あとがき
私はこの小著を、単なる嘉悦孝個人の記録だけに終わらないものにしたいと努力してき たが、書き続けるだけで精一杯で、ついに意図だけに終わってしまった。が、せめてこの あとがきで私の意の存するところだけを述べておきたい。
戦後、個人尊重の行きすぎから、個人が社会や民族や国家から遊離する傾向があり、そ れを不思議と考えない人々を散見する。
その原因は、ヨーロッパ文明の個人主義の履きちがえと、それから導き出された利己主 義、さらにこれを助長する唯物論の横行である。
しかし、個人の記録、個人史は、その属する民族・国家の歴史の中に存在し、それはさ らに世界史の中に包含されている。
嘉悦孝という一日本女性の生涯は、日本史の中の短い一ページである。
とすれば、嘉悦孝の精神、理想、信念、事業を解明するには、すくなくとも明治維新以 降の日本の動向と状態を無視することはできない。
ここで、勅語だ、ご詔勅だなどというと、時代逆行の反動者あつかいされそうだが、し かし日本現代史においては現実のことであり、この実在を無視して現代日本史を見ること は、単なる否定のための否定であって、日本人としての正しい態度とは云えない。
ともあれ、私は一日本人として、政治的理念の根拠として“五箇条のご誓文”を、教育 的理念の根拠として“教育勅語”、日常生活とくに大東亜戦争後の理念的根拠として“終戦 の詔書”を基礎とすべきだと考えている日本人の一人である。
五箇条の御誓文の(一)広ク会議ヲ興シ、万機公論ニ決スヘシ。(これは議会制民主制と その精神面において同質である)(一)上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行フヘシ。(上下と いう言葉にこだわる者もあろうが、日本民族が心を一つに合わせて政治の振興を計ろうと いうことで、民族の心が現在のように分散・遊離していては、政治の振興ができないこと の戒めである)。(一)官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン 事ヲ要ス。(これも、庶民に至る迄の句に目の色を変える左目流もいるかもしれないが、日 本民族の一人残らずが、自分の気持を遂行することができるようにし、遊惰な心にならな いようにということで、支配者のための理論ではない)(一)旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公 道ニ基クヘシ。(正しく進歩的であり、かつ大局的である)(一)知識ヲ世界ニ求メ、大ニ 皇基ヲ振起スヘシ。(これまた、皇基という言葉を、とかく何事もミクロに解釈したがる左 目論者は、鬼の首でもとったように、半人民的表現だというだろうが、明治維新において は皇基という表現はしごく普通のことで、私はこれを、日本民族は天皇陛下を中心として、 日本民族全員が広く世界の知識を求めて、日本の国連を振起させようという意味に解釈す る)
これとフランス革命の人権宣言とを、日本人の心の目で比較してみよう。人権宣言はた しかに個人の尊重と自由の確立に焦点がおかれている。しかし個人の尊重がいきすぎると、 個人の自由は確保できたとしても、他人の自由を疎外する結果になる。国鉄の順法ストや 日教組のストはその顕著な一例である。フランスの人権宣言よりも日本の五箇条の御誓文 のほうが、個人の尊重をしながら大局的見地に立っているし、これは決して支配者のため の宣言や理論ではない。しかも政治だけにとどまらず、日本民族の正しい理念とあり方を、 見事に表現している、世界に冠たる日本哲学の精華と言っても過言ではないと考えている。 教育勅語も、明治二十三年のこの頃としては至極普通の表現なのであって、“我カ臣民” とか“皇運ヲ扶翼スヘシ”などの語句を云々する沈歩的珍化人もあろうが、私などはいま だに臣康人と思っているし、“皇運”は日本の将来を考え、この内容にある“皇祖皇宗国ヲ 肇ムルコト宏遠ニ”から“教育ノ淵源亦ニ此ニ存ス”までは日本史の正しい要約で、“父母 ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ 以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進て公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ一旦 緩急アレハ義勇公ニ奉シ”という点については、単に日本人だけでなく、人類全員が遵守 しなければならない人倫の大道で、しかも、陛下は、国民と一心同体になってこの人倫の 大義を人類全体に広めるよう努力しようと仰言っておられるのだと理解していると同時に、 教育のためだけでなく、人間の生きるための根本理念であると信じている。
そして、終戦のご詔勅は、日本国民にとどまらず交戦国の人々をふくめた多くの人々に、 これ以上の犠牲者を出すべきではないとお考えになられた陛下が、“自分はどうなっても よい”というご決意の下にご発表なされたものである。大東亜戦争終戦後の、困難な国家 再建に対して、陛下ご自身も国民とともに“堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ”、“万世ノ為 ニ太平ヲ開カムト欲ス”と仰せられておられるのであって、大東亜戦争に辛くも生き残っ た吾々に対する血涙ともに下る大御心に基くお訓しの言葉である。私はこれを戦後の日常 生活への励みの理念として受けとめて、今日まで生き続けてきたのである。
私は、この理念を基礎として、嘉悦孝の生涯を綴ってみたつもりであるが、まさに意あ れども筆及ばずであった。
最後になったが、ここに私の心の恩師林房雄先生に衷心からのお礼を申しあげたい。
先生は、この拙稿に対して、文字どおりの寸暇をおさき下さって、校閲をしてくださっ た。にもかかわらず、私の拙筆はしょせん拙文にすぎなかった。
だが、私の未熟な心でも、心は林先生のお心にどうにかつながっていたようである。
それは、大宅壮一氏の『炎は流れる』にあった乃木大将ご夫妻の殉死にまつわる一章に ついてである。
林先生の『緑の日本列島』が先日“浪曼”から出版されたので読ませていただいていた ら、その一五五頁に嘉悦孝が出てきたのである。
「抵抗する武士精神
乃木夫人は妻の典型。
日本女史商業学校長嘉悦孝子女史の感想は、さらに積極的である。
『妻として夫に殉ずるのは当然のこと、最も立派な典型と思います。……夫人は女らしい 妻として、今の惰弱な世に好模範となられましたので、私は実に神だと思います。……乃 木さんが育てられた多くの人の中から小乃木が出来、さらに育って大乃木が出来る日の来 ることを望ましいのでございます。夫人は質素な生活の模範となられていたことは、私の 最もうれしいことで、現今の夫人方が日用の費用も定めないで、余裕のない生活をしなが ら、外見を飾って苦しがっておられる。・・・・・・私はまさかの時の死ぬ覚悟に、さっそく死に方を習いました。死にかけて死に切れずにのた打ちまわって見苦しいさまではとね。そ れで懐剣を出してみましたら錆びておりましたから、さっそく研ぎにやりました。きっと 女子商業にやると自殺をまっ先に教えられると、恐れる方があるかもしれませんよ』と大 笑された、とある。
今ごろ、こういうことをいう女子教育家がいたとすれば、それこそふくろだたきにされ るにちがいない―と大宅氏は書いているが、そのとおりかもしれぬ。だからといって、嘉 悦女史があく女史だとは言えぬ。私は私たちの世代がこのような母のもとで育ったことを 幸いだと思っている。
たしかに、矢島、跡見、嘉悦女史は明治の女性だ。明治の女流教育家たちはこのような 考えを持っていた。敗戦日本の『常識』で笑いとばすことはやすいが笑ってすむ話ではな い。」(、嘉悦)
これを読んで、私はその偶然に驚くとともに、この小伝の中に、先生の一文を拝読しな いで大宅氏の一文を入れたことに、先生との目に見えない心の糸のつながりに気づいた。
同時に林先生が孝の考え方を肯定しておられることに、限りない喜びを感じるのである。
いや、私の喜び以上に、嘉悦孝は林房雄先生の“だからといって、嘉悦女史が悪女史だ とは言えぬ。私は私たちの世代がこのような母親のもとで育ったことを幸いだと思ってい る”という評価に感じ入っているにちがいない。
最後に、小著の出版に際して、多大のご協力を頂いた方々と私のために努力してくれた竹 内十蔵君、これらの方々に心からお礼を申上げる。