五郎 林 仙之 林 俊 林 房子 林 三枝○林原房子 原 光子 原田十衛 原田 実 原山政記 伴 熊太 日原道子○稗方弘毅 菱田光之助 平井 孝 平井恒子 平田のぶ 広瀬 近 広瀬千代 平岡市三
二子石官太郎 福井うの 福島四郎○福島貞子 福田生蔵 福田てる 福田瑞穂 藤井 千代 藤井利誉 藤岡真一郎○藤田せん○藤田福美 藤沼喜三郎 藤村千良 藤村トヨ ○藤本シゲ 古沢 俊 古荘四郎彦 古田菊造 古田とみ 降旗敏子 藤沼太郎 藤本 英一 伏見猛弥 兵藤長三郎 別枝ゆき ヘルマナマイヤー 別所啓司 保科孝一 帆足みゆき 細川武子 細谷 章 星野あい 星野良五郎 堀越千代 本間八重子
ここまで書いて思いついたこと二、三を、書きとめておこう。
社会的に知名な方、筆者のよく知っている方、お名前とお顔の一つにならない方など、 いろいろとあるが、二つの面白い対照に気づいた。
荒川清、寺島幸三、これは三世市川左団次と、その師であった一世の名優六代目菊五郎 つまり私の二長町市村座時代からの友人梅幸丈の父、七代目菊五郎となる菊之助君の祖父 である。つまりこの人たちは実名である。
これに対して、波野辰次郎こと初世中村吉右衛門丈、その弟の小川米吉郎の三世中村時 蔵つまり萬屋錦之助君の父は、両方とも芸名で出ているのである。
そして、偶然にも十文字高校の十文字コト先生の所で筆を置いて参列したご葬列が、私 の郷里の大先輩であり教育界での大先達だった和洋学園の稗方弘毅先生の告別式で、式か ら帰って書き続けてみたら、その稗方先生が実行委員として、また葬儀委員長堀越克明先 生のご祖母千代先生のお名前が見えたり、花の日会で多大のご協力をいただいた戸板先生 のお嬢様で戸板学園理事長・学長・校長の青木あさ先生にお逢いして先生のお名前が発起 人の中にあったことをお話ししたりしたのだが、この発起人のお名前を書いていると過ぎ 去し方のいろいろな思い出が次から次と浮んでくるのである。
馬上孝太郎 前田若尾 前原波津子 牧野輝智 正本喜久四郎 増田 穆 町田孝子 松井 茂 松浦鎮次郎 松尾千代子 松岡キン 松崎悦子 松崎せい 松田信子 松平 俊子○松平浜子○松野鶴平 松本浩記 松本すま子 松山芳彦○松村民子 丸山一郎 丸山文喜○丸岩関弥 丸山慶司○増田夫佐○増山外三郎 松野惣一
三浦精翁 三浦タマ 三尾三之助 三木悠子 三国谷三四郎 三雲貞次郎 三谷民子 三辺らく子 三木安江○三輪田元道 三輪田繁子 光永星郎 水谷勝代 水谷つる子 水野常吉○水野万寿子 皆川治広○峯間信吉 蓑田胸吉 宮田純子 宮田ツヤ子 宮田 斉 宮崎広人○宮川英子○宮川宗徳 宮崎ふみ子 水野富士雄 水野武夫 武藤能婦 子○武藤キミ○宗像ツタ子 村上儀憲○村上秀子 村瀬義徳 村田浅江 村田春香 村 田幸栄 村田恒三郎 村松りう 村上むめ 目賀田 逸
茂木由子 茂呂ぎん 森 文子 森 松太郎 森 律子○森 凱雄 森田美和子 森家 興一 守屋 東○守屋ふじ 本野久子
八木朝江 八杉名美子 矢田千代子○矢野艶子○矢野絢子 安井 哲 大和俊子 山上 淑子 山口亀三郎 山崎光子○山崎その○山田演子○山田静子○山田春江○山田わか 山野千枝子 山室宗文 山室民子 山本 滋 山本 杉○山本鈴子 山脇春樹 矢部光 子 山下ムツ 山内真佐江 山本隆二 山崎馨一 山崎与右衛門 山口俊雄
遊佐常章 結城久興 弓削田秀雄
横井千代吉 横島常三郎 横田定雄 横田七蔵 横山須磨子 横山 静 横山徳三郎 除野康雄○吉岡弥生○吉川利恵 吉田紀代子 吉田熊次 吉田晴風 吉田若枝 吉田ヒ サ 吉田久義○吉原妙子 吉見静江○吉海長子 吉村千代子 米沢朋子○吉村律子 吉 田日出男 吉原 規 和田さと 若色美枝 若月岩吉 脇坂甚兵衛 涌井一雄 渡辺と め 渡辺孫二郎○渡辺清子 若井 操
午後二時から四時半まで、共立講堂を埋めつくした来賓、教育界・婦人界の有志、卒業 生・在校生・教職員の人々の、心からの親愛のまなざしを浴びて祝福を受ける孝の、昔な がらの黒紋付に被布を羽織った姿に、彼女の昔を知る年輩の方々はさすがにすくなくなっ たが、この方々は「もう五十年か、本当に早いものだ、嘉悦さんはまだ元気だから老人扱 いをしたくない」と孝の刻苦勉励を偲び、若い人々はこの七十四歳とは思えない元気な老 女の姿に、五十年という歳月の不思議を感ずるのであった。
司会者の志垣寛氏によって開式が告げられ、法学博士寺田四郎氏が開式の辞を述べられ た。
「御承知の如く我が王朝時代は姑く措きまして、明治・徳川の時代に在つては、体育、徳 育は相当に発達を致しましたが、知育の点に至りましては閑却せられて居つたのでありま す。この秋に当りまして今日の祝賀会の主人公たる嘉悦孝子先生は、御郷里の熊本藩の横 井小楠先生の三俊才と言はれましたる、徳の点に於ては山田先生、知の点に於ては徳富蘇 峯先生の父君徳富一敬先生、才の点に於きましては嘉悦孝子先生の父君に当らせられます る嘉悦氏房先生の薫陶を受けられまして、実学・勤倹貯蓄・殖産興業の教育を受けられま した。その影響感化に依つて、嘉悦孝子先生は明治二十年に郷里を出られまして、東京に 於ける当時の新知識の教育機関でありました成立学舎に入学せられ、その間に当時の我が 経済学の逸才であり且つ又実業界の新進でありました土子金四郎先生の御教授を受けられ、 商業蔑視の当時の風潮に反して、女子の教育、就中女子の商業教育の必要を感得せられま して、暫く御郷里に居られたのでありますが、その郷里の学校に於て嘉悦孝子先生は将来 の女子教育機関の充実をしたいといふ御念願の下に、日夜勤倹貯蓄せられ、数千の資本を 携へて再び上京され東京高等商業学校長矢野二郎先生、東京帝国大学教授和田垣謙三先生 等の御協力に依り、神田錦町に女子商業学校を樹立せられました。その間非常な御苦心に 依つて卒業生は僅に八名若くは十名に過ぎなかつた苦境を嘗められたのでありましたが、 彼の世界大戦に依りまして江湖全般女子教育女子の商業教育の必要を唱導せらるるに至り まして、漸く先生の事業が成功の緒に就かれたのであります。幾許もなくして昭和四年に 至り、我国唯一の女子高等商業学校を確立せられ、嘉悦学園として日本女子商業学校及び 日本女子高等商業学校を茲に創立せられたのであります。今日に於ては商業学校、女子高 等商業学校の卒業生合せて六千五百十八人の多数に及び、現に又両校合せまして千六百六 十四人の多数の生徒を包容するに至つたのであります。この間五十年の長きでありますけ れども、嘉悦先生は無論今日御臨席になられます御親族並に吉岡弥生先生天野多喜子先生 の多大なる援助を受けられたのでありますけれども、独身、而も多数の求婚者ありしに拘 らず、支那の聖賢たる、而も才気渙発たる孟子を夫にするにあらずんばこれを迎へずと揚 言されまして、有らゆる求婚を斥けて単身教育事業の経営に当られたのであります。(筆者 註。孔子はどうも何となく爺むさいから、孟子の方がいいと笑っていた孝であった)而も 今日七十四歳の高齢を保たれて居るのでありますが、尚且つ矍鑠として学校の経営の為に 日夜腐心せられて居るのであります。而も既に種を播かれた時代は過ぎまして、今や花を 開き、実を結ぶ時代になつたのであります。先生この五十年の教壇の境涯を考へて見ます れば、恐らく感慨無量であると考へるのであります。斯くの如き功績は蓋し殊勲に当りま すので、嚢に既に叙勲の沙汰があつたのであります。吾々教育の任に当ります者、又社会 の一員と致しまして、斯くの如き女子教育界、女子商業教育界の主たる功勲者に対して、 報功・報恩致しますのは当然のことと考へるのであります。而も嘉悦先生は啻に学校教育 のみならず、社会教育に於きましても貢献頗る顕著なるものがあるのであります。聞く所 に依りますれば、大正三年十二月十八日に行なはれました『花の日会』に於て、造花を市 内街上に於て販売し、五十六万の花を市民に頒つて戴きまして、その時の売上金一万数千 円を青島事変の遺族に贈られたといふが如き社会運動は、蓋し我国に於ける功勲者を吾々 民間の者が報功致しますのは、これは当然のことと考へまして、一度激を飛ばしまするや、 数百の発起人は立所に之に加はりまして、今日斯の如き盛会を見るに至りましたといふこ とは、当然のことと申しながら、嘉悦先生の従来の教育界の功勲を多数の方が認め来りま したる現れであると考へるのであります。これ今日この祝賀会を開きましたる趣意であり ますが、尚ほ更に希くば、先生、百年の長寿を保たれまして、更に人をして六十年、七十 年の記念祝賀会を開かしめらるること、更に希くば今日の我国の女子教育界より第二の嘉 悦先生、第三の嘉悦先生が陸続として輩出せられんことを希ふ次第なのであります。
これ等今日、この祝賀会を開きました趣旨に外ならぬのであります。(拍手)」
ついで、実行副委員長宮川英子女史から経過報告が述べられた。
「大変失礼でございますが、本祝賀会の今日までの経過に付きまして私から御報告申上げ ますことを御許し願ひたいと存じます。趣意書にもあります通りに、嘉悦先生が成立学舎 を御卒業になりまして母校の教壇にお立ちになりましたのは、慥か明治二十年の二月でご ざいますが、爾来今日に至りますまでもう五十年の間、先生には引続き教壇の人として子 女の教育に当られましたのみならず、その間又我国婦人運動の先駆者として御働き遊ばし ましたことは、皆様方の能く御承知のことでございますが、先生のこの大きな御功績を称 え、先生の御健康をお喜び申上げる為にこの記念祝賀会を致しますことは極めて意義深い ことであると考へられますので、旧冬十一月の初二、三の方々が御協議の結果、この事を 教育界、婦人界その他朝野皆様方に対しまして御意見を御伺ひ申上げますことに相成りま した所、何れも非常な御賛成を戴くことになりましたので、そこで一橋教育会館内に事務 所を置開き、各方面の方々約七百人を発起人にお願ひ申上げ、先生の御誕生日であります 今日を以てこれを行ふことに相成りました次第でございます。所が時恰も年末御多端の際 にも拘りませず、忽ちにして数千名の御賛同を得まして、今日尚ほ続々と御申込を受けて 居りますことは、偏に先生の徳望の然らしむる所でありまして、関係者一同深く感謝致し て居る次第でございます。本会では予て御案内申上げました通り、先生の御胸像を製作致 しまして、先生に差上げることに致しましたが、これは先生の学園に学ぶ者が永遠に先生 の御徳風を御慕い申上げるよすがに致したい考から計画致しましたのであります。猶ほ又 この壇上に飾られてございます屏風は先生の御知人であらせらるる、御名士の方々の御揮 毫に係はるものを以て製作されたのでございますが、これは記念品として先生に贈呈申上 げることに成つて居ります。猶ほ先生の御事業御功績を後世に貽したい考から、御許しを 得まして先生の小伝を拵へ、皆様にお頒ち申上げたいと存じて目下編纂を急いで居る次第 でございます。
以上は本祝賀会の経過概要でございますが、一度この企が発表せられまするや、各種の 言論機関は競つて先生の御功績を讃へ、この催しを斯界の欣快事として報道せられました ことは、この企が教育界、婦人界は申すに及ばず、一般社会に多大の衝撃を与へ、且つ世 道人心に稗益する所の多かつたことが深く感ぜられる次第でありますが、私共は同時に先 生が今後益々御健康にあられて、層一層斯界の為に御精進遊ばされんことを念願して已ま ない次第でございます。尚ほ本祝賀会の会計に就きましては後日印刷物を以ちまして御報 告申上げることに相成つて居りまするから、御諒承を御願申上げたいと存じます。甚だ簡 単ではございますが、これを以ちまして御報告と致します。」
さて、実行委員長吉岡弥生女史は、式辞を次のように述べられた。
「 式 辞
皇紀二千六百年のいとも輝かしき新春を迎へました今月今日
嘉悦先生教壇五十年記念祝賀会を開催いたしまするに際し、
閣下並諸彦各位の御来臨を辱ふしました事は、発起者共として寔に感謝の至りに堪へま せん。茲に私は僭越ながら実行委員長たるを以て一同を代表いたし謹而深甚なる敬意を表 し、併せて一言式辞を陳べさせて頂きます。
顧みまするに、
嘉悦先生が教壇生活に身を投ぜられましてから本年を以て五十年を閲すると致しますれ ば、其の第一年は恰も教育勅語を、御下賜遊ばしました明治二十三年に相当するので御座 います。
されば、
先生の教壇五十年を記念いたしますことは、即ち吾が国の教育是が樹立された明治中葉 の其の第一期から大正、昭和の三代に亘る我が女史教育を大観し懐古する事となるのであ りまして、而も此の間に於ける我が国の文明が余りにも長足の進歩を遂げたる為め一口に 五十年とは申ますものの、之を過去の歴史に比べますと、それは実に五百年にも千年にも 相当する程の内容を有するのでありますから、其処に私共の考ふべき極めて意義深いもの の多分に存すると思ふのであります。
そもそも人が一業務に従事しそれを五十年間も頓挫なく護り続けたとすれば、凡そその 業の何たるを問はず唯長いといふ其の事だけが、既に其の人の栄誉たるは勿論、社会に対 して大きな貢献であり教訓でもあると思ひます。況して妙齢の一女性として一たび身を教 壇生活に投じて以来七十余歳の今日に至るまで、之を以て至大至楽の天職とし終始一貫 諄々として誨へ孜々として営み、而も未だ女子の商業教育など夢想だもしないものの尠か らざる時代に於て率先之を創始し、終に克く今日の大を築かれました嘉悦先生の如きは真 の守成者と称せらるる人の極めて乏しき、我が教育界として、蓋し異数にして是ぞ真の教 育者と謂はなければなりません。と同時に、先覚として斯界の至宝的存在と信ずるのであ ります。
更に又、
嘉悦先生は単に教壇の先生たるのみに甘んぜず、夙に社会教化若くは社会事業のため街 頭の指導者として諸方面に活動され、又現にされてあります事は今更私の喋々するまでも ありません。殊に先生は単なる口や筆の音頭取でなく実践躬行して具に範を垂れ、且つ無 私恬淡にして其の言ひ行ふ所は、唯一念国家の御為め社会の御為め偏へに忠誠を期せらる る点は流石に勤王家たる乃父の血を享けさせらるる事が肯かれ確かに一代の師表と仰ぐ事 に何の疑ふ余地もないのであります。
今や先生は功成り名遂げ嘉悦家の長女として、克く其の責任を果し、大孝を宣べさせら れました。況してや寿は正に古稀を過ぐる四歳なるには拘はらず、其の容姿の端正なる、 其の音吐の朗々たる真に矍鑠尚壮者を凌ぐの概を有せられます事は之れ独り、先生のため に慶賀すべきのみならず、実に我が教育界の慶事として大に祝し、且つ大に犒ふべきだと 存じます。
即ち今回の此の挙が期せずして、かかる盛会を見るを得ましたのは全くその所以であり まして、而も此の挙が時恰も皇紀二千六百年の今日に繞り会ひましたのは、蓋し先生積徳 の然らしむる所で御座いませう。嘉悦先生冀くは国家の為、倍々自重加餐されますやう、 茲に之を衷心より御願ひ申上げまして拙い私の式辞を終ることと致します。」
我が国、女子医学界の先駆者、名声かくれもない吉岡弥生先生の堂々たる式辞につづい て、各界代表の祝辞は、先ず文部大臣松浦鎮次郎氏であった。
松浦文部大臣についで、
旧藩主細川護立侯爵は、孝に祝福と励ましの言葉を述べられた。
そして、孝の幼友達であり、弟の蘆花とともに熊本の生んだ偉大な兄弟文豪徳富蘇峯氏 が、
「甚だ失礼でありますが、少し病気をして居りますからして、立つてお話し申すことが苦 しいのであります。甚だ恐縮でございまするが、椅子に腰掛けてお話を申すことをお許し 願ひたいと思ひます。(拍手)
私は嘉悦先生の教壇五十年の御祝に出席いたしまして御悦びの言葉を申上げることは寔 に衷心より喜ばしく存じます。又斯の如き立派なる祝賀会を御催し下さいました吉岡先生 甫め皆様に厚く御礼を申上げる次第であります。いろいろお話を申上げたいことが沢山あ りますけれども、その中の少しばかり申上げて、何れ又遠からず教壇六十年の御祝ひがあ ると思ひまするから(笑声)話し残したことはその時に譲りたいと思ふのであります。(拍 手)
嘉悦先生の御家は、文字が証して居るやうに非常に芽出度い御家である。嘉悦と言へば、 この位良い文字はないのであります。それと共に御家柄にも非常に立派な御家であつて、 即ち名門である。詳しいことは承知致しませぬが、嘉悦家は南朝の忠臣名和長年の家であ りまして、嘉悦先生の御先祖は名和家の第四番目の御子さん、後醍醐天皇の御守護をなさ つて隠岐国にお出になつた御方である。その後西征将軍の御伴をして九州に御下りになつ て、肥後に御子孫が御住いになつて、加藤家が肥後に来た時には加藤家の立派なる侍大将 であつた。又加藤家の後に細川家が来られた後には、立派なる士族として細川家に仕へて お居でになつたのであります。即ち嘉悦先生は苗字が嘉悦などと言つて非常に愉快なる、 朗らかなる苗字であるばかりでなく、御先祖以来立派なる歴史を御有ちになつて居る御方 であります。嘉悦先生の御父君は嘉悦氏房先生と申しまして、横井小楠先生の高足門下の 一人である。先づ横井門下で言へば十哲の御一人であるといふ御方であります。その御母 堂は斯く申しまする私が子供の時に入塾して居りました兼坂先生の御妹君であります。で、 嘉悦家は私共に取りましては別に血縁こそ続いて居りませぬけれども、嘉悦先生の御父様 は私の父の親友の御一人であり、御母様は私の先生の御妹君であつたのであります。又嘉 悦先生の御祖母は余程有名なる御方であつた。嘉悦家のお袋、即ち御隠居さんといふもの は当時熊本に於ける御婦人の三隠居、三人御偉い御方がお居でになつた内の御一人であつ たと承つて居ります。斯ういふ風にいろいろ研究して見れば、嘉悦先生が御偉いのもこれ は決して不思議ではない。余り御祖先を言へば、何だか嘉悦先生の値打を段々滅して行く やうになるのであります。(笑声)つまらない家から出て御偉くなつてこそ初めて腕が判る のであるが、名和長年などと言つて、どうも日本外史あたりに光つて居る御方を先祖に御 有ちになるし、又いろいろ立派な御方が御歴代続いて居ると言へば世間では嘉悦先生は御 偉いのでありまするが、嘉悦家に取つては宜い頃加減の御方、(笑声)斯ふ申しても宜しい。 宜い頃加減と言つて、決して悪い訳ぢゃない。その水平にちやんと座つてお居でになる立 派な御方といふ意味になります。それで私共の仲間では何時もさういふ御話をして居るの です。斯ういふ事を申せばあなた方は怪しからぬと言はれるかも知れませぬが、どうも惜 しい事をした、嘉悦女史が若し男であつたら、もう疾つくの昔に大臣ぐらゐにまでなつて 居たのに、まああの人が女である為に大変熊本は損をした、斯ういふことを申して居るの であります。(笑声、拍手)で、それは男の立場からの観方で、又、皆様方の立場から御覧 になれば、ようこそ御婦人に生れてお居でになつて、茲に如何なる男でも為することの出 来ないやうな仕事を為して下さつたと言つて、あなた方は又これを御悦びになるであらう と思ひます。(拍手)これは皆立場の違ひであつて、どつちがどうとは言へないけれども、 兎も角も嘉悦先生は男にしても相当の男、女にしても相当の女、却々これは神田辺りの青 物市なんかでは転がつて居る品物ではない。(笑声、拍手)
で、私は先生のおやりになつたことを一々数へ立てて茲に頌徳表を奉ることは致しませ ぬ。然しながら先生の御父様は横井小楠の門人、横井小楠といふ人は所謂実学といふこと を唱へて、総て学問は実地にして行かねばならない。徒に高遠なる理想に走せて空想空論 を事としてはいかない。総ての事が両足が地に付いて、実際の上からやり上げて行かねば ならぬといふのが横井先生の教育の型である。又その門下である嘉悦老先生もそれをやつ てお居でになつたのでありまするから、嘉悦先生が女子高等商業をお造りになり、若くは 女子商業をお造りになるといふことはこれは外の人から見れば不思議でありますが、先生 としては当然おやりになるべきことであると思ふのであります。然し当然やるべきことを 皆がやらぬので困るので、先生のやうな人が初めて当然やるべきことをやつて下さつて、 私共も茲に先生の徳を称へ、功を賞するやうな、今日のやうに愉快なる日の到来したこと を皆様と共に喜ぶ次第であります。
茲に先生の最も御苦心になつたことは何であるかと言ふと、私立学校の経営といふこと である、これは御歴々の官立公立の学校をやつておいでになつた御方には解らない。毎年 定まつたやうに予算が入つて来るし、少し文部省にでも運動すれば一割や二割は増して貰 ふことも出来る。恰も袋の中から物を取つて来るやうなことでありますから、それだけの 資本を使つて学校を経営するといふことは決して難しいことではない。それも易くはない が、左程難しくはない。然しながら私立学校といふのは謂はば無中有を生ずることである。 何処からも予算を拵へて来て出す者はいない。金から自分で集めて来なければならないか ら、非常にこれは困難なることであります。そこで私立学校には御歴々の偉い方々がみん な困難をなされてる。福沢先生もその通り、大隈侯爵の如きも決して容易ではなかつた。 又京都の新島先生の如きも最も困難された。此処にお居でになつて、私立学校を御経営に なつて最も御成功になつて居る吉岡先生の如きも、私立学校でなくして官立の総長とでも 崇めたらば、まだ今の学校よりも少くとも十倍の大きな学校を経営しておいでになること が出来たらうと思ふ。あれ程御成功になつても、その成功の裏には、容易ならぬ経営があ るのであります。嘉悦先生も亦その通り、これはやつて見た人でなくては判らない。外か らは判らない。私がどうしてさういふことを申すかと言へば、恰も私は乞食小屋のやうな 小さい私塾を造つて居つた。その私塾でもやつて見ると却々思ふ様に行きませぬ。私塾を 若干やりましたが、迚も自分はさういふ柄ではないといふことで、学校も閉鎖し学生を引 張つて東京にやつて来たのであります。一口に言へば経営に見切りをつけたやうな訳であ る。それで私が嘉悦先生は実に偉いといふことを証拠立てるものである。嘉悦先生の偉い といふことを証拠立てる裏には、斯く申す私が偉くないといふことも併せて証拠立てるこ とになります。それは目的ぢゃない。(拍手、笑声)兎も角も先生が上手に経営せられたか、 下手に経営せられたか、そういふ巧拙などといふことを問題とするのではない。兎に角一 度考へたならばそれを是非とも徹底するといふことで、婦人の一年山をも動かすといふ大 精神を以て貫徹して、真に今日の盛大を見るに至つた。この中には幾多の厚い涙、地より も濃やかなるところの汗、有らゆる苦心がその肥料となつて斯の如き立派な花を開いて来 たのであります。実に私は嘉悦先生の意志の鞏固であること、又その志望の宏大なること、 又修行を積んで、如何なる時でも失望せず、落胆せず、常に楽天的性情を以て万難を排し て行かれる、これらの点に付ては日本国中の有ゆる男を引張つて来て競争させても、私は 俺が相手になるといふやうな人は、居らぬとは申しませぬが、極めて少数であると思ひま す。議論から言へば、況んや御婦人をやとでも言ひたいやうなことになるのであります。 (拍手)必ずしもさういふ訳ぢゃない。(笑声)凡そ御婦人が大いなる仕事をするには、悉 くとは申しませぬが、概して異性をうまく使役する。即ち御婦人が仕事をされるには。男 を勝手次第に引廻し、使い廻し、利用し使用するといふことが原則と言ふ程でもありませ ぬが、マア略々それに近い位になつて居る。例へば御承知の通り皆様方が御手本になさる ナイチンゲール嬢の嘆き、リットン・シトラッシュといふ人がナイチンゲールのことを書 いたのを見ますと、嬢は一方に於ては白衣の天使などと言つてクミリミヤ役の傷病兵が掌 を合せて後姿を拝んで居た。当時の内閣員、陸軍大臣初め何れもナイチンゲール嬢に追廻 はされて、突廻され、勝手次第に呼付けて仕事をさせられて、みんな易易諾々としてその 事をしたといふことが書いてあります。嘉悦先生はそれ程ではないけれども、嘉悦先生も 男の力を使用するといふことは決して人後に落ちておいでにならないやうであります。 (笑声)だんだん嘉悦先生に後骨折して上げて居る人が多いやうでありますが、私も七十 七歳になつて初めて先生の後援会長といふものを御命令を受けまして、これは昨年であり ますが、私もそれ程御役に立つ人間ではないけれども、御役を勤めなければならぬやうな 行掛りになつて来たのであります。(笑声)私共のやうなどうも無精なる者、働かない者ま でも鞭撻して相当の役を勤めるやうに御命じになつて居る訳であるからして、もう少し気 の利いた人はたくさん先生の御用を務めて居る男が居るであらうと思ふのであります。 (笑声)さういふ人は斯ういふ場合に銘々名乗り出て皆様の前に、自分もやはり嘉悦先生 の部下として働いて居るといふこととぉ名乗り出ても差し支へないではなからうか、私は 自ら先例を出してその一人であるといふことを皆様方に御報告をして置きます。(笑声)私 は後援会長でありますから、つまり寄附金を集める方も私がやはり係である。どうぞこれ までお出しになつておいでになるお方はこの上ともと申上げかねるが、出し方のお少ない お方は(笑声)或は又自然忘れていらつしやるやうなお方はこの機会に於て御奮発あらん ことを御願ひ申上げます。(拍手)
いろいろの事を申しますると数限りがありませんから、もうこれで御話は止めますが、 余り私が嘉悦先生の良い事ばかり申して居るからして、最後に私は一つ私の不満と思ふこ とを申上げて見たいと思ふ。(笑声)それは何であるかと申しますれば、嘉悦先生が結婚を なさらないといふことが不満であります。(拍手、笑声)今日日本の国策から申しますれば (笑声)結婚といふことは実に大切なことである。私は曽て先生に、もう先生は忘れてお いでになるであらうと思ひますが、非常に昔、御結婚のことに付て申込んだことがある。 (笑声)誤解してはいけませぬ。私と結婚して下さいと申込んだんぢやない。(笑声)私は それ程までに心臓の強い者ではない。(笑声)然し私の友人が非常に嘉悦先生を執心で居る から、その志を憫んで(笑声)申込んだのであります。然し先生はどういふ御都合であつ たか、遂に私の申上げたことは御承諾にならずにすんだのであります。(笑声)恐らく先生 としてはそれが賢明であつたかも知れない。併しながら御婦人が一人でなくては仕事が出 来ぬといふことであれば、此処に居られる吉岡先生などは御結婚をなさつて立派な仕事を しておいでになる。(笑声)必ずしも今後偉い仕事をする女は、嘉悦先生の如く一生結婚を せずに居なければならぬといふやうな原則は私はないだらうと思ふのである。(笑声、拍 手)先生に就ては彼此れ私が悪く言ふのぢやない。私の言ふことを肯かなつたから悪く言 ふのです。(笑声)併し先生の御後進である皆様方は、どうぞやはり職業は職業、結婚は結 婚(笑声)職業をやるが為に結婚をしないといふやうな偏つた考はなさらないように。こ れは先生のことはその他総て模範として宜いけれどもが、男を嫌つた一点だけは(笑声) 模範としてはいかぬのである。然し嘉悦先生は今日でも意気溌刺としておいでになるから して、若し私の苦言を御聴きになり、これからなんか御考直されるならば、所謂“今から でも遅くはない”(笑声)といふことを申上げたいのであります。(笑声、拍手)」
と満堂の人々をして時間の経過を忘れさせてしまふやうな名祝辞を述べられた。
また、帝国教育会長・永田秀次郎先生、日本女子大学校長井上秀子先生につづいて、
全国高等女学校長会会長市川源三先生は、
「閣下並に諸君、私は全国一千一百の高等女学校校長を代表致しまして、嘉悦先生の教壇 五十周年の祝賀会に対し深甚の祝意を表し、又先生に依つて女性の教育の振興されたこと に対し、深く感謝を捧げたいと思ふのであります。
女子教育家に三十年、五十年の人は必ずしもないことはございませぬが、甚だ少数であ ります。而してその間常に女子教育会をリードし、革新して行かれた方は洵に嘉悦先生の 外一に、二名を数へるしかないと思ふのであります。又その理由は女子教育明治八年に始 つて今日までまだ六十年を出てないと云ふことで最も能くこれを証明して居ると思ふので ありますが、その女子教育に先生が全く新生面を開かれたと云ふこと、この解釈に聊か私 は見方を諸先生と異にして居りますので、これから暫時御清聴を煩はして、その意味から 先生に感謝し、先生を祝福致したいと思ふのであります。
私が先生の塾生を教へたことがありますが、それは明治三十四年であつたのであります。 その時に塾生を通して先生の風貌を想像して見ますと、実に情味豊かな、人間味の豊富な、 今の言葉で言へば、本当に母性愛に富んだ、御母さんらしい先生であると云ふことを悟つ たのであります。然るに間もなく先生が女子商業を建てられた、斯う聞いた時に不思議な 感じを有ちました。又その後に先生が女性に与へる教訓として、“女よ怒るな働け”斯様な 教訓を与へられたと聞いた時にこれ又不思議だと思つたのであります。男は働かねばなら ぬ、女は泣かねばならぬと云ふ句があります。(笑声)であるから女性訓としたならば、“女 よ泣くな働け”と何故言はれなかつたかと思つたのであります。?に於て又私は嘉悦先生 が私の想像したる人格と、先生の主張されて居る主義、政権と云ふものが甚だ調和して居 らぬことに気が付いたのであります。その後これは少しく時が経つて居りますが、先生が 養禽会社を御建てになり、さうして先生は大概なことでは成功されたが、養禽会社では大 いに失敗されたと云ふ御話である。ところがこれらをずつと合せて考へても少しもそれは 不思議でない。嘉悦先生は元来人間味の多い、情味の豊かな宗教の教育を受けられた、武 士道的教養を積まれた方である。その方が商業教育を始めると云ふことが一つの奇蹟であ り、又女よ怒るな働けと言はれたのが不思議である。而して商業を専門に主張されて居る 先生が、養禽会社を建てられて失敗すると云ふことがこれ又不思議である。ところがその 後段々先生に直接御交際と願つて、私は他所ながら先生を研究して見たのでありますが、 ?に於てかはつきり分かつたのであります。他の例を取りますと、キリストは愛を説いて居 りますが、彼自身は非常な強烈な意志の鞏固な所有者であります。ソクラテスは智恵を説い て居りますが、彼自身は非常に強烈な意志の所有者であります。或いは又釈尊は智恵を盛ん に説いて居りますが、実に温和なる、柔和な人格者である。その説と云ふものは単にその 人の言葉を通してのみ見て、その人を判断することは出来ないので、その人の説とその人格 と合はせて、?に初めて本当にその人が分ると思ふのであります。嘉悦先生は本当に如何に も人間味豊かな、人間らしい、さうしてそれが女性であれば母性らしい。私は嘗て嘉悦先 生と一緒に“嫁と姑”と云ふ放送を致したことがあります。沢山な婦人と一緒に致したの でありましたが、その反響を聞いた時に、嘉悦先生と云ふ方は如何にも御母さんらしい、本 当におばさんのやうな気持ちの好い方であると云ふことが分つたと云つて私の所へ地方か ら書いて来たものがあつたので能く分つて居るのであります。だから人間として嘉悦先生 は非常な母性愛に富まれた好いおばさんであり、御母さんである。併しながら先生は商業学 校を建てられ、女よ怒るな働けと言はれて居るのはどう云ふ訳であるか、斯う考へた時に 先生は矢張り普通の女子教育家である。決して賢母良妻主義に反対して居り、或は賢母良妻 主義に反対して居り、或は賢母良妻主義を等閑視した所の方ではない。その人格は正しく 逸れを高調して居る人であるが、但し日本の現状に於ては婦人の経済的生活を高調しなけ れば成立たない、本当の女性としての人格が完成しない、こう考へられたので経済生活を通 して女子教育を主張された。経済生活の最も弱点を指摘されて、女子教育を主張された方 と私は承知致して居るのであります。福沢先生が慶応大学を創立され、非常に経済・商業 といふことを高調されましたけれども、慶応大学は決して商業大学でもなければ経済大学 でもないと同じであると思ふのであります。斯様に考へて見ました時に、先生が養禽会社 で失敗されたのは当然である。その過ちを見てその仁を知ると云ふので、先生には実は人 間としてはふさはしくない、唯先生の社会観察が、女性の生活観察が非常に不安を告げて 居る、この女性の欠点を唯指摘されたと云ふに過ぎないのだと私は思ふのであります。随 て教壇五十周年は先生が女子商業教育を主張されたその点に功労があるのではなく、商業 教育の必要を女子教育に入れて下さつた。斯う云ふ風に私は考へて、而して女子商業教育 者として、その先覚者として吾々は全国の校長を代表して感謝するのではなくして、本当 の意味に於て、人格全体としてさうしてその鋭い目で女子の経済生活に注意をされた方と して非常にその炯眼に感謝を致して本日の祝賀を祝賀致し、又これに向つて厚い感謝を捧 げたいと思ふのであります。斯様に先生を単に先生の言葉或は先生の事業を通して見た時 に、先生の全体ではない、先生を如実に眼の前に髣髴せしめて、而して先生の本当の教育 者としての価値が現はれるのであると思ふ。そこで私は先生の女よ怒るな働けと言はれる のは女性訓ではなくして、女子の経済訓である、女性訓ならば泣くな働けと言はれた筈で あるのに、ヒステリーを起すな働けと言はれた筈であるのに、怒るな働けと言はれたのは、 それは唯経済訓に過ぎない、女性訓ではないんだと自分で解釈致しまして、今回この祝賀 会に依りまして、改めて嘉悦先生の人格と云ふものが、吾々の面前に新しく現はれて見え たのであります。さうしてこの事業を再び検討して、先生に対して十分に感謝すると同時 に、再び第二の嘉悦先生第三の嘉悦先生が現はれるならば、この嘉悦先生を正しく解釈し て、第二、第三の人が出なければならぬと云ふことを希望致しまして、全国の女学校長を 代表して御祝ひを申上げ、又感謝を捧げる次第であります。」(拍手)
市川先生のあと、
府下商業学校連合会当番幹事 斉藤富太郎氏、門下生を代表して福島貞子さんが祝辞を述 べられ、
熊本県教育会長 赤星典太
跡見女学校長 跡見李子
熊 本 高木第四郎
高木 亮
の諸氏から祝電が寄せられ、
大阪の田崎仁義博士からの
国のため君のみために日の本の
をみなの道をときていそとせ
君が教へいやひろごりて子等孫等
まどひのむしろ光みちたり
高嶋米峰先生の
五十年の教への道につくし来し
君がいさをのたふときぞかも
という祝歌が披露された。
こうして、数々の祝辞や祝電・祝歌の披露が終って、孝の長い生涯において最高・最大 の盛典であり、栄誉であるこの祝典に対して、文字通り身体一ぱいに感激と喜びを見せて、 孝は御礼の言葉を述べるのであった。
挨 拶
嘉 悦 孝
御礼の言葉が何処かへ飛んで行つてしまひました。先刻から余り御祝辞戴きますし、殊 に徳富さんなんて上げたり下げたりして仰しやつて下さつたので、それから又伺つて居り ますと、はてな、私は偉い人間かしら、偉くなつたのかしら、何だか分らないやうな気が しまして、御礼の言葉が何処かへ行つてしまひましてのでございますけれども、まあ兎に 角御礼は御礼、心からの御礼を皆さんに対しまして申上げます次第でございます。それは 今の御祝辞は抜きにして忘れまして、私は私を考へて居ります。斯う云ふ祝賀会を開いて 戴く程のことを致して居るのかしら、それを頻と考へて居る。実は教壇五十年記念事業と 云ふ御話がございました時にも、事業は斯う云ふ時でございますから、もう少し日延べを 致しませう、五十五年、六十年まで日延べを致しませう。さう申したのを、徳富さんが、 いや日延べをするには及ばない、これは何かやつて上げても宜い時だから、教壇五十年の 記念の御仕事をしませうよ、と仰しやつて下さいまして、まあそれでは宜しく願ひますと 申上げまして、何かさう云ふものが出来ましたのでございまして、今度皆さん方非常に私 に御厚意と申上げまして宜しうございますか、この教壇五十年の祝賀会をと仰しやつて下 さいました時も、私は考へまして、私にさうして戴くだけのことをまだして居ないやうで ある。それから又、余り祝賀などして戴くと折角私が働きましたことがなくなつてしまつ て、御釣りを出さなければならないやうになつて来るので、どうぞもうしばらくなさらな いで置いて戴きたいと云ふことを申上げましたけれども、まあ教壇五十周年はと仰しやつ て、この御催を戴きました。御催し戴きますと、本当に望外の皆様方の御援助があり、御 厚志が現はれまして、何時も御相談会にも卒業生など出まして、初めから終いまで皆さん が本当に一生懸命先生のことを御思ひ下さつて、この会を開いて戴くので、嬉しくてなら ないので参りましたと云ふやうな報告も受けます次第で、それはさう遊ばし戴くだけで結 構であつて、さて愈々斯う云ふことになつて見ると、私何をして居つたのかとさう思ひま して、さつきから徳富さんの言はれることを聞きますと、何か先祖が偉かつた、親が偉か つたと云ふことで、さうして見ると、もう少し偉いことをして置かなければならなかつた のぢやないかしらと思ひますし、自分を顧みまして、殆ど何が偉かつたのか、偉くないぞ、 もつと働けと仰つしやつて戴くのが丁度私に当りはしないかしらと思つて居りますやうな 次第でございますので、斯うして皆様方から御祝い戴きました以上は、私に何か良いこと が少しあるだらうと思つて二、三日考へましたのでございます。私に何が今日斯う皆さん 方から御褒美を戴くやうなことになつたのであらうかしら、本当に有難いのでございまし て、斯う云ふ銅像を戴き、又何か目録を戴きましてこと昨日は己東伏見宮様から態々御使 でございまして、大変に結構な頂戴物など致しました次第でございまして、益々恐縮致し まして、私はそれを考へます時に、これは若し皆さんに御褒めを戴くならば、さつき徳富 さんが一寸仰しやつた言葉の中にあつたやうでございますが、好い言葉で褒めて戴きます ならば、私が今日までどうやら此処まで参りましたのは意志の力、意志に活きたとでも仰 しやつて戴いて御褒めして戴く、これは俗な言葉で申すならば強情張りであつた、頑張り やであつたと云ふ言葉でございますが、まあ上品に意志に活きてきたと褒めて戴きたい、 さう思ひますが、それ位のことであらうと思ひますので、考へて見ますと、私は先程もど なたか仰しやいましたやうに、負嫌いでございましたので、さつき徳富さんの仰しやいま したやうに、何かやり出したらどうしてもやり遂げなければ気が済まないと云ふやうな性 格を有つて居りまして、もう火の中でも矢の中でも善いと思つたら何処までもやり遂げる まではやつて見ようと云ふやうなことが、確かに今日まで五十年、それで貫いて居るかの やうに私は思ふのでございまして、実は宮田先生も居らしやつて居りましたと思ひますが、 私が商業高校を始めました時に、生徒はたつた十一人切りないと云ふやうな有様でござい ました。時に、宮田先生が名前が良くないぢやありませぬか、嘉悦高等女学校と云ふと、 そんなに骨も折れないで人が来るのに、女子商業などと云ふ名前を付けるからいけないと 仰しやつてくださつたことがあります。私は成程さうだと思つたけれども、商業と云ふ名 を付けてやり出した以上は、どうしてもこれでやり通してしまおう、自分が是と思つたこ とであるならば、必ずやり遂げられるものだと云ふ自信を深く有つえ今日まで参りました。 それが私を五十年間斯うして引張つて参つたのでございます。先程市川先生などから大変 に良く私を御理解下さつて、私は其処までも考へて居なかつたのでございまして、大変私 は悧口になつたやうな気が致します。皆さんから色々な言葉を戴きまして、成程さうだつ たかしら、さう考へて戴くと、さうなるものであるなと思ひました位で、もう何も致して 居りませぬが、私は自分の自信に活きるとか意気に活きるとか云ふ言葉で仰しやつて戴け ば、さう仰しやつて戴いて宜しいかと思ひますが、兎に角自分の信ずる所を今まで致しま したが、又それを考へます時に、それは確かに親の御蔭でございまして、私がさう云ふこ とを申してどんな所にでも突進んで行かれる私の健康な身体を拵へて貰ひましたのは、確 かに親の御蔭でございまして、私はこの今日の皆さん方の御厚志を受けますにつけまして も、親の御蔭である。私の父が愛国者だとか、何とかと云ふ方面で、唯国家の為、国家の 為と申して参りましたが、所謂余光を得ましたので、父は殆ど晩年まで貧乏生活で参りま したけれども、父の残しました徳を再び受けまして、今日ある次第だと思ひます。又さつ き徳富さんが横井小楠先生と仰しやいました。父を思ひます時に、もう少しその上まで遡 りまして、これは横井小楠先生の御余光であるだらうと思ひます。小楠木先生の御余光と 申しますのは、徳富さんの御父様と私の父などと云ふやうな仲間がございまして、皆まる で兄弟のやうな御間柄で私共子供心に覚へて居ります。私の父が一寸悪いと申しますと、 その仲間のお医者さんが飛んで居らつしやいまして、もうびつくりして、その御医者は脈 が取れないと云ふので、これを殺したらどうするかと思ひなさる、本当にまるで兄弟と云 ふやうな御生活でございまして、従ひましてその家族もまるで親類と云ふやうな御交際で ございました為に、もう色々な方に私も確に御男子方に御援助を受けて居りまして、これ も徳富さんが仰しやいましたけれども、その中には小楠門下の方々のその御子孫の方々の 御援助もございます。今日でも又徳富さんから斯うして戴く、これも小楠門下の御一人で ございますし、そちらでも、こちらでも、沢山の皆さんから御援助戴きましたけれども、 その中から戴いて居ることは迚ても多いと云ふことを申上げられると思います。私は今日 の皆さん方の御礼に何をしたら宜しからう、今迄働いたのはこれで以て棒引になつてしま つたと云ふ風に思ひますし、棒引よりも却つて私は御釣を上げなければならなくなつたや うに存じますから、これ以上は、私の余生を益々女子教育に精進致しまして、それを以て 今日の御礼と致すより外はないだらうと思ひます。その時に考へますのが、只今申しまし た所謂小楠門下の同門愛と申しませうか、全く親子兄弟と云ふやうな関係が、その子孫ま でも斯う云ふ風な御恩恵を蒙るものであると云ふことを今日愈々痛感致しましたので、こ れから私の教育は、今までの教育にその同門愛、お互に友達内で助け合ひ、又手を引き合 ひ、さうして全く兄弟親類交際で世の中に御奉公申して行くやうな精神を、子供達これか らの若い御子さん方に捧げますと云ふことを、一に於ては日本の国家の御繁栄、国家に忠 勤を尽すことの出来るやうな人が出来るやうになるだらうと思ひますから、私は唯今日の 皆さんに御礼を申す言葉がございませぬ。余りに過分過ぎますので、その御礼に対しまし て、これから先、私が益々そちらに精進致しまして、御覧の通り、どうやら身体はもう少 し働けさうでございますから、粉骨砕身、私の命の限りこの教育事業に尽しまして、今日 の皆さん方の御厚志に酬いたいと思つて居る次第でございます。又卒業生の方々は今福島 さんもさう仰しやつて居らつしやいましたやうに本当に私は仕合せでございます。本当に 御苦労様と仰しやつて戴いて、苦労も少々ございましたけれども、全く苦労は消えてしま ひまして、今は何と云ふ私は仕合せ者であらうと云ふことで、もう私の心は一ぱいでござ います。どうぞ一緒に茲で御喜び戴きたいと云ふことを卒業生の方々に申上げますのでご ざいますし、又皆さんに対して重ねて私は深く御礼を申上げまして、この壇を去らして戴 きます。(拍手)
この式典は、孝の一生における最大の盛典であっただけでなく、色々な意味において忘 れることのできない想い出の日であった。
孝には三十年・四十年の式典もなかったけれど、ついに六十年の式典もなかったのであ る。
それゆえに、彼女にとってこの式典は最初にして最後、一生一度の思い出深い盛典であ った。
また、民間教育者の個人の記念会としては、絶後ではないとしても、女流教育者として はとくに希少なものであった。
この夜、会場を麹町宝亭に移し、吉岡弥生委員長主催による祝賀晩餐会が、孝や嘉悦一 族をはじめニ百人近い来会者を数えて盛大に催された。
実行委員長吉岡弥生、医学博士竹内茂代、棚橋源太郎の諸氏のご挨拶があり、ついで、 文部省をはじめ官界において活躍され、区長などもされた同郷の宮川宗徳氏が立たれた。
宮 川 宗 徳 私は御氏名を受けました宮川でございます。この会が今日に至りますに付きまして最初 に言ひ出したのは実は私でございます。既に御馳走も頂戴致しましたので、漸つとこれで 責任が遁れたかと考へて居つた矢先に、何か喋れといふことの御指名戴きまして、甚だ恐 縮に存ずる次第でございます。私と嘉悦先生とは同郷の先輩であるといふ以外に実は何等 の恩怨もないのでございます。唯古くから嘉悦先生のお父さまの御事績等はいろいろ承つ て居たのであります。尚ほ学生時代に嘉悦先生が南極探検の白瀬中尉を応援されたことを 記憶致して居ります。近頃は警察官の後援といふことを主唱されて、警察官家庭後援婦人 会といつたやうなものを作られたり、又先程御話の「花の日会」であるとか、或は養禽会 社の話であるとか、斯ういふことも段々承つて、洵に多方面に殆んど己を没却して、時あ つては人の損得も没却して(笑声)おやりになる方だと少からず敬服して居つたのであり ます。私は色々考へますと、嘉悦先生とはお話をして居ると先生は何時も強情で話が合は ない、どういふ訳か知らぬと考へさせられて居りました所、本日徳富先生の御演説に依り まして、成程自分と嘉悦先生との関係は斯うなんだといふことをはつきり自覚したのでご ざいます。と申しますのは、嘉悦先生は御婦人の方の先達となつて色々社会的の御事業も 遊ばしますが、男を使い廻すことも中々巧みだ。成程その虜の一人になつたんだなといふ ことが実は今日よく判つあのであります。併し考へて見ますと、私は使はれたんではない。 こつちから行つて働いてやつたんだ、その点が少し徳富先生と違ふ。想ひ起しますが、私 は曽て文部省に在職して居ました際に、嘉悦先生の学校が土手三番町にありまして、まだ 中等学校の資格がなつた。名称は女子商業学校と申して居りましたけれども、実業学校令 にも拠らず、又高等女学校令にも拠つていない時代に、私はこのことを文部省でなんかの 機会に承知しましたので、実は進んで嘉悦先生に高等叙女学校と同等の学校になたら宜か らう。斯ういふことを態々申込んで行つて、御世話申上げ、今日の商業学校といふ資格の 学校になつたことを記憶致して居ります。私の友人の、今日は御見えになりませぬが、今 回大蔵政務次官になられました木村正義君、これも実業学務局長をして居らるる際に高等 商業をお作りになつたが宜からうといふことを言ひ出て、結局は使ひ廻された。それが今 日の高等商業になつて居ります。その後女子商業学校―只今は軍医学校跡になつて居りま すが、土手三番町にありました頃に、何とかして拡張したいといふ御話を承りました際、 まづ財政を根本的に整理され鉄筋コンクリートの学校を彼処へ建てられたら宜からうと言 ひ出したのも、実は私もその一人であります。そして先生の了解の下に色々図面まで作つ て見たのでありましたが、結局のところどうも遠方へ行くのは嫌になつたから只今の軍医 学校の跡に建てたいと云はれるので、土地を買ふお金がありますかと申しましたら、借金 は相当あるがお金はない。然し何とかしてあれを手に入れたいと言ふお話。丁度上塚司君 が当時大蔵参与官をして居りましたし、又此処に千葉の合同銀行の頭取もお見えになつて 居りますが、結局男たちが使はれて、いや、政府も先生の為に働いて只今の敷地が遂に女 子商業学校の敷地となる事になつたのであります。私は当時、学校の借金はどうなるか相 当心配して居りましたが、段々承りますと、政府に支払ふべき金も殆ど御支払になつて、 唯今は段々寄附もお集まりになつて校舎も六、七分通り出来上つた。まだ少し足らぬやう でありますから、今度は金集めに誰が使はれるのかと私は案じて居りますが結局は誰か又 出て来てお使をするのだといふことを考へます時、先生に関する限り不安はないやうに思 はれます。本日教壇満五十周年を迎へられまして、あの波の如き各方面の人々を共立講堂 に御集めになり非常な盛会裡に祝賀会が行はれましたことは、お心臓のお強いだけではな い御徳望の然らしめる所であります。
つきましては先刻来お話のあつた養禽会社の方とか或は借金の方など御心配なく、多々 益々拡張の方へ、或は社会事業、或は御婦人の御指導、時あつては吾々男の方の御指導も お願ひしまして、更に六十年の祝賀会、或は七十年の祝賀会、さては御齢百歳の祝をする会 に私共も出まして、又委員長さんから御馳走になることを期待して已まないのであります。 一言申上げまして私の責を塞いだ次第であります。有難うございました。(拍手)
岩 崎 ナ ヲ
私岩崎でございますけれども、先生の御友達なんて仰しやつて戴きますと、先生の御名誉 にも関係致します次第でございます。只一介の産婆でございます。先生の御親戚の皆様に 対しまして御用を致しますとふだけのことでございまして、只今の皆様の御話の『花の日 会』に多少の御手伝を致しました外には、何の御役も致しませぬ不調法者でございますので ありまして、本当に今日御盛会の所へ参らせて戴きまして、皆様の御立派な御話を承りま して、本当に嬉しく、唯年寄の涙ばかり出ましたのでございます。御喜びを申上げますこ とも存じませぬやうな不調法者でございますが、もう本当に皆様の仰せられますやうに百 歳までも御寿命を御延し遊ばしまして、出来る限り国の為に御尽し戴きたいということを 切に御祈り申上げまして、これで失礼させて戴きます。(拍手)
数々の和やかなご祝辞のつづいたあと、孝は喜びにふるえる心を押えながら、静かに謝 辞を述べた。
「先刻と同じやうに愈々以て御礼の言葉がなくなつてしまひましたのでございます。
もう何から何まで至れり尽せりいろいろと好い事を仰しやつて下さつて、お蔭様で私大 変に考へなくちやならない。又将来の為に大いに自信を御与へ戴いたやうなこともござい まして、御馳走以上に、又今日の式以上に、こちらに出まして沢山のものを戴いて帰りま すことを皆さんに厚く御礼を申上げます。殊に皆さんがこんなに長い時間、私の為に御尽 し戴きましたことは、私の終生忘れない所でございます。
又吉岡先生などは洵に良い事を仰しやつて下さいまして、私が始終苦になつて苦になつ て耐らない養禽会社の結末までも今日おつけ戴きましたのでございまして、実はこの事は 始終忘れないことでございまして、これは一生掛つても出来ないことでございますけれど も、若し私に天がお金を与へて下さつたら、私は一番先に養禽会社の皆さんに御損害を掛 けて居るのを御支払したいと始終思つて居ります。さう思つて死んで行くだらうと思ひま すけれども、吉岡先生がなにして下さいましたから、大変に気が軽くなつたやうな訳で、 お陰でこれからは学校を一生懸命やりさへすれば宜いやうにして下さいました。さうする と、今日は私に唯五十年を御祝ひ戴いたばかりでなく、私の先の先まで働けるやうにして 戴きましたことを感謝に堪へないのでございますし、又ああしろ、斯うしろなど仰しやつ て下さいました方がございましたけれども、これは兎に角何と言つても七十四でございま すし、丈夫だと思ひましても中々お若い方のやうには働けませぬし、今もこちらで伺つて 居りますと、年を取つたから朝起するなと仰しやるのですが、これも大変結構なことで、 どうしても私は五時半に目が覚めますが、この頃は少しお寒うございますからもう少し寝 て居るがいい、七時位までは寝る方が宜いといふやうなことも教へて戴きましたし、さう すればもう一寸長生きするかも知れないと思ひますから、お陰で今日のこの悦びに依つて 又若返りまして御奉公出来るだらうと思ひます。ですから重ね重ね今日は私には大変に結 構なものばかり戴いて帰りますことを皆さんに厚く御礼を申し上げます。有難うございま した。(拍手)
孝の生涯における輝ける日は、多くの方々の暖い祝福をうけて幕を閉じた。
だが、国際情勢は日一日と悪化して行った。
支那事変は長期戦の泥沼に落入り、蒋介石国民政府は、南京を退去して重慶落ちを余儀 なくされたとは言うものの、日本軍もまた悪戦・苦闘の連続であり、広い支那大陸にあっ て日本軍の維持する地域は点とでもいうべきもので、その点と点の領域地域間を結ぶ線は、 つねに切断と連続の繰り返しで、不安定そのものであった。
前年の十四年、第一次近衛内閣を継いだ平沼内閣は、ヨーロッパの情勢に戸惑い“欧州 情勢複雑怪奇”と声明して総辞職し、阿部信之内閣が生まれた。
この年九月、ドイツはヒットラーのナチス政権によって、欧州新秩序の樹立を旗印に先 ずポーランド進攻を開始し、第二次世界大戦の口火を切って落した。
これは、英・米・仏による国際政治のイニシアチブを、独・伊を中心とする枢軸体制に 変更させることを目的としたものであって、やがて日本もこれに加盟して、のちに昭和十 八年十二月八日大東亜戦争(米国側の戦争呼称は、アメリカの太平洋制圧による国際政治 の主導権の確保を目的とする戦争であるから“太平洋戦争”で当然であろうが、日本の場 合はアジアを植民地状態から脱却させて、真のアジア諸国独立を目的としたものであるか ら、パシフィック・ウァーと呼ぶのは間違いで、“大東亜戦争”と呼ぶことが正しい。林房 雄先生は、その著『大東亜戦争肯定論』において、この真理を適確に論証しておられる) に突入したのである。
まさに、独・伊両国は第一次世界大戦で失った領土や植民地の恠復がその戦争目的であ ったが、日本はあくまでも西欧諸国のアジア植民地政策に対応し、長い間西欧列強諸国の 植民地として苦渋をなめつづけてきたアジア諸国の独立を果たさせるための、これはアジ ア諸国をふくめた日本の自衛戦争であった。
日本は、人類として最初の悲惨な体験である非戦闘員(一般国民老人婦女子)に対する 二つの(広島・長崎)原子爆弾の洗礼を受けた。なおその上にソ連は、昭和十六年に締結 された“日ソ中立条約”を一方的に破棄して突如満州に侵攻し、これは侵入と同時に宣戦 布告というまったく卑劣な不意打ちで、それも単なる軍事的攻撃だけではなく在満の一般 日本人非戦員(それも老人・子供・婦人にいたるまで)に筆舌につくされない非人道的行 為(掠奪・暴行・強制労働などありとあらゆる非行)を行なったことを忘れてはならない。 自衛のための正義の戦いも、ある時点のみをとらえて見たならば、悲劇的である場合も ある。
だが、歴史をある一点だけでとらえて考えることは、正しい歴史観を失う。
歴史は非連続の連続であり、公正な史観をもって長期の展望が必要である。
人間の歴史もまた同様であり、嘉悦孝の一生もまた棺をおおって始めて定るのである。