第二十二章 敗れたる祖国と共に

孝にとって輝ける年であった昭和十五年の暮、筆者は戦病を得て現役を免除され、傷痍軍 人として金沢陸軍病院から帰還した。

 この年、陸海軍の支持を失った阿部内閣に代って米内光政内閣が誕生したが、米内内閣 打倒を目差す陸軍首脳部の意向にそって畑陸軍大臣が単独辞職をし、これによって内閣は 第二次近衛内閣となった。阿部・米内の二代にわたる武人内閣に代った文人内閣ではあっ たが、中国を支援する米・英両国は日本に対する経済封鎖を強め、日本はいよいよ独・伊 枢軸側に接近せざるをえなくなり、九月二十七日、日独伊三国協定に調印し、英米に対す る対抗の姿勢を強めて行った。

 昭和十六年に入って、四月には“日ソ中立条約”を締結、つづいて野村吉三郎駐米大使 とハル国務長官による日米交渉が始まったが進展を見せず、七月には在米日本資産の凍結、 ついで英国・蘭印も資産凍結を行い、日蘭民間石油協定を停止。八月アメリカは日本に対 する石油輸出を全面的に禁止して、ますます対日経済封鎖を強めてきた。

 石油を産出しない日本にとって、この措置は真綿で首を締められるどころではなく、短 刀を突きつけられたも同然であった。

 それでもなお、今上陛下も近衛首相も中国との和解を希望し、陸海軍の説得に努力した が及ばず、十月第三次近衛内閣に代って、現役軍人東条英機内閣が誕生した。もう日本は 英米と一戦を交える他なかった。

 手を拱いていれば餓死しかない。

 武人の意地とか、軍人の強がり、軍国主義やファシズムというものでもない。(東条首相 といえども個人独裁ではなく、政党は解消していたが一党独裁でもなかったのであるから、 けっしてファシズムではなかった)

 植民地化・奴隷化に対する、日本民族必死の抵抗であり、決死の覚悟による自衛であっ た。

 今にして思えば、日本民族の宿命であったと言う他ないであろう。

 戦後、東条大将を戦争好きの野心家のように誦する近視眼者流文化人もあるが、東条大 将を含めて当時の陸海軍人や戦争遂行に参与した人々を非難することは正しくない。

 日本民族すべてが、その時点にあっては、“愛国者”であり、護国の魂を堅持した人々で あったと解するのが正しい日本人観である。

 嘉悦孝もまたその一人であった。

 昭和十六年十二月八日、一年生の級担任であった筆者は、校長嘉悦孝や千人に近い生徒 と共に、校庭で“開戦の御詔勅”を拝した。

 だが、この年、この月の三十日、思いがけない事故が孝を待ち受けていた。

 その日は、お正月にそなえての大掃除の日であった。

 早朝から孝は、家人や帰郷しない寄宿生の先頭に立って、七十五歳の年令を感じさせず に帚をもち叩きをもって立働いていた。

 千駄ヶ谷の孝の居宅兼寄宿舎の一隅に孝の居間と仏間・寝室があり、その居間の床の間 の後が地下室の階段で、孝は叩で床の間うらから障子に叩をかけようとして足を踏みすべ らせ、二間ほどの階段下に転落し頭を強打して意識不明に陥ったのである。

 何事も人委せにしないで、率先して仕事をする孝の積極性が招いた事故ではあったが、 七十五歳の肉体にとっては大きすぎる事故であった。

 一週間近く、意識不明の昏睡状態が続いた。意識の回復が無ければ、たとえ生命はとり 止めたとしても廃人である。

 昭和十七年のお正月は、戦果こそ“真珠湾攻撃”“マレー沖海戦”についで、一月二日に はマニラ占領などと華々しかったが、嘉悦家にとっては明るいものではなかった。

 しかし、やっと一週間目ぐらいに昏睡から醒めて、すこしずつ食欲も出て、側で看護っ ている吾々を安心させたが、打撲の個所が脳であったので意識に混濁があり、記憶の快復 は遅々としていた。例えば筆者の顔をみて“アア、康人さんかい”と言っても、弟の顔は 見忘れていて“貴女さんはどなただったかね”などと聞いたりする。

 それでも、熱海に転地療養したりして、約半年程の静養で、幸いにもこれらの症状も無 くなり、周囲の者は安堵の胸を撫で下ろした。

 こうして、十七年の秋頃からはボツボツと学校へも出校できるようになり、孝は嘉悦孝 たる能力を失わずに社会復帰をすることができたが、何といっても七十五歳の肉体が受け たこの事故は大きく、かつての老いを知らぬかと思われた孝の心身にも衰えが目立ち始め たことは否定できないことであった。

 大きな使命を果した嘉悦孝という一個の魂が、七十五年間の酷使を経てやっと安息の 日々を迎えられる時機が当来し、休養と報酬を受ける生活に落着くことができる状態にな った。だが、孝個人についてはそうであっても、社会的には孝といえどもそれが許されな い時代であった。

 日本国民の誰もが、今上陛下をはじめとして誰一人として休養も安息も許されない時節 であった。

 あるいは、最後の最後まで、苦闘の十字架を背負うことが、先覚者としての孝の宿命で あったのかもしれない。

“ガソリンの一滴は血の一滴”の標語は、戦争遂行のために国民の協力を求め、老体かつ 病後の孝といえども学校の往復に自動車を使うことが許されなくなった。

 しかし孝は、いよいよ平然として、この酬い少い老後の社会的環境に堪え、例の“お漬 物さえあれば”の本領を発揮して、「からだの動くかぎりは学校に行って、生徒たちの顔を 見なければ、ご苦労の多い天皇陛下に対し申訳が立たない。車が使えないのならば歩いて 行けるところへ引越そう」

 こうして孝は、永年住み馴れた千駄ヶ谷から、私達夫婦と長男克をつれて学校に程近い 富士見町の細川家からの借家(現在の逓信病院新病院の地)に移り住んだ。

 千駄ヶ谷の家は、祖父氏房終焉の旧宅に続いて建てられており、これは戦前に卒業生そ の他の方々の厚意で建増しされたもので、孝はこれを彼女の生涯の努力に報いられた唯一 の物質的恩恵として、こよなくいとおしんで起居していたものである。この愛着限りない 家から出て、富士見町の仮ずまいに入ることは、七十五歳の嘉悦孝の“最後の御奉公”の 姿であったと言える。

 筆者はそれから一年有余、孝や妻子とこの仮ずまいに起居し、孝の手をとって坂を上り、 学校へ通ったのであるが、十八年十二月六日、応召されて仏印(現在のベトナム)に出征 した。そして同月二十八日、長女夕起が生れたが、その報をうけたのは中部仏印のツーラ ン(現在のダナン)であった。

 昭和十九年、米軍はその優勢な航空機と物量に物を言わせて反撃に転じ、戦局は日一日 と不利になって行った。

 六月、マリアナ沖海戦において我が海軍は、航空母艦・飛行機の大半を失った。

 七月、東条内閣が総辞職して、小磯国昭陸軍大将・米内光政海軍大将に組閣の大命が下 り、小磯・米内内閣が成立した。

 九月、孝がご懇意に願っていた駐ソ大使佐藤尚武氏がモロトフ外相に和戦の仲介を依頼 するために特使派遣の提案をされたが、拒否された。(戦後、筆者は盲老人ホーム聖明園の 理事におされ、理事長の佐藤氏に度々面接の機を得たが、これが実行されたら或は局面の 打開ができたかもしれなかったと、幾度か述懐された)

 十月、レイテ沖海戦で、日本連合艦隊はその主力の大半を失い、九州ついで十一月には B29約七十機による東京初爆撃が行なわれた。

 昭和二十年、生徒たちは授業を中止して、安達電機・安藤機器などの諸会社に勤労動員 されて、学校本来の機能は中断され、東京空襲はいよいよその激しさを増し、孝の老体を 押しての登校も無意味となったので、富士見町の仮ずまいから千駄ヶ谷へ戻ることになっ た。

 周囲の者も何となくホッとしたが、激化する空襲の危険を考えて、孝に疎開をされては 同か、老幼婦女子の疎開は奨励されていることではあるし、七十九年間社会に尽してきた 孝であり、恩師孝の身を按じている幾万の子弟を安心させるためにも、と勧めても、

「天皇陛下が疎開もなさらずに、東京でご苦労あそばして居られるのに、陛下よりお先に 疎開などとんでもない。そんな恐れ多いことがどぎゃんしてできったい、死ぬならばお膝 元で死によらす」

 と、どうしても疎開しなかった。

 これをナンセンスと笑う人もあるだろう。しかし。これこそが、慶応・明治・大正・昭 和の四代を行きぬいてきた七十九歳の孝の真骨頂と言わなければならない。

 孝にとって、天皇陛下は日本民族の尊崇の中心であり、日本民族の魂の中核であった。

 戦後、「天皇陛下バンザイ、と言って死んだ兵隊など一人もいない」などという嘘が横行 した。“天皇陛下バンザイ”ではなく、“お母さん”と呼んだ兵隊もあるいはあったかもし れない。だが、筆者は間違いなく“天皇陛下バンザイ”と言って死のうと覚悟していた。 幸か不幸か、戦場で死ななかったので発言の機会は無かったが、筆者はこれを皇国教育に よるものとも考えていない。筆者の深層意識にあるコア・パアソナリティ(中核性格)に よるものと考えている。

 孝にしても同様なのである。

“天皇陛下より先には疎開しない”“死ぬなら陛下のお膝元とで死ぬ”これは孝の本音であ る。そしてこの心を持てる人間の方が、日本人としては幸福なのである。

 これに励まされただけではなく、もともと使命感の強い方々であったからではあるが、 学園当事者の人々も懸命に頑張った。高商部長平岡市三先生も女子商部長内海幸作先生も、 もう殆ど授業が無くなり、生徒もいない校舎に寝泊りし、校舎を守り通されたのであった。 とくに内海先生は焼夷弾による火災が発生するや、身を挺して消火に当られ、その眉宇を 火傷してまで頑張られた。

 四月、米軍沖縄本当に上陸。小磯内閣は総辞職し、大命は鈴木貫太郎大将に下り、迫水 久常先生は内閣書記官長(現在の官房長官)になられた。

 こうした中で、千駄ヶ谷の家が焼かれたのは、三度の大空襲の最後の一回、五月下旬の 一夜であった。

 ここまではまさか、と考えていた山の手住民の祈りも空しく、中野・世田谷の諸所まで 戦火の犠牲となった夜である。代々木から千駄ヶ谷にかけて、焼け残った所は僅かであっ た。

 その夜、孝の身辺にいたのは、ほんの二、三人にすぎなかった。近所の家々から防火に 狂奔する叫びが次第に騒がしく高まっていて、四周を包んで焼きはらおうとする焔が、目 に見えなくても身近に感じられるようになって来たのは、午後九時過ぎだった。

「もういけませんです。私がおんぶしてお供いたしますから、早く」

 永年身の周りに仕えて、孝から“おムラさん”と呼ばれ気に入られていた奄美大島出身 の錦織むらが、しっかり者らしい顔うぃ緊張で固くして、孝にそう言った。

「そう。みんな、道具は惜みなさるな。非常の場合には、それが一番いけない」

 二十年前の関東大震災での体験を想い出してでもいるのであろう、孝は周囲に集まって きた側近や寮生にそう諭した。それは四十年の昔から、寮生活をする若い教え子たちに女 性の作法をたしなめてきた、同じ声音だった。家人はその諭し通り、わずかに、記念とし てどうしても後に残したい意義ある品だけを、風呂敷に取りまとめ、寝具代りの毛布ニ、 三枚をかかえて、気軽に戸外に降り立った。龍人の妻の数子は、孝が防空頭巾をしていな いのを見て自分の頭巾を孝の頭にかぶせて、自分は座布団を取って頭巾代りに頭に結えた。 むらの背に負われた孝の身体は、帯でしっかりとくくりつけられた。

 かねて話し合ってあった通り、淀橋浄水場の地下室を目差して、迷わずにむらは走り出 した。右からも左からも、容赦なく照りつけてくる焔の明りが、孝の身体の重味と相まっ て頑健この上ないむらではあったが、村の心臓を高鳴らせた。何か左の肩に、孝の手以外 の固い物が当る様な感触に気がついて、むらがちょっと振り返って見ると、それは孝が指 の間にはさんで持っている愛用の数珠であった。燦々と降りそそぐ陽の恵みにも、何もの をも焼き尽そうとする修羅の焔にも、それを受けて輝く念珠のきらめきの色に差と変りは ない。そのきらめきの色の上に、孝の円らかな仏像のような笑顔があった。

「私は先生のお数珠とお顔を見て、仏様を背負っている様な気持になり、それまで恐かっ た火もなんとなしに恐くなくなったような気持になりました」

 むらは後にそんな術懐をしてくれた。

「おムラさん、とうとうあんたにおぶさる様なことになったね。ご苦労だね」

 世間話の様な静かな声に励されて、むらの足はさらに軽くなった。

「いいえ、島ではもっと重いものをかつぎましたよ。先生」

 むらはそう答えると、背をゆすって孝の重味を背中にうけとめて足を早めた。

「よくは言えませんが、なにかこう、先生と一緒ならこのまま焼け死んでも後悔なんかな い、そんな気持がしました」

 むらはこの時の気持を、さらにそう説明してくれた。

“ここが駄目ならあとは運を天にまかせるほかない”そんな思いでたどりついた浄水場の 地下室は幸いにもまだ無事で、人を入れる余地があった。早速に敷かれた毛布の上に端座 した孝は、周囲の人々の恐怖の視線や家人の心配げに覗きこむ視線も感じていない様に、 夜を徹して静かに数珠をつまぐり続けるのだった。そして遠くの騒音にかき消されるよう なこともなく低く静かに孝の口から洩れてくる“南無地蔵大菩薩”の呟きが、周囲の人々 の耳に微かに入るばかりであったが、この呟きは恐怖におののく人々の心を何時の間にか 落着かせてしまったのである。

“南無地蔵大菩薩、南無地蔵大菩薩”

 それは如何なる名僧知識の読経にも劣らない幽玄さで、宵夜周囲の人々の魂を安らげ続 けた。

 戦争、それは自衛・侵略の如何を問わず、その規模の大小にかかわらず、一面から見る ならば、妄執の争いである。

 そうした我欲・妄執の社会にある女性が、せめて物心両面において出来るだけの生き方 ができるように、それが孝の女子商業教育の立願であり、それをさらにアウヘーベンした ものが孝の社会奉仕への努力であり、さらに神を敬し、仏を念じ、天皇陛下を尊崇すると いう、日本人の行きつくべき最終の一点が、孝の目差す終着点であった。

 翌日、焼跡に集まった身内や寮生たちは、孝の安否を気づかいながら焼跡の始末をして いた。そこへ、むらに手を引かれた孝が帰って来た。側近も二十三名の寮生も、孝ととも に全員怪我もなく無事であった。孝はふたたび数珠をつまぐり、その幸せを神仏に感謝し た。

 それから暫くの間、また仮ずまいが始まった。しかも偶然にもその仮りの宿は、京王沿 線の芦花公園内の、故徳富蘆花氏の寓居の跡の一室であった。勿論、蘆花氏ご遺族のご好 意に依るものであるが、ここにも目に見えない糸のつながりがあった。

 樹々の緑に囲まれたこの閑寂な寓居のたたずまいは、あの夜の戦禍によって一段と老衰 を重ねた孝の心身の快復には願ってもない良い環境であり、オアシスであった。

 親族達は改めて、よき知己に富んだ孝の人徳を思い、徳富氏ご一族に心からの感謝を捧 げるのであった。

 八月六日、広島に異様な爆弾が投下されたが、それこそが恐るべき威力を持つ原子爆弾 であった。この時死亡者は二十数万と言われる。

 ついで八日、沖縄の戦局が決定的に日本の不利となり、さらに広島に原子爆弾が投下さ れた事を知ったソ連は、“日ソ中立条約”を何らの事前通告なしに一方的に破棄し、満洲に 侵攻を開始し対日宣戦布告を佐藤駐ソ大使に通告した。(日本は八月九日の放送で、始めて この宣戦布告を知ったのである)

「原子爆弾の出現は、わが国にとって、もっとも重大な衝撃であった。八月七日の閣議で は当然これを問題にして討議した。まず、東郷外相から、スイス公使館、万国赤十字社を 通じ、かかる残酷な兵器用いることは、毒ガスの使用を禁じている国際公法の精神に反す る不当行為であるから、すみやかに停止すべき旨厳重抗議をすることを提議してそのこと を決定した。(中略)

 東郷外相は八日に参内し、原子爆弾のことを上奏すると、陛下より、そのような武器が 使用される以上防禦も不可能であり戦争継続はますますできなくなると思うから、有利な 条件をつけようとして、戦争終結の時期を逸することなきよう、なるべくすみやかに戦争 の終末をみるよう努力せよとのおさとしを受けた旨が、同外相の手記にみえている。(中 略)(〇、筆者)

 戦後、米側の文献をみると、米国政府も、原子爆弾の使用については非常に悩んだらし いが、日本がポツダム宣言を拒否する構えである以上、戦争を早期に終結せしめ、戦争が 長引くことによる追加的の損害を少からしめるため、すなわち、世界の平和、人類の幸福 のためには、これを使用するほうがよいという立場で決定したものという。しかし、米国 のなかには、この残酷な兵器を無警告で使用したことの罪悪については、いまもって多く の議論が存しているようである。(中略)(〇、筆者)

(筆者註。戦争の命題は、それが始まった以上は、戦争原因の如何を問わず勝つことであ る。そして勝利という至上命令の前には、手段方法や是非善悪を選択している余裕はない のである。昨今、南京大虐殺がどうのこうのと問題にしているが、あれ以上に残虐な行為 は、満洲におけるソ連軍にしても、卑劣なゲリラ戦法を駆使した八路軍(現在の中共軍) にしろ、情容赦なくやりたい放題にやったのであって、これは戦争においては避けること のできない必然悪なのである。だが、それにしても増して非人道的行為は、この非戦闘員 一般市民に対する無警告な原子爆弾の洗礼である。

 私は今さらアメリカにこの責任を追求しようとは言わない。

 ただアメリカを含めて人類全員が、その良識を快復することを心から切望するだけであ る)

 長谷川外信部長から、ソ連宣戦の急報を受けて間もなく、松本外務次官その他が、内閣 書記官長室に集まってきた。放送された宣戦布告の訳文もできて、みなで検討をはじめた。 なんとしてもソ連のやり方は理不尽千万である。両国の間には、少くとも翌二十一年三月 までは、中立条約が有効に存在している。日本はこの条約を忠実に守った。そして、さき ごろからは、ソ連に対して和平の斡旋を依頼し、わが方ではこの申入れに対する先方の回 答を鶴首して待っていたのだ。六月三日広田・マリク会談に端緒を持ついわゆる日ソ交渉 は、六月二十二日の天皇陛下のお考えのお示しを契機として、具体的な国策となり、七月 中旬、ソ連に対して、近衛特使の接受と和平の斡旋方を要請して以後、ポツダム宣言の発 表があり、また、原子爆弾の投下があったが、わが国は和平の実現のために、ソ連の仲介 によることの一本筋を立てとおしてきて、ひたすらソ連の回答を待っていたのだ。それに もかかわらず、ここに与えられたものは、万一にそんなことがありはしないかと危惧はし ていたものの、まさかと思っていた宣戦の布告である。

(筆者註。ソ連の対日宣戦がまさに不意打であり、しかも日ソ中立条約有効期間中におけ るものであることが、ご理解いただけたと思う。ソ連の意図は文字通り火事場泥棒をする ことにあったのである。しかも、火事場泥棒による盗品の北方領土をいまだに返還しない)  まさにパンを求めて石を投げ与えられたにひとしい。しかも我が国の実情は、この石を 投げかえすだけの力はすでにない。日ソ間の中立条約は、この年四月、条約の規定にした がい、昭和二十一年三月の満期を持ってその以後は廃棄せらるべきことをソ連から通告を 受けていた事は事実であるが、条約はなおその間厳然として有効に存在しているはずであ る。この神聖なるべき条約は、一片の反故として破り捨てられた。

 ソ連が日本に対して宣戦を布告したときの状況を外務省編の『日ソ外交交渉記録』では 次のように記している。

『八月八日午後五時(モスコウ時間)モロトフ委員は大使に対し、大使よりの発言を持た ず、早速用意せる露文により、左記宣言を読み上げたる上、大使に手交せり。

 「ヒットラー・ドイツの敗北および降伏後においては、日本のみが戦争を継続する唯一 の大国たるにいたれり。米、英、中三国の日本軍隊の無条件降伏に関する本年七月ニ十六 日の要求は、日本により拒否せられたり。よって極東戦争に関する日本政府のソ連に対す る調停方の提案は、まったくその基礎を失いたり。日本の降伏拒否に鑑み、連合国はソ連 政府に対し、同政府が日本の侵害に対する戦争に参加し、もって戦争の終了を促進し、犠 牲者の数を減少し、かつ急速に一般的平和の回復に資すべく提案せり。ソ連政府はその連 合国に対する義務にしたがい、連合国の右提案を受諾し、本年七月二十六日の連合国宣言 に参加せり。ソ連政府はかかる同政府の政策が平和を促進し、各国民をこれ以上の犠牲と 苦難より救い、日本人をして、ドイツがその無条件降伏拒否後なめたる危険と破壊を回避 せしめうる唯一の手段なりと思考す。以上の見地より、ソ連政府は、明日、すなわち八月 九日より、同国、同政府は日本と戦争状態に在るべき旨を宣言す」

 次いで大使より日本政府に対する右宣言伝達の方法につき種々質問せるに対し、モロト フ委員は、右宣言および、会談内容伝達のための東京向け発電は支障なきこと、および暗 号電報も差支えなきことを答えたり。ただし本件公電は遂に到達せざりき』(〇、筆者)

(筆者註。外務省の記録のとおり、この公電は日本にとどかなかったのである。抜き打の 宣戦布告という大問題である。モスクワ駐在の大使館員が電報を打ち忘れるなどという怠 慢がある筈はない。そこには、ありありとソ連政府の作為が考えられる。日本大使館員の 打った電報が行方不明になったとしか考えられない。

 八月八日午後五時(モスクワ時間)に宣戦布告を手交し、九日には満洲侵攻なのである。

 沖縄決戦の結果を熟知し、日本本土が全土にわたって爆撃されていることを知り、満洲 防備が手薄であることを見抜き、さらに広島に原子爆弾が投下されたことを承知の上で、 もう日本には戦う力も意志もないことを見極めて打った処置で、これこそまさに火事泥宣 言である。しかも白々しくも、日本人の危険と日本の破壊を回避せしめうる唯一の手段な どと言いながら、満洲においては在満一般人に対して暴行・掠奪、暴虐の限りをつくし、 多数の日本人捕虜をシベリヤに強制収容して酷使し、その多くを餓死・凍死・病死させ、 残余の日本人は共産主義で洗脳し、さらに北方領土を奪っていまだに返還しないのである。

 非戦闘員一般国民に対する無警告原子爆弾の投下に比すべき、暴虐かつ卑劣極まりない、 通常の常識を持っては考えられない暴挙である。まさに人間の心を持たない鬼畜の所行で あり、これが共産主義社、共産主義国の実態なのである)

 考えてみると、日ソの関係は、従来の長い期間、形は友好的であったが、その実質は決 して良好ではなかった。(中略)ソ連参戦の意志が、はじめて米国にささやかれたのは、昭 和十八年(一九四三)十月、モスクワで開かれた米英ソ三国の外相会議のときである。こ の年には、日本軍はガダルカナルを撤退し、四月には連合艦隊司令長官山本元師が戦死し ており、欧州戦線では、スターリングラードに突入したドイツ軍が、遂に後退をはじめ、 ソ連軍は追撃の姿勢にうつっており、連合軍は、ようやく立直り、ドイツを圧倒する見通 しがそろそろついてきたころである。外相会議の最終日の晩餐会の席上、スターリンは、 隣席の米国ハル国務長官に対して、『連合国が、ドイツを屈服させたのちには、ソ連は対日 戦に参加する』と耳打ちした。これまで米国はいろいろソ連を対日戦に協力せしめようと 努力していたのに、ソ連はなんのかのと理由をつけて拒否していたのであったから、ハル 長官は、スターリンのこの一言で狂喜した。スターリンは、このとき、『ルーズベルトには 伝えてよいが絶対に秘密にしておいてくれ』と念を押している。

 同じ年の十一月末、テヘランの三国首脳会談において、スターリンは、ドイツが最終的 に敗北した暁は、われわれはともに戦線に立って、日本を打倒することができるであろう と、公然言明し、翌十九年九月、米国のハリマン大使と英国のカー大使がスターリンに会 見したときは、ソ連による南樺太の軍事占領、北海道の爆撃などについて話合い、スター リンは、ドイツ降伏後三ヶ月にして対日戦争に参加すると明言したと伝えられている。

 このことは、昭和二十年二月、ヤルタ会談において、ルーズベルト、チャーチル、スタ ーリンの三首脳によって協定され、かつソ連に対する代償も既述のようにきまったのであ る。(筆者註。南樺太と千島列島のソ連主権承認。満洲の利権)この協定が署名されるとき、 イギリスのイーデン外相はチャーチルに、ソ連の参戦がいかなる結果を生ずるか予想でき ないから署名しないほうがよいではないかと忠言したということが伝えられている。しか も、この協定は、中国の満洲利権をソ連に与えることを内容とするものであるのにかかわ らず、中国に知らせるとその日のうちに世界中に筒抜けになるというので、まったく秘密 にしてあった。

 ソ連は、このように対日戦の心構えであったので、二十年四月には、まず、日ソ中立条 約を、昭和二十一年三月の満期後は延長せざる旨の通告をしたのであった。ところが、そ のころになると、日本の力が加速度的に弱まり、米英としては、ソ連の力をかりなくても、 日本を屈服せしめる自信を持ち始め、同時にソ連という国が信頼のおけない国であるとい う事実をしばしばみせつけられたので、できれば、ソ連の参戦しないことを内心望みはじ めていた。ちょうどこの時期に、日本からソ連に和平の斡旋を依頼したのであった。ソ連 は、参戦してうる利益と、仲介して得る利益とを比較較量したであろう。

 連合国は、ソ連の参戦を見ないうちに戦争を終結せしめる願望をこめて、この時期にポ ツダム宣言を発表したが、日本側がよい反応を示さないので、さらに原子爆弾投下という 非常手段にでたのである。

 ソ連はポツダム会議の当初、対日宣戦の時期について、準備の都合上、ドイツ降伏後三 ヶ月以上にはなるが、八月中旬以降になると訂正しているのにかかわらず、八月六日の原 子爆弾投下により、日本が終戦にかたむいてきそうな状況を察して、バスに乗りおくれて はたいへんと、あわてて手を打ったものと思う。それが偶然にも五月八日のベルリンの陥 落から、ちょうど三ヶ月目にあたっている。

(筆者註。このソ連の火事泥参戦によって、満洲在留邦人がどんなに悲惨な目にあったか は私の忘れることのできない悲痛な記憶ではあるがこれ以上加言しない。またアメリカの 原子爆弾投下についてもこれ以上の追求をする気はない。

 ただただ、ソ連人もアメリカ人もふくめて、人類が再びこの暴挙を繰り返すことのない ように、その良識を快復することを切望するだけである。

 広島も長崎も、そして満洲における悲惨な事件も、日本人が“過ちは繰り返しません” ではなく、“過ちは繰り返さないで下さい”なのである。

 さて、ソ連不意打参戦の翌日九日、さらに長崎に原子爆弾が投下された。

 この二つの原子爆弾投下とソ連参戦によって、日本は最後の決断を迫られた。

 軍部それも主として陸軍の主張するように本土邀撃作戦を行なって最後の決戦に勝敗を 託すか、それともポツダム宣言を受諾して終戦するか、その何れを選ぶかである。

 天皇陛下をはじめ、鈴木総理も迫水書記官長も、陸軍の主張には賛成しかねていた。な ぜならば、それは非戦闘員の一般国民の大きな犠牲を伴うことが歴然としていたからであ る。しかし、この陸軍の主張を、軍人がメンツだけにこだわった方針とか、国民の犠牲や 被害を無視しての主張ととることは曲解である。終戦は止むをえないとしても、国体の護 持、陛下のご安泰、日本を亡国にしないために何とかできるだけの努力をした上で終戦し たいという、やはり愛国心からと受け取るべきである。

 そして、今上陛下は、これ以上国民の犠牲者を出してはならないと、深くご決意されて いたのである)

     聖断くだる

 私はいま、この文章を草しながら、この本を読まれる読者がなんと当時の日本政府は、 バカだったのかと思われるだろうと思う。運命の神様の目から見ると、日本は、目隠しを されてあらぬほうをまさぐっていた姿であろう。私は、残念というか、不明を恥じるとい うか、お人よしであったといおうか、いうにいわれぬ感慨の下に、涙がでてきそうである。 しかし、日本の国内情勢は、そう簡単なものではなかった。前にも述べたように、鈴木首 相の唯一の願望は、戦争を継続するにせよ、戦争を終結するにせよ、民族が一本の団結を 保つことであった。終戦によって、内乱的事態がおこり、血で血を洗う民族内部の闘争が おこれば、日本はふたたび立つべき機会は失われる。日本再興の唯一つの要素は、全日本 民族の団結であると信ぜられたのである。当時の軍部は『国体の護持』というなにびとも 抵抗しえざる美名を唯一の護符として、狂気の沙汰としか思われぬ強気であった。ソ連を 仲介とする和平工作それ自身、陸軍としては、清水の舞台からとびおりるほどの大決心だ ったのである。機関銃の下にある首相官邸では鈴木総理は、その機関銃が火を噴いて、元 も子もなくしてしまうようなことにならないように、それだけが念願であった。

 私は、後日になってから、スターリンが、この対日宣戦を説明して、日露戦争の報復で あるという演説をしたことを知って、ソ連の共産革命の発頭人たるレーニンは日露戦争の とき、それをロシアの帝国主義と規定して、モスクワで革命をおこそうとしたことを思い 合わせて、さらに憤りを新たにした。ソ連は、日本のなにも知らないお人よしに乗じて、 計画的に日本をおとし穴に追込んで、自己の利益を計ったのである。東郷外相をはじめ、 ソ連をよく知るものは、ソ連のような共産主義国の倫理は、われわれの倫理と質を異にす るから、けっして信ずべからずと、しきりにいわれたのであったが、陸軍は、それを知り つつも、やむをえず信ずる立場をとったのかもしれないが、ソ連をあてにしたことは結局 間違いであった。私は今日、ソ連を信ぜよ、といわれても、なにかおとし穴がありそうな 気がして心に躊躇を感じる。それは、過去におけるこの深刻な体験が禍をしているのであ るかもしれないが、もし、ソ連の考え方が、いまも昔のままであるとするなら、ソ連のひ いては共産主義国をこのままわれら自由主義国の倫理の立場において、簡単に信じうる者 は、幸であると思う。

 私は、ソ連宣戦のことを、とりあえず、夜中電話で総理に報告したが、九日、夜のあけ るのを待って、小石川丸山町の総理私邸に伺って報告した。このころまでには、既にソ連 軍は国境を突破して、満州国および朝鮮北東部に侵入しつつあること、満州各地が爆撃さ れはじめたとの報告を受けていた。間もなく東郷外相も来邸され、三人で協議した。前夜 総理から九日の閣議では正式に終戦のことを提案して討議したいといわれていたのに、事 情は急変して、原子爆弾の出現に加うるにソ連の参戦という最悪の事態で、九日の朝を迎 えたわけである。総理は、ただ黙々として、報告をきかれ、『くるものがきましたね』とい われた。(中略)

(著者註。これから八月十四日のポツダム宣言受諾決定と陛下の戦争終結の詔書のご録音 までの日々は、今上陛下にとってもその他の人々にとっても、筆舌に尽しがたい苦悩の連 続であった。その詳細については、いま引用させていただいている迫水久常先生の著書“機 関銃下の首相官邸”を是非一読されて、その実情を知って頂きたいと思う。ともあれ、も うすこし引用させていただこう)

 天皇陛下は、椅子におかけになったまま少し体を前にお乗り出しになって、まず、『それ ならばわたしが意見をいおう』とおおせられた。極度の緊張の一瞬である。静かといって、 これ以上の静かさはありえない。陛下は、つぎに、『わたしの意見は、先ほどから外務大臣 の申しているところに同意である』とおおせられた。私はその瞬間、ひれ伏した。胸がつ まって、涙がほとばしりでて机の上の書類に雨のあとのようににじんだ。部屋の中の空気 はなんとなく動揺した。なんびとも声を出す者はいない。みなすすり泣いているのであっ た。私は、陛下のお言葉が、それで終わりならば、総理に合図して、会議を次の段階に運 ばねばならないと考えたので、涙のうちに陛下を拝すると、天皇陛下はじっとななめ上の 方をお見つめになっておられ、白い手袋をおはめになったお手の親指で眼鏡の裏をおぬぐ いになっておられる。私は、陛下はお涙で眼鏡が曇るのだなと思うと、さらに一しお涙が でたが、陛下はついに、お手をもって、両方の頬をおぬぐいあそばされた。このあと陛下 のおおせられたことは大体次のような趣旨のことであったが、陛下ご自身、お言葉はとぎ れとぎれであり、抑揚もみだれ、考え考え、一言ずつ絞り出すようにおおせられ、うけた まわるわれわれは、いっそうせき上げて、机にひれ伏し、号泣するのを禁じえなかった。 私はそのとき感極まって『陛下のお心持ちはよく判りました。もうこれ以上なにもおおせ られないでくださいませ』と申上げたいような気持ちのしたことを、いまもはっきり覚え ている。


 『戦争がはじまっていらい陸海軍のしてきたことは、どうも予定と結果がたいへん違う 場合いが多い。いま陸海軍は本土決戦の準備をしておって、勝算もじゅうぶんあると申し ておるが、わたしはその点について心配している。先日参謀総長から九十九里浜の防衛対 策の話を聞いたが、待従武官が現地を視察しての報告では、その話とは非常にちがってい るようであるし、また新設の代百何師団(陛下はたしかに師団番号をおおせられたが私は 思い出せない)の装備完了との報告を受けたが、実は銃剣さえ兵士に配給されていないこ とがわかった。このような状態で本土の決戦に突入したならばどうなるか、わたしは非常 に心配である。あるいは、日本民族は、みな死んでしまわなければならないことになるの ではないかと思う。そうなれば、皇祖皇宗から受け継いできたこの日本という国土を子孫 につたえることができなくなる。日本という国を子孫につたえるためには、一人でも多く の国民に生き残っていてもらって、その人たちに将来ふたたび立上ってもらう他道はない。 これ以上戦争をつづけることは、日本国民ばかりでなく、外国の人々も大きな損害を受け ることになる。わたしとしては、忠勇なる軍隊の降服や武装解除は忍びがたいことであり、 戦争責任者の処罰ということも、その人たちがみな忠誠を尽した人であることを思うと堪 えがたいことである。しかし、国民全体を救い、国家を維持するためには、この忍びがた いことも忍ばねばならぬと思う。わたしは、いま、日清戦争のあとの三国、干渉のときの 明治天皇のお心を考えている。みなの者は、この場合、わたしのことを心配してくれると 思うが、わたしは、どうなってもかまわない。わたしは、こういうふうに考えて、戦争を 即時終結することを決心したのである』(〇、筆者)

(筆者註。私は迫水先生と同じように、そして恐れ多いが陛下と同じように、涙を拭きふ き、陛下のお言葉を書きつづけ、謹んで〇、をつけた。

 もう一度、涙をぬぐおう。

 どこの国に、“わたしは、どうなってもかまわない”とおおせられ、おおせられた君主が あっただろうか。

 日本の天皇陛下以外にはない。

 外国の君主は、皇帝も王も、私利私欲の人ばかりである。かりに英明君主・良君と呼ば れても、技術的に方法論的に統治が上手であって、国家の盛大・民心の安定に成功しただ けのことである。世界史がそれを証明している。

 私心のないことはもちろん、まさに神の心を待たれる君主は、日本の天皇以外にはない と断言できる)


 それにひきつづいて、軍人がまことに忠勇であったこと、国民がよく一致して戦ったこ とに対するおほめの言葉があり、また、大勢の人が戦死し、戦傷し、また、空襲などで死 んだり、傷ついてたり、財産を失ったりした人々は非常に多いが、その人たちや、その遺 族・家族のことを考えると胸がかきむしられるような心持がする。いま、外地にいる大勢 の人たちのことも心配でたまらないということなどを、とぎれとぎれにおおせられた。私 は、私たちが至らないために天皇陛下にこんなにご心配をおかけすることになった申訳な さに、号泣しながら、心の中で心からのお詫びを申しあげたのであった。(中略)

 そして陛下は、日本国民ばかりでなく、全世界の人類の生命を救うために、自分自身は どうなってもかまわないとお考えになっておられるのだと思うと、本当にありがたいこと だと思った。私は、陛下のほんとうの御信念は、いつも『平和』ということだということ を、強く強く感じ、戦争終結後の日本は、ほんとうに平和の国としてやりなおしてゆくべ きだと感じた。

前にも述べたように、御前会議は一つの儀式であって、席上、陛下がご発言になることは、 まったくない。ただ一つの例外は、第二次近衛内閣の末期、日米間の交渉が行きづまり、 戦争の可能性が表面化してきたころの御前会議において、陛下は特にみずからお求めにな って発言されたことがある。そのとき陛下は余事はおおせられず、ただ、『四方の海みなは らからと思う世に、なぞ波風の立ちさわぐらむ』という明治天皇の御製を二度くりかえし て、およみになったと伝え聞いている。陛下の平常のご信念は、世界平和であり、国民の 安らかな生活であることは、このことによっても明らかである。当時の政府が、陛下のお 心のとおり実行する健前をとっていれば、開戦のときに、明治天皇が三国干渉に対してご 配置されたと同じ立場で処置したであろう。それを陛下のみ心に反して、戦争に突入して しまったのであったが、いまここに、遅きに失したが、陛下本来のみ心のとおりを率直に おおせ出でられたものであると私は思う。(中略)

 正しい日本の政治のあり方は、天皇陛下のみ心は、総体の民意を象徴しているものだと いう信念の下に、内閣総理大臣が、天皇陛下のみ心に副うべく、己を空うして、民意の暢 達に努力するような責任内閣の存在ということだと考えた。私は、いまも、このときの陛 下の尊い、ありがたいお姿を目の前に浮べることができる。洋の東西を問わず、尊いあり がたい人の姿を絵にうつすときにはうしろに後光を画きそえているが、このときの陛下の お姿を表わすとすれば、やはり後光を画きそえる外はないであろう。」(迫水久常著『機関 銃下の首相官邸』恒文社)

 こうして、形は敗戦、降伏という日本の歴史はじまって以来の屈辱であったが、天皇陛 下のご英断と鈴木総理・迫水書記官長その他の人々の決死の努力によって、大東亜戦争は 終戦となった。

 林房雄先生は、“大東亜戦争は東亜百年戦争の終曲であった”といわれる。

 たしかに、孝の七十九年間は戦争に明け、戦争に暮れたと言ってよい。

 孝の生誕は慶応三年(一八六七)である。それより十四年前、嘉永六年(一八五三)に 軍艦四隻をひきいてアメリカのペリーが浦賀に来港した。

 “泰平の眠りを醒ます蒸気船、たった四ハイで夜も寝られぬ”というザレ歌が、茶の四 杯と軍艦四隻をかけ言葉にして当時の江戸庶民の驚きを表現しているが、これが日本の三 百年近くに及ぶ鎖国政策を捨てさせる第一歩となり、徳川幕府の力をもってしては、西欧 列強諸国の植民地化政策を防ぐことができないとして、尊皇倒幕が叫ばれ、明治維新とな ったのだが、ロシア(現在のソ連)も度々日本各地をうかがい、ついに万延二年(文久二 年・一八六一)には対馬に海軍根拠地を設置しようとして露艦ポサドニックが来航したが、 英国の助力によりこれを排除している。

 文久三年(一八六三)には薩英戦争。(フランスは新徳川派で、イギリスは後に倒幕派に 援助を申し入れてきたが、さすがに当時の人々は徳川方も反徳川方も日本人として自覚が 強く、国内問題には双方とも英仏両国の武力援助を受けなかった。これは日本が他のアジ ア諸国のように植民化されないで済んだ、一つの大きな要因である)

 文久四年(完治元年・一八六四)には、長州藩と英米仏蘭四ヶ国艦隊との間に馬関戦争 が行われた。

 つまり、日本百年戦争(東亜百年戦争)という植民地化を防ぐ自衛戦争が、孝の生まれ る数年前から始まっていたのである。

 林先生の『大東亜戦争肯定論』に次のような一節があるので、戦争に明け暮れしながら 女子の教育を続けた孝のために引用させていただく。

「ただ、『明治以来五十年の軍国主義教育が太平洋戦争を起した』というのは、どんなもの だろう。もちろん、戦争教育なしには戦争は行えない。が教育以前に戦争があるのではな いのか。

(著者註。孝はきっと、“ヒヤ、ヒヤ、その通りですたい”と言うにちがいない)

 少くとも戦争の予感またはその萌芽がなければ、戦争教育は行われない。

(著者註。“私の生れる前から萌芽どころか、薩英戦争や馬関戦争があったとではなからす たい”と孝が言っているのが聞えるようである)

 古代からの歴史に現われている戦争好きの征服者や暴君の背後に、民族または部族の『戦 争の必要』があったことを見落としてはいけない。最近の実例でも、蒋介石から毛沢東に うけつがれた『抗日戦争教育』は、日本の『侵略』の事実が発生した後に始められている。 それで十分、まにあった。

 タマゴが先かニワトリが先かの議論をするつもりは内。事実について考えたいのだ。

『明治以来五十年の軍国主義教育』は、その以前に、『戦争教育を必要とする戦争事実』が 発生していたことを示すのではないのか。たしかに、発生していた。明治維新をはるかに さかのぼるある時期に『東漸する西力』に対する日本の反撃戦争が開始されていた、と私 は考える。それこそ『再版大東亜戦争史観』だと、上山春平氏に叱られそうだが、叱るの はあとまわしにして、もう少し私の意見を聞いていただきたい。

(著者註。孝いわく“私の女子教育も、上山先生流に見れば戦争教育と言われるかもしれ んばってん、私の横井小楠先生の『何ぞ富国強兵にとどまらん大義を四海に布くのみ』、こ ぎゃん気持たい。誤解ばなさって叱らんようたのみたかですたい”)

 戦争教育のみについてみても、日本の軍国主義教育は明治以降のものではなく、維新の はるかな以前から始まっていた。『富国強兵』という標語も明治以後のものではない。弘化、 嘉永、安政のころから、多くの思想家によって発言されている。(中略)

 米英仏蘭の艦隊が西方よりせまり、さらにプチャーチンの露国艦隊が北方に現われた時、 だれか『攘夷論』が後年の中国の『抗日戦争理論』即ち『反植民地戦争理論』と似ている ことは当然である。孫文も蒋介石も周恩来も中国革命は日本の明治維新に学んだと言って いる。日本の『攘夷論』は中国の『反植民地戦争理論』の直系の先輩なのだ。明治維新前 の『攘夷論』を『反植民地戦争理論』と解釈することは、決して中共理論の密輸入または 逆輸入ではない。」(林房雄著『大東亜戦争肯定論』)

 ともあれ、戦争は終った。

 東京はもちろん、日本の主要都市のほとんどは、空襲によって廃墟と化していた。

 昭和二十年八月十五日、鈴木内閣はその重要な使命を果して総辞職した。

 いま私が原稿を書いている書斎の机の前に壁には、日本私立短期大学関係者に賜った“天 皇陛下のお言葉”の額と一緒に、“終戦の詔書”の額がかかっている。これは著者が、捨て るべき生命を永らえて、仏印(現在のベトナム)から帰還して以来、日本人としても嘉悦 康人個人としても忘れてはならないものであり、日本国および日本民族再興のための精神 的基盤とすべきものとして、かかげているものである。

 嘉悦孝の伝記も終末に近づいたここらで、この“終戦のご詔勅”がいかにして生れ、危 機にさらされ、そしれ、玉音放送になったかという、昭和二十年八月十四日から十五日に かけての、大宅壮一氏いうところの“日本のいちばん長い日”の模様を記すことも、けっ して無駄なことではなく、孝に関連のないことではなかろう。



    「全員は、みな泣いた」

 十三日午後以来、同盟通信社や外務省よりの連絡によると、米国の放送は、しきりに日 本の回答遅延を責めている由いである。来襲する米機からはポツダム宣言に対する日本の 申し入れ、それに対する連合国の回答を掲げ、日本国民は軍人の抵抗を排して政府に協力 して終戦になるように努力するほうがよいといった趣旨の日本文のビラが散布せされ、国 民は敵の謀略宣伝かと疑いながら、政府がなにか措置しつつあることを感じ、同時に軍人 はいっそういきりたった。艦載機の機銃掃射は随所に行なわれ、爆撃も再開され、連合国 側では新たな攻撃態勢を強化している気配も感ぜられる。第三の原子爆弾が東京に投ぜら れるかもしれないともおそれられた。敵側がいかなる手段に出るかも判らないので、これ を牽制する意味から、私は、長谷川外信部長に指示して、政府の方針は、受諾に決定した が、手続に暇取っていて回答が遅れているのだという趣旨を海外に向けて放送してもらっ た。驚いたことには、十五分もすると、米国放送は、このこちらの海外放送をそのままに 放送したらしく、陸海軍の将校が大勢押しかけて、私をなじり脅迫した。私は、まったく 知らないと逃げたが、長谷川君は長谷川君で、書記官長の指図によったと逃げて姿をくら ましてしまうという一幕もあった。(中略)

御前会議は、九日の御前会議と同じの官中防空壕内の一室で開かれた。参列者が多いので、 陛下の前に机が置かれたほか、机はなく玉座に面して三列に椅子が並んでいた。玉座から みて左側の端の第一列に首相、平沼議長とならび、右端第一列に両総長がならび、他の閣 僚は、その他の席に宮中席次の順に着座し、四幹事だけ最後列にならんだ。(著者註。平沼 騏一郎枢密院議長、両総長とは陸軍参謀総長・海軍軍令部総長。四幹事は内閣書記官長、 陸軍省軍務局長、海軍省軍務局長、内閣総合計画局長官)

 間もなく陛下が、一同最敬礼のうちに蓮沼待従武官長をしたがえて、ご臨席になると、 鈴木総理は立ってその後の経過をきわめて要領よくご説明申しあげ、閣議においては八割 あまりのものが先方の回答を承認することに賛成したが、全員一致をみるにいたらないの で、聖慮をわずらわすことはその罪軽からざることを謹んでお詫び申し上げるしだいなる も、この席上、改めて、反対の意見ある者より、親しくお聴き取りを願い、重ねてなにぶ んの聖断をあおぎたき旨を申しあげた。そして、阿南陸相、梅津、豊田両総長を順次に指 名した。三名のものは、順次立って、内容は別に新しいものはなかったが、声涙ともに下 りつつ、このまま終戦しては、国体の護持も不安であり、条件が改善せられれば格別、こ の際は死中活を求めて戦争を継続するほかなしと述べた。私のすぐ前に着席しておられた 阿部内相も、手に原稿らしきものを握りしめておられたから、なにか発言されるかと思っ ていたが、豊田総長の発言が終わると、総理は立って、意見を申しあげるものはこれだけ でございますと申しあげたので安倍内相は、なにもいわれなかった。陛下は、おうなずき になって、『外に意見がなければ、私の意見を述べる。皆のものは、私の意見に賛成してほ しい』と前提して、前回御前会議のときと同じく、とぎれとぎれに、しぼりだすようにし てお言葉があった。そして純白のお手袋をはめたお手でお頬をなんべんかお拭いあそばさ れた。一同は、声をあげて泣いた。お言葉の要旨は次のとおりである。

『反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変りはない。私は、国 内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。 国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって 書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、こ の際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装 解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君 国に準ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたし は国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土とな り、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段 に出ても、もとより先方のやり方に全幅の信頼を置きがたいことは当然であるが、日本が まったくなくなるという結果に較べて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興 という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心を偲び、堪 えがたきを耐え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は 平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかる こととを思うが、国民が心を合わせ、協力一致して努力すれば、必ずできると思う。わた しも国民とともに努力する。

 今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族 のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後 の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもす る。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に 呼びかけることがよければいつでもマイクの前にも立つ。陸海軍将兵は特に動揺も大きく、 陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、 わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてよい。内閣では、至急に終戦に関する詔 書を用意してほしい』(〇、筆者)

 参列した全員はみな泣いていた。私は陛下のお言葉のうち『わたしは常に国民とともに 再建に努力をする』というご趣旨を拝したときには、敗戦という現実の悲しみを越えて、 なにか、歓喜とでもいうべき感激を覚えた。私たちが、ただ雲の上に高く尊いとあおいで いた陛下が、私たち国民の中におりていらっしゃったというような気持がした。私は、陛 下が、われら国民をご信頼なり、われら国民に再建をお命じになったのだと感じ、ここに 新日本建設の日の出を感じたのであった。総理は立って、重ねて聖断をわずらわし奉った 罪をお詫び申しあげ、陛下のご退席を願った。一同泣きながら最敬礼をして陛下をお送り した。(中略)

 当時の詔勅の形式は漢文体であったから、通常の場合なら、要旨をきめてそのほうの専 門家に起草を頼むのが慣例であったが、ことは極秘を要することであり、なんびとにも相 談ができないことなので、私は再度の御前会議における天皇陛下のお言葉をそのまま漢文 体の文章に綴ることとして自分で原案を起草する決心をしたのであった。幸いに、私は、 父親から鹿児島の士族の例であったらしく、小学校に入る前から、半強制的に、漢文の素 読を教えられたため、学校時代漢文に興味を持っていたのでいささか同年配の人たちにく らべると漢文の素養を持っていたことを父に感謝しつつ、十日、十一日、十二日の三晩ほ とんど徹夜して、何枚も原稿用紙を破りすてながら、ときには、涙で原稿用紙を濡らしな がら、どうやら形を作り上げた。(中略)

 しかし、私は不安でたまらない。聞くところによると、宣戦の詔勅には漢文の文法上重 大な誤りがあったという。私は遂に決心して、十三日深夜その方面の内閣嘱託川田瑞穂先 生と私が師事している安岡正篤先生を、首相官邸においでを願い、極秘とすることを誓っ ていただいてから、私の原案を見ていただいた。その結果加除訂正がなされて文章はいっ そう立派なものになった。殊に安岡先生は、私が『永遠の平和を確保せんことを期す』と 書いた部分について『この部分に、極めて適切にあてはまると思うが、支那の宋の末期の 学者張横渠の文章の中に“天地のために心を立て、生民のために道を立て、往聖のために 絶学を継ぎ、万世のために太平を開く”という言葉があるから、この万世のために太平を 開くという言葉をそのままお使いなさい』といわれた。私は、御前会議において陛下のご 決心をうけたまわった際、今後日本は永久に平和な国として再建せられることを念じてお られると感じたのであったから、まことに、適切なことであると考えて、直ちにこれにし たがったのであったが、この一句が、終戦詔書の眼目となったわけである。(中略)

 清書の上鈴木総理が陛下のお手許に奉呈したのは、午後八時三十分である。陛下は、そ のままご嘉納あそばされ、御名を記され、御璽をたまわり、詔書は内閣に回付され、各大 臣が副署した。直ちに印刷局に回付し、官報号外として公布の手続の終ったのはちょうど 午後十一時である。すなわち大東亜戦争の終了した正式の時刻は、昭和二十年八月十四日 午後十一時である。次に詔書の全文を掲げる。

    詔 書

 朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠 良ナル璽臣民ニ告ク

 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ規範ニシテ朕ノ挙々措カ サル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ 他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志シニアラス然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ 朕カ陸海軍将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ラス 戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢来亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ 頻ニ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戦ヲ継継センカ終ニ我 カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以 テカ億兆ノ赤字ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セ シムルニ至レル所以ナリ

 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国 臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヒヲ致セハ五内為ニ裂 ク且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生に至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟 フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レト モ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス

 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫 レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界 ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシ テ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚 シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

  御 名 御 璽


昭和二十八年八月十四日

 詔書成文の『時運のおもむく所』という部分の原案は、『義命の存する所』というのであ った。これは安岡先生が、戦争を終結するのは敗けたから仕方がないというのではなく、 この場合終戦することは大義天命のしからしむるところ、正しいことであるとの立場に立 つべきであるという見地から、特に加筆されたところである。ところが、閣僚中にこんな 言葉は聞いたことがない、判らないから修正せよというものがあった。私は、安岡先生に 教えられたとおり説明して、原案の維持につとめたが、辞書を持ってきて調べたらという 話も出て、ありあわせの辞書を持ち出して調べると、あいにくにもその辞書にはこの熟語 が出ていない。辞書に出ていないのでは一般国民はわからないではないかということにな って、とうとう成文のように訂正されてしまった。あとで安岡先生は、これでこの詔書は 重大な欠点を持つことになってしまって千載の恨事だ。学問のない人たちにはかないませ んと嘆息されたのであった。このことについて、つい最近、安岡先生が私に『近ごろの政 治には、理想がなく、道筋がなく、まったく行き当たりばったりのようだが、それはあな たが終戦の詔書の中の“義命の存する所”という点を“時運のおもむく所”と訂正したか らですよ。時運のおもむく所というのは、時の運びでそうなってしまったから仕方なくと いうことで、理想も道筋もなく行き当たりばったりということです。目前の損得というこ とです。私は終戦の詔書は、新日本建設の基礎となるべきものと考えていたのに、あれで は、終戦そのものが意義を失ってしまった。その以後の政治が行き当たりばったりなのは、 そのせいで、あなたは責任を感じなくてはいけません。寛容と忍耐というのは、いわば時 運のおもむく所というほうです。あなたも政治家として立たれる以上、時運派にならず義 命派になってください』といわれたことがある。(〇、筆者)

(筆者註。私も数度、安岡正篤先生にお逢いする機会を得て、その深い学識と温厚かつ慈 味あふれるお人柄に接し、私の崇敬する日本人のお一人であるが、まさに安岡先生の現代 政治観については、先生ご指摘のとおりで、私は孝の残した道を行くのに義命派であろう と努力している)

 十四日午後十一時すぎ、閣議が散会して後、私は、総理大臣室に入って、鈴木総理に対 して、この旬日のご苦労に対してご挨拶を申しあげ、そのまま対座した。自然に涙が出て きてしかたない。総理も黙々として深く物思いにふけっておられる様子であった。思いが けなく、扉をノックする音が聞えてふり向くと、阿南陸相が帯剣して、帽子を脇にかかえ て入ってこられた。私は立って少し側に寄った。陸相はまっすぐに総理の机の前にこられ て、丁重に礼をされたのち、『終戦の議がおこりまして以来、私はいろいろと申しあげまし たが、総理にはたいへんご迷惑をおかけしたと思います。ここにつつしんでお詫び申しあ げます。私の真意は、ただ一つの国体を護持せんとするにあったのでありまして、敢えて 他意あるものではございません。この点どうぞご了解くださいますように』といわれた。 阿南陸相の頬には涙が伝わっているのを見て、私も涙が出た。すると総理は、うなずきな がら、阿南陸相の近くに歩み寄られ、『そのことはよく判っております。しかし、阿南さん、 皇室は必ずご安泰ですよ、なんとなれば、今上陛下は、春と秋のご先祖のお祭りを必ずご 自身で熱心におつとめになっておられますから』といわれた。阿南陸相は『私もそう信じ ます』といわれて、丁寧に一礼されて静に退出された。私は、玄関までお見送りをすると、 総理は『阿南君は暇乞いにきたのだね』といわれた。このときの光景は私の終生忘れえな い感激である。また、このときの総理の言葉は、わが皇室が二千年の長きにわたり連綿と して、代々徳を積まれてこられたことを意味するものであって、まことに深遠な意味があ ると思う。積善の家に余慶ありというが、わが皇室の積徳はとうていこの言葉ではいいあ らわすことのできないほど、大きなものであると信ずる。私は、戦後、西本願寺の法主に、 終戦御前会議の際における陛下のことをお話したとき、法主は、そのときの陛下の御心、 御姿は、まさに阿弥陀仏様の御心であり、御姿であるといわれたことがあり、また、マッ カーサー元師が、初めて陛下にお会いしたときの陛下のお言葉によって、陛下はまさにゴ ッドであると感嘆したという話も聞いているが、今日皇室のご安泰なるを見て、心から感 激を深くするものである。(〇、筆者)

(筆者註。英雄は英雄を知るというか、この時すでに阿南陸相は自決を覚悟しておられ、 鈴木総理はその阿南陸相の決意を見ぬかれておられたのである)

 十五日午前五時半ごろであったと思う。私は、憲兵司令官の大城戸中将に電話をかけて みた。大城戸中将の話によって、四時ごろ阿南陸相が自決されたことを知った。そして、 昨夜半、陸軍省の青年将校が、森近衛師団長を殺してにせの師団命令によって、軍隊を宮 中に入れ、録音盤を奪取しようとして、宮中に侵入したが、東部軍司令官田中静壱大将み ずからの説得によって、兵隊は退去しはじめたことが段々に判ってきた。下村情報局総裁 以下、録音に奉仕した一行は、朝まで監禁されていたが、これも無事に解放されたのであ った。私は録音盤が無事であったことを聞いて、ほんとうに安心した。(中略)

 この日は早朝から、正午に重大放送がある旨繰り返し予告していたが、私は、下村情報 局総裁とともに、官邸職員全部をホールに集めて、涙のうちに玉音放送を拝承した。(中略)  私は、どうしても阿南陸相の心事について述べておかなければならないと思う。阿南陸 相は、最高戦争指導会議においても、閣議においても終始一貫、抗戦論を述べられた。そ して終戦の大詔に副著したのち、“一死大罪を謝す”と遺書し、“大君の深きめぐみに浴み し身は、言い残すべきかた言もなし”と辞世の一首を残して自決せられたのである。阿南 大将は、果して心の底から抗戦継続を考えておられたのであろうか。もししかりとすれば、 手段は極めて簡単であって、一片の辞表を提出することによって、鈴木内閣を倒し、あと に軍部内閣を作れば、この目的は達せられるのである。しかも、その機会は、自分自身の 意志によっていつもこれを作りえた。現に、終戦のことが議に上った閣議において、陸軍 大臣が胸のポケットに手を入れられると辞表を提出するのではないかと心配したと左近司 国務相は語っておられる。のちに聞くところによると、終戦の際、陸軍はクーデターの準 備をして、阿南陸相は、これを承諾し、みずからその指揮をとるから、自分にまかせよと いわれたという。当時の情勢において、私たちの最も恐れたものは、陸軍の暴発であった。 阿南大将は、戦争を終結し、一身を無にして、国民のみならず世界の人々を救おうとせら れる天皇陛下のみ心を体し、終戦を実現せんと心に誓っておられたに相違ない。かかるが 故に軍の暴発を最も恐れ、これを抑止するのに心肝をくだかれて、苦肉の策として、クー デターの指揮をみずから引受け、一面、大詔の公布まで閣内の官僚たる地位を保持するた め中途で殺されるが如きことなきよう苦心されたものと私は考える。“一死大罪を謝す”と は心にもなき抗戦論を唱えて、天皇陛下のみ心を悩ましたてまつった罪を謝するとともに 純真一途国体護持の精神によって手段を選ばず、抗戦を継続せんとした軍の下僚に対し、 だましてひきずって遂にその機会を与えざりし罪を謝すという心持ではなかろうか。阿南 大将のみずからの生命を断つことによる導きによって軍の暴発は抑止せられて、日本の国 家は残ったのである。私は時に多磨墓地に大将の墓参をするたびに、大将の生死を超えた 勇気を謝し、小さな墓石に抱きついてお礼を申しあげたい衝動にかられるのである。

 天皇陛下の御仁慈、鈴木総理の信念と舵取りのうまさ、米内、東郷両大臣の不屈の精神、 それに阿南陸相の勇気が、わが国を救ったものである。

 最後に私は、特に、昭和三十年十月十五日の“太平”第五号に(鈴木貫太郎記念太平会 発行)記載せられた当時の侍従長藤田尚徳海軍大将の一文を左に採録しておく。

 『昭和二十一年一月下旬、天皇陛下のご前に出てあることを奏上したとき、陛下は特に 椅子をたまわって戦争につき次のような意味のご述懐をお洩らしになった。

 “申すまでもないが、戦争はなすまじきものである。この戦争についても、どうかして 戦争を避けようとして、わたしはおよそ考えられるだけは考えつくした。打てる手はこと ごとく打ってみた。しかし、わたしのおよぶかぎりのあらゆる努力も効をみず、遂に戦争 に突入してしまったことは、実に残念なことであった。このごろ世間には、戦争を終らせ た天皇が、なぜ開戦前戦争を阻止しなかったかという疑問を抱いているものがあるようだ。 これをもっともと聞く人もあろう。しかし、それはそういうことにはならない。立憲国の 天皇は、憲法の枠の中にその言動を制約せられる。この枠を勝手に外して、任意の言動に でることは許されない半面、同じ憲法には国務大臣についての規定があって、大臣は平素 より大なる権限を委ねられ、重い責任を負わされている。この大臣の憲法による権限、責 任の範囲内には、天皇は勝手に容啄し、干渉することは許されない。

それゆえに、内政、外交、軍事のある一事につき、これを管掌する官庁において、衆知を 傾けて慎重に審議したる上、この成果をわたし前に持ってきて裁可を請うといわれた場合、 合法的の手続をつくしてここまでとり運んだ場合には、たとえそのことがわたしとしては 甚だ好ましからざることであっても、裁可するのほかはない。立憲国の天皇の執るべき唯 一の途である。もし、かかる場合わたしがそのときの考えで却下したとしたら、どういう ことになるか。憲法に立脚して合法的に運んだことでも、天皇のそのときの考え一つで裁 可となるか、却下せられるか判らないということでは、責任の位置にいることはできない。 このことは、とりもなおさず天皇が憲法を破壊したということになる。立憲国の天皇とし てとるべからざる態度である。断じて許されないことである(これは開戦前の御前会議等 のことを抽象的にお述べになったことと想像する)。しかし、終戦のときはまったく事情を 異にする。

 あのときには、ポツダム宣言の諾否について両論対立して、いくら論議を重ねてもつい に一本に纏まる見込みはない。しかし、熾烈なる爆撃、あまつさえ原子爆弾も受けて、惨 禍は極めて急激に加速増大していた。ついに御前会議の上、鈴木はわたしに両論のいずれ を採るべきやを聞いた。ここでわたしはいまやなんぴとの権限を犯すこともなく、またな んぴとの責任も触れることなしに、自由にわたしの意見を発表して差し支えない機会を初 めて与えられた。またこの場合わたしが裁決しなければ、事の結末はつかない。それでわ たしはこの上戦争を継続することの無理と、無理な戦争の強行は、やがて皇国の滅亡を招 くとの見地から、とくと内外の情勢を説いて、国民の混乱困惑、戦死者、戦病死者、その 遺家族、戦災を被ったものの悲惨なる状況には衷心の同情を懐きつつもm忍びがたきを忍 び、耐えがたきを耐えるのほかなしとして、胸の張り裂けるの想いをしつつも、ついにせ んそうを終止すべしとの裁断をくだした。そして戦争は終った。(二回の御前会議を一括し ての仰せと拝す)しかし、このことは、わたしと肝胆相許した鈴木であったから、このこ とができたのだった”』(〇、筆者)

(筆者註。このお言葉を拝承すれば、もう加言する必要もないだろうが、“天皇陛下の―ご 肉体は人間であらせられるけれども、み心は神であらせられる―この大御心が、日本を滅 亡から救った”という事実だけは、日本民族一人残らずが永久に忘れてはならないことで ある。私利、私欲、私心なき神のみ心をもたれた世界史に例をみない君主をいただいてい ることが、日本民族の最大の幸福なのである)

 私は、ここで筆をおくに当って、この二つの大事件が、奇蹟的に良い結果をみたことに ついて、しみじみ思うことは、諸葛孔明の言葉として伝えられる『図事在人、成事在天』(事 を図るは人に在り、事を成すは天に在り)ということと、ドイツのビスマークの言葉とし て、伝え聞いている『われもし、神を信ずるの心なかりせば、一秒間といえども、宰相の 地位にとどまり得なかったであろう』ということである。」(迫水久常著『機関銃下の首相 官邸』)

 かくして大東亜戦争は終った。

 そして、女子教育者としての嘉悦孝の社会的活動も、この終戦とともに終ったと言って も過言ではない。

 七十九年七ヶ月の孝の肉体はなお余命を残し、その精神もまた八十の老媼のものという ほどの衰えを見せてはいなかったとしても、ふたたび先頭に立ってというかつての気力は すでに使い尽くされていた。

 残された人々は、この新しい時代に対応して、学園を再建し発展させるために立ち上が った。

 孝に代ってその使命を担われた平岡市三氏は、やがて新生の参議院議員として繁忙のか たわら、苦心の采配を振るい、その片腕として努力されたのが、嘉悦学園中興の人という べき記内海幸作先生であった。

 この内海先生をはじめ松野惣一氏(のち総務部長)、富所東一氏(のちの会計課長)など の方々の活躍によって、幸いにも校舎の焼失を免れはしたものの、生徒募集は意のごとく ならず、食糧難・住宅難など次々に襲う戦後の荒波の中での学校再建は、筆舌に尽しがた い苦難事であった。

 当時の卒業生数を見てみよう。

 経専(昭和十九年に日本女子高等商業学校から日本女子経済専門学校に改称)

  昭和二十年九月(繰上げ卒業)六八名

  昭和二十二年三月      四七名

  昭和二十三年三月      五二名

 女子商

  昭和二十年三月      一一六名

  昭和二十二年三月      六六名

  昭和二十三年三月      五五名

 嘉悦中

  昭和二十二年三月     一〇二名

  昭和二十三年三月     一四一名

 というような状態で、内海先生などはご自分で生徒募集にまわられたりしたのであった。

 翌二十一年、「いつまでもご好意に甘えていては」と、居心地よかった蘆花邸跡を辞して、 麹町の校内の、教室に疊をしいただけの殺風景な一室に居を移した孝にとっては、校内で 最後の生活を送ることが本望だったのではなかろうか。そして、望み通りに、ここが死に 場所になったのである。

 懐かしい校庭や校舎の、それはたとえ古びたものであっても、少ない人数ながら愛する 生徒たちによって清掃され、すこしずつ昔の息吹を取り戻してゆくのを、窓越しに眺めな がら孝は人々の報告を静かに聞くのであった。

「先生、三輪田さんが校舎をしばらく借りたいといわれますので、お貸ししようと思いま す」

「アア、アア、貸してあげようよ。あちらは姉妹校のようなものだしね」

 内海先生の言葉に、さっそく賛意を表する孝だった。

 こうして、学校もすこしずつ活気を呈してきた。

 この年の六月、筆者はようやく仏印から帰還した。

 さすがの孝も、この時は心から喜んで、大きな目をうるませて、

「これで何もかも揃ったね。あんたが帰れば思い残すことはない。しっかりやっておくれ」

 母や妻、幼稚園に入ったばかりの長男克や、よちよち歩きの長女夕起、弟や妹たちにか こまれた筆者を、孝はこう言って迎えてくれた。

 アニーパイル(当時、接収されていた、現在の東宝劇場)に勤める弟達も、すくない給 料から家計の手助けをしてくれたが、孝と母と妻子三人、それに女学生の妹二人を加えた 一家を養うことは、数年間の兵隊ぐらしからいきなり敗戦の故国に帰った三十の筆者には、 たいへんな重荷であった。昼は松野、富所両氏の協力で学校の事務を執り、夕方から友人 山端庸介君とその父君の経営するサン写真新聞社にアルバイトしたり、他の友人と共同し て芸能社の仕事をしたりしたのも、この時代であった。

 こうした苦境の筆者に、幾度か暖かい救いの手をのばしてくださったのは、法政大学の 先輩宮本享一氏で、いま筆者が学長をしている日本女子経済短期大学専任講師宮本勉君の 父君である。

 八十歳の孝が、夜間も校内の遠い手洗いに通うのを知って、孝の寝室の一隅に手洗を仮 設してくださったのもこの宮本先輩で、氏のご好意はいまだに忘れることのできないこと である。

 それから二年。

 遅々としたものではあるが日本の復興をよそに、灯の消えてゆくように、孝の心身は終 熄に近づいて行った。

 孝は、二十三年の八月から、まったく床についたままの暮らしになった。

 間もなく又、記憶の部分的喪失や混濁がはじまって、会話中一つのことを何度もくり返 したずねたり、訪れる者の顔を、人によっては識別できなくなったりするようになった。

「戸障子を開けておくれ、窓もね」

 暖房も細々とした教室内の一室は、その寒冷もはなはだきびしい、年の暮れの朝である のに、孝は筆者にそう命じた。

 ためらいを感じながら、言われるままにしたが、何やら孝がもう今やこの世におけるも ろもろの処理を終って、ふたたび大自然の懐の中に帰ってゆく準備として、この冷徹した 朝の空気や陽光に親しんでおきたいのではなかろうか、などと考えると、筆者の胸は押し つけられるように痛んで、思わず不覚の涙を禁じ得なかったが、大きい両眼を細く落つけ て静かに呼吸している孝の安らかな顔をみると、横臥した仏像を拝んでいるような気がし て、筆者の心もふと和むのであった。

 あくる昭和二十四年二月三日、最初の昏睡状態がきた。家族も校内に宿泊する内海先生 をはじめ、卒業生の馬場幸さん、松野、富所氏などと手わけをして、親戚や知人や卒業生 などへこの状態を知らせた。

 五日、吉岡弥生女史が、多忙の時をさいて、緊張した面持で見舞にこられ、自ら脈をと って下さったのは、午前十時頃であった。

 その午後三時過ぎ、親類、かけつけた卒業生、学校の人々、そしてわれわれ家族二十数 名に見守られながら、嘉悦孝は八十三年の生涯を静に終った。

 真に、眠るがごとき臨終であった。

「ゴバチャン」

 筆者が孝の耳に口を寄せて大きく叫んだ一言に、孝の喉がグッと鳴ったが、それが孝の 最後の一瞬であった。

 校内の寂寛としたこの一室――、筆者は改めて周囲を見まわした。

 これこそ、教育事業に一生を捧げつくし、一身のために財を積むことをしなかった先覚 者の死にふさわしいではないか、昂然と胸を張って大声で叫びたい心境がそこにあった。

 昭和二十四年二月五日、午後三時十六分。

 馨徳院殿教誉寿昌孝順大姉  俗名 嘉悦孝

               行年八十三歳